16.そして輪廻は繰り返される

 華暦四一五年。気がついたとき、幼女の視線の先には嫌というほど見慣れた天井があった。体が思うように動かないのは、十五歳の体を操っていた感覚がまだ抜けないからだろう。

 幼女はベッドから起き上がると、おぼつかない足取りで姿見の前に立つ。見飽きた淡いミント色の髪と、白い肌。鏡にはイベリスよりも小さな背丈と幼い顔つきが映された。そしてこのとき、ようやく彼女は理解する。輪廻を経て、またこの家に帰ってきたのだと。

 「……おはよう、シオン」

 自室に入ってくる女性は穏やかな面持ちでこちらへと近づいた。幼女はこのとき、自分の新しい名前がシオンであると認識した。

 そして彼女は、目の前に立つその女性が今の母親なのだと本能的に理解する。しかし彼女には、ひとつ気がかりなことがあった。

 「お、おばさまは? どこ……ですか?」

本来そこにいるはずだった老婆をの姿が無い。イベリスの母親役であったあの老婆は、名をアイサといった。

 アイサはかねてより、『輪廻の血族』を出生から十五年間世話する母親役を請け負っていた。村ではかなり高齢ながらも、彼女が与えてくれた愛情はシオンの記憶にも新しい。しかし残酷な現実は、あまりに呆気なく告げられた。

 「おばさまはね、亡くなったの。一年ほど前だったかしら」

シオンが取り乱すことは無かった。彼女は幾重も母親の死を経験しているのだから。

 「そう……ですか」

 「突然のことだったわ。天照守あまてらすが乱されたことによる裁きと噂する人もいて……」

そのとき、新たな母親役の女性はすぐに話を止めた。

 「ご、ごめんなさい――」

シオンはその言葉を受け入れる。彼女にも分かっていた。イベリスによる天照守あまてらすからの逃亡で、自身の信頼は失墜しているのだと。

 「大丈夫……です。見た目は子供に戻ってますけど、心はそのままですから」

 物心がついた途端に流暢に言葉を話し始める幼女は異様である。母親はまだ小さな娘が発した気遣いの言葉に何も返せない。まだ慣れない母親役にはよくあること。だからシオンは、さりげなく話をとりとめのないものへ変えることにした。

 「……この感じだと、私は三歳くらいでしょうか?」

シオンは自分の縮んだ体を見回しながら尋ねる。妙にかしこまった言葉を扱う幼女につられ、女性も敬語で応じた。

 「そ、そうですね」

 「やっぱり。いつも物心つくのが三歳頃なので、もう感覚で分かっちゃうんです」

しかし会話はそこで途切れた。距離感の掴めない母親役を気遣ったつもりが、自身もまた言葉が詰まってしまった。

 長い時を生きるシオンには数多の母親がいる。それゆえ少女もまた、母親役との距離感が掴めない。だから最初は、いつも敬語になってしまう。

 沈黙を断ち切ろうと、またシオンは口を開いた。

 「もうひとつだけ……伺ってよいですか?」

 「え、ええ。何が知りたいのでしょうか?」

またとりとめのない話を仕掛けて、少しずつ距離を縮める。その程度の目的のために話題を作ったはずなのに、彼女は今本当に聞きたいことを口にしてしまった。

 「……その、グラジオは、あの後グラジオはどうなりましたか?」

イベリスの遺した記憶は、深く深く刻まれていた。いかほど重大で口にしがたい話題であるかは重々承知している。それでもこれだけは聞いておかないと後悔する気がした。

 母親役の女性は俯く。

 「それが、あなたを連れ去ったという男の子の名前ですよね……」

 「はい。あの日、イベリスと出会った男の子です」

 「……その男の子のことは、何も話すなと言われています。ごめんなさい」

村の平穏を乱した出来事について言及が避けられることは、彼女でも予想がついていたはずだった。それでも小さな肩は自然と落っこちる。分かっていたはずなのに、どこかもどかしい。

 「そう、ですか。わかりました」

 その日以来、シオンはグラジオを探ることを辞めた。何周したかも分からない本を読み、慣れ親しんだ二階の窓から新たな色彩を求める日々が始まる。村の広場の一角に並んだ馬車の隊列はもう無い。、調査隊が村を訪れたあの時間が、もうはるか遠い過去に思えた。

 日常という言葉以外では形容できないただ平凡な日々が、終わりへと向かっ漫然と過ぎてゆく。それは退屈ありながら、安定であった。




 華暦四二二年。シオンは十歳になった。そしてシオンの人生は、この暦を境に大きく揺らいでゆく。母親が口にした一言が全ての始まりだった。

 「シオン。外にでましょうか」

 いつも通りの昼下がりになるはずだった。窓から風を浴びながら穏やかな村の様子をぼんやりと眺めていたとき、シオンの耳に聞き流せぬ一言が飛び込む。それは彼女が村で生きた三百有余年で、初めての試みであった。

 「……ほ、ほんとうに、よろしいのですか?」

 「ええ。長老様のご意向よ」

 あまりに突然なことでシオンは少し戸惑う。それでも、家の外の世界を知るという彼女の念願の思いが、今まさに叶おうとしている。長い時間愛してきた、窓という名のキャンバス。そこ刻まれた変容し続ける色彩へ、今ようやく溶け込める。欲し続けた機会を思わぬところで与えられたシオンは、満開に微笑んだ。彼女の声色には、こいねがい続けた望みが叶うことへの嬉しさが滲む。

 「……私は知りたい。私が守ってきたこの村を。だから行ってきます。見てきます!」

 少女は村を知りたかった。それは彼女が、自身が生贄として村を守る価値を見いだしたかったからかもしれない。十五年に囚われ続ける人生が、イベリスの望んだ長く自由な人生に勝るものだと思いたかったからかもしれない。




 日差しが差す時間に村の土を踏んだのは、彼女が村に生きて三六○年で初めての経験だった。赤ん坊の体でここまで運ばれてから駕籠かごで聖火台の上の舞台へ運ばれるまで、彼女が明るい土を踏むことはなかったのだから。

 「夕刻までには戻るのよ」

 母親は玄関に立つと、少しだけ微笑んで送り出す。娘の見せた笑顔に母親が心が弾ませることは当然だろう。

 シオンは大きな声で返す。まるで右も左も分からぬ、天真爛漫な人間の娘のように。

 「わかりました……!」

 「ちょっとシオン、靴は?」

 「いらない。窮屈だから!」

そしてシオンは、裸足のまま歩み始めた。

 幸福を噛みしめながらも、シオンは自身が家から解き放たれた理由になんとなく察しがついていた。それはイベリスのおかげとでも言うべきだろうか。きっと長老は、イベリスの逃亡が過度な抑圧によるものとでも考えたのだろう。きっとこれは、抑圧を緩和するための施策にすぎない。

 それでもシオンにとって、そんな背景などどうだっていい。彼女はただ、かねてからの願いを満たすだけだ。

 住み慣れた家の方へと振り返る。そこから眺める二階の窓は、いつもと逆側から覗くキャンバス。初めて目にする構図だが、何故か思い出してしまう。もう考えないはずだったのに。

 「彼はここから、私を見上げていた。そして私はあそこから、彼を見下ろしていた」

 あの日イベリスはグラジオへ、忘れて欲しいと口にした。それでいいと決めて言葉にしたはずなのに、イベリスの記憶に刻まれた彼の姿は、彼女の長い記憶の中であまりにも印象的すぎた。

 側方へと視線を移せば、大木がひしめき合う森と草原帯である村の境界が視界へ広がる。見慣れたはずの森なのに妙に印象深い。それはあの日、グラジオに手を引かれ飛び込んだ場所だからだろうか。

 「やっぱり、無理だ。なんであのとき、素直になれなかったのかな」

 長い命の中で、新しい経験だった。それは家の中にあるどの本にも載っていない知識。"素直"というものは、こんなにも難しい。

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