15.リナリア=『この恋に気づいて』

 「――うぬは先程、諦めないと言ったな。色目でも使われたのかは知らんが、またあの化け物に関わる気なのだろう」

 アジサは古風な口調を並べながら、グラジオの襟を掴み上げて強引に半身を起こさせる。ある男衆はその暴挙に耐えかねて声を上げた。

 「アジサ殿。イベリス様はその者に手を出すなと言いました……」

アジサは笑みを貼り付け、その声を平然と押しのける。

 「……それは、そこで泥まみれの肉塊になった者の名だったかの? 妾は覚えておらんな」

アジサはグラジオを引きずりながら、おもむろに歩を進めた。男衆は女の意図が分からずとも、ただそれに続く。

 アジサは振り返らずとも、背後の男衆へ言葉を送る。

 「なにゆえ輪廻の血族という気味の悪い生き物に、うぬらが敬語を用いるのか。妾は理解に苦しむな。やはり女の真似事をしているから、殺すことに罪悪感でも沸くのか?」

男衆は黙り込む。女の言葉は追い打ちのように続いた。

 「生贄として殺すことへの罪滅ぼしなど、あれには必要ない。元来生贄とは死ぬことが仕事であって、何度でも蘇る化け物はまさに生贄が天職なのだから」

 そしてアジサの足が止まる。日の出が彼女の顔を照らし出した。

 日の出が視界に映り込むのは、大木のひしめく森を抜けたからではない。切り立った崖が、彼女の行く末を阻んだから。皮肉なことにも、例えグラジオとイベリスがどこまで逃げようとも、最後にはきっとこの崖で追い詰められていたのだろう。

 崖を見下ろせば、そこにはエメラルドグリーンの林冠が揺れる。そこらの大木が持つ葉と遜色無いはずだが、どこか不気味に輝いた。

 アジサはまたグラジオを少しばかり持ち上げる。襟で少年の首を絞まり上がるが、女は構わず口を開いた。 

 「妾らヒペリカの民は、輪廻の血族を利用し続ける。それを脅かすうぬは厄災なのだ」

女は何かしらの返答を期待するように間を開けるが、グラジオには返答する体力も精神も残ってはいない。

 アジサはそれを察すると退屈そうな顔を浮かべた。そして次の瞬間、女は彼の身を躊躇無く崖の底へと放り捨てる。あまりにも端的な餞別の言葉と共に。

 「……命で償え」

 少年の体は宙を舞い、重力のままにエメラルドグリーンの絨毯へと吸い込まれた。男衆はその女の無慈悲さにただ唖然とする。




 気付けば太陽は完全に露わになり、夜は完全に更けていた。いつもと変わらぬ快晴の空が広がる中、イベリスの亡骸には淡い光が宿る。光は小さな粒子となって空に舞い上がった。輪廻の始まりである。




 アジサ率いる男衆が村へと帰還したのは、その日の昼下がりだった。イベリスが生贄としての使命を果たしたこと。グラジオという少年が生贄の少女を連れ出した犯人だということ。そしてその少年はアジサによって殺められたこと。その全てが長老へと伝えられた。

 無論、一連の騒動は村中に広まった。そうすればおのずと、村人たちの調査隊に対する視線は冷ややかなものになる。調査隊の一員が村で最も重要な儀式を妨害したともなれば、それは致し方ない。




 「――ここまでだ。これ以上の交流は、互いに益がなかろう。即刻村を出たまえ」

 長老であるパドは、バルディアへと告げた。そしてバルディアは全隊員に対し、ヒペリカ村からの撤退命令を下す。

 村からの撤退のみならず、バルディア調査隊は大森林・チョウランでの全調査を断念した。五台の馬車は、少年一人分だけ身のこなしを軽くしてヒペリカ村を後にしてゆく。




 先頭の馬車にて。重たい空気が蔓延るなか、隊員の一人はしびれを切らしてバルディアに尋ねた。

 「本当によろしいのですか? 村を出たとしても、森にキャンプ地を設けさえすれば、まだ調査の続行は可能です!」

 「いや、いかん。バルディア調査隊は、もうこの森へ干渉しない」

 「で、でも……」

 「駄目だ!」

そのときバルディアの怒号が飛んだ。重たい空気は一挙に張り詰める。

 バルディアは落ち着きを取り戻して言い放った。

 「この森の現象は、我々のような外界の人間が干渉していい代物ではなかった。我々はそれに触れたから、こうして仲間を失った。違うか?」

 「それって、あの雑用の――?」

 「ああそうだ。グラジオは村の禁忌を犯した。だがあいつは間違ってない。あいつはただ……」

少年の行動を擁護したいバルディアは、それをうまく言葉にできず頭を抱えた。隊員たちには、その背中がやけに小さく見えてしまう。

 バルディア調査隊は、結成されてから八年が経つ。以来、仲間を失うという経験は今回が初めてだった。愛娘とそれほど年齢も変わらぬ若い命、それも自身が勝手に連れ出した少年の命を守れなかった。感じる責任は大きい。

 バルディアは顔を上げて詫びた。

 「すまない。情けないとこを見せてしまった。忘れてくれ」

くしゃくしゃにしてしまった髪をおもむろに戻し始める。情けない己を隠すと、すかさず隊員の男に決意を伝えた。

 「これは隊員を守るための決断だ。私はこれ以上仲間を失うくらいなら、私の掲げた調査隊としての誇りを殺す」

 そしてその男は、恥ずべき手ぶらでの帰還を選んだ。




 終わりの秘境。『時届きの花畑』の中央に佇む、古びた小屋にて。男衆の一人は、酷く立て付けの悪い小屋の扉を開く。イベリスの母であった老婆は、小屋の中へ小さく一歩を踏み入れた。

 「……おかえりなさいませ」

老婆は慣習通り、そこで手を合わせ一礼する。小屋の中央には、床板を突き破るようにして残された平たい石。その上には、すやすやと眠る赤ん坊の姿があった。

 老婆はその赤ん坊をそっと抱きかかえる。うっすらと生えた淡いミント色の髪と、病的に白く透き通った肌が、イベリスの面影と重なった。

 「シオン。あなたの名は、シオンよ」

老婆は赤ん坊に優しく語りかけた。続けて村の慣習に則り、老婆は定められた文章をなぞる。

 「ヒペリカの民のため、確かにお命頂戴いたしました。僭越ながら、来たる十五年後のこの日まで、お命預かり申し上げます」

こうしてまた、少女の新たな一生が始まった。




 目まぐるしい一日は、呆気なく終わっていく。調査隊の誰もが日の入りをあっと言う間に感じていた。帰路に就くバルディア調査隊は大森林・チョウランに到達した初日と同じ場所をキャンプ地とし、そこでまた一夜を明かすこととなる。

 バルディアの指示により、隊員たちがチョウランで採取したサンプルは全て破棄された。目の前に謎が広がろうと、もうそれに触れることは許されない。そんな暗い雰囲気を引きずったまま食卓が囲まれた。

 並んだ夕食は、いつもに比べて切り方も取り分けも不揃いだった。きっと慣れない隊員が準備したせいだ。彼らは心のどこかで雑用の大切さを知らされる。

 静寂の中、一人の隊員が横の者へ小さく愚痴を零した。

 「……なあ、サンプルまで捨てちまうことないよな。お前もそう思わねーか?」

 「ま、まあそりゃ。折角見つけた珍しい物なんだし……」

彼らは小さな声で本音を露わにする。すぐ傍で食事を共にしていたキキョウは、思わずその会話に割って入った。

 「ばーか。隊長はな、お前らからここに対する興味を奪う為に捨てろって言ったんだよ」

年下であるキキョウに罵られた隊員の男は、やや感情的に反論する。

 「……俺は植物学者だ。植物を専門とした研究者として、この森を諦めることはできない。だからきっと俺はまた、ここの調査に戻ってみせる」

あっけらかんと振る舞っていたキキョウだったが、ついに声を荒げた。

 「だからな、隊長はお前みたいな奴が死なない為にここを出ようとしてんだよ! 分かれよ馬鹿が!」

 「死ぬってのは、あの雑用の話か? あいつは勝手に一人で死んだんだ。迷惑な野郎だぜ」

 「グラジオを馬鹿にするな! あいつは間違ってねえ!!」

キキョウは立ち上がると、その隊員の胸ぐらを掴み上げる。バルディアはそこへ歩み寄り、熱を帯びた彼らを静止した。

 「おいやめろ! 落ち着くんだキキョウ!」

 「……ったく……気分悪ぃ」

キキョウは素直に男の胸ぐらから手を離し、颯爽とその場を後にした。




 つい頭に血が昇ってしまった。その場に座り直すには決まりが悪く、食事の席を外してしまったキキョウだったが、狭いキャンプ地にたいした行き先はない。とりあえず彼らの視界から外れようと、青年は一番遠くの馬車の裏へと回り込んだ。

 するとそのとき、彼の視界に映る小さな人影が一つ。それは馬車に背中を預け、ただずっと下を向いた。

 「あれ? リナリアか。おまえの寝床の馬車、こっちじゃねーだろ?」

 「……うるさい」

 「うるさいって……まあいいや。えーと、飯食ったのか?」

 「食べない」

 「おいおい、あんまサルビアさん困らせんなよ」

 「……うるさい」

 キキョウは適当な会話でリナリアを馬車へ帰そうとするつもりだった。しかしながら、あまりにも思い詰めている様子の少女を放っては置けない。仕方なく彼女の本心に触れた。それに彼は、以前から何となく察しが付いていたから。

 「……まあ分かってるよ。どうせグラジオのことだろ」

リナリアは顔を上げると、分かりやすく動揺した。少し重い空気が流れると、その少女は絞り出すように返答する。

 「私が止めてれば、グラジオは死ななかった」

 「……」

 「私のせいで――」

 「違えよ馬鹿。誰のせいでもねえっての」

励ましのつもりだったが、彼女からの反応は無い。しばしの沈黙が続いた。気まずくなったキキョウはふと空を仰ぐ。

 そしてリナリアは、ようやく沈黙の時間を破った。

 「私、グラジオに酷いことばっか言ってた」

 「お、おう……まああいつは、別にそんなの気にするタチじゃないだろ」

 「なんでだろう……思っても無いことばっか言っちゃって」

 「……まあ、人間素直になれないこともあるもんよ」

 「……」

 「お、俺だってさ、昔は好きな女の子にちょっかいだして嫌われたもんだぜ」

 「べ、別にそんなんじゃ……!」

 「そういうとこ、俺もお前も同じだ。素直じゃねーところが」

キキョウは少し得意気にそう言い残すと、別の馬車の方へ歩み出す。

 「サルビアさん心配させる前に、馬車戻れよ」

 「……うるさい」

震えた声がキャンプ場の隅に響く。リナリアの頬には涙が伝った。






○リナリア

科・属名:オオバコ科ウンラン属

学名:Linaria bipartita

和名:リナリア

別名:姫金魚草(ヒメキンギョソウ)

英名:Clovenlip toadflax, Linaria

原産地:ヨーロッパ、北アフリカ

花言葉:「この恋に気づいて」


※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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