14.イベリス=『初恋の思い出』

 グラジオはイベリスの細い手を引き、黎明の大森林を縦横無尽に駆け巡った。命を狙われるという感覚は当然初めて体感するものであり、生物としての本能的な恐怖が体へと訴えかける。体は意志に反して震え強ばった。

 それでもグラジオには守りたいものがある。守らなければならない。少年は追っ手を振り切る為の最善策を採るべく、冷静な思考を取り戻そうと足掻いた。

 そのとき森は様相を変える。二人がただ死に物狂いで飛び出した先は、一帯の木々が禿げた背の高い草原だった。あたり一面にこれといった遮蔽物はなく、一度そこへ飛び出してしまえば矢から容易に逃れる術は無い。それでも二人が追っ手から逃れるには、草原を越えた先に続く向かい側の森林へと紛れるのみ。残されたのは茨の道だった。二人はその一本道に運命を託す。

 イベリスは一度だけ踏み留まった。

 「グラジオ、ここじゃ……」

しかしグラジオはその迷いを払拭させる。

 「ここしかない。いくよ――!!」

そしてグラジオは、その腕で軽々とイベリス姫を抱えた。雑用で鍛え上げられたグラジオの腕は、イベリスの体重など取るに足らない。

 イベリスは有事であると理解していながらも、思わず震え声を上げた。長い記憶の中で、抱擁を受けるのは初めてだったから。

 「ち、ちょっと――!?」

 「大丈夫だから。身を丸めて、できる限り僕の背中に隠れて」

イベリスの瞳に映るグラジオは、もう気弱な少年などではない。紛れもない、救いの手を差し伸べた王子。

 しかしそんな一幕は、虚しくもすぐに終焉を迎えた。グラジオが背の高い草原の半分ほどを駆け抜けたとき、背後から悪寒を招く声が響く。

 「――撃て!!」

 男衆の合図も束の間、曲射して放たれた雨のような矢がグラジオたちを襲った。他の小隊も合流したのだろう、矢の物量は桁違いに増勢している。このまま開けた草原に居れば、二人まとめて射貫かれてしまうのは瞭然だろう。

 そのときイベリスは、斜め前方を指差してグラジオに訴える。

 「グラジオ、あそこ!!」

細い指の先にあったもの、それは草原の中に折り重なって支え合う倒木。グラジオはそれを目に捉えると、全速力でその下へと滑り込んだ。直後、周囲には矢の雨が降り注ぐ。まさに間一髪であった。

 乱発される矢は、数秒間に渡り二人を木の下へと拘束する。それでも一斉掃射が終われば、男衆も次の装填にそれなりの時間を要する。放たれた矢が草を裂いて木を刺す音が静まったとき、グラジオはイベリスを抱えたまま、怯むことなく倒木から飛び出した。

 「今だ! 今のうち向かいの森に入るよ!!」

少年は残る力を全て絞り出し草原を駆ける。森に入りさえすれば、二人の道は開けるのだ。

 男衆は弓の再装填を急いだ。そのとき後方から、忙しない男たちを嘲笑する女がひとり。

 「――うぬらは下がっておれ。妾が仕留めてみせようぞ」

その妖艶な女は長い黒髪を揺らしながら、武装した男衆の合間を縫って前に出た。

 男衆の指導者は易々とその席を譲る。

 「ア……アジサ殿。お力添えください」

 「こんな狩りの一つもできぬとは、うぬらも堕ちたものよ」

女は不敵にも男衆を侮辱すると、きらびやかに装飾された弓を軽々と引いた。その刹那、鋭い矢は放たれる。そして放たれた矢は、もうあと一歩で草原を抜けるところだったグラジオの右大腿を撃ち抜いた。

 無情にもグラジオは、右脚の制御を失って転倒する。腕から放り出されたイベリスは、勢いよく地面に打ち付けられた。彼女はすぐに体勢を取り戻すと、すぐにグラジオの元へと駆け寄る。

 「グラジオ――!!」

グラジオの右脚からはおびただしい血が流れ出た。イベリスは取り乱しながらも、すぐに落ち着きを取り戻す。彼女はグラジオの腕を肩に回して体を持ち上げようとしたが、彼はそれを拒否した。少年は痛みに悶えながらも、捻り出すようにして呟く。

 「逃げて。早く……」

グラジオは自身がもう動けないことを察していた。だからせめて願った、少女が一人で自由を勝ち取ることを。

 「そんなことできない! あなたを連れて行く!!」

 「……無理だ……早く……追っ手が」

 「グラジオとじゃないと、意味ないの!!」

イベリスは諦めなかった。それでも彼女に、自身より一回り以上大きな男の体を持ち上げることは叶わない。

 「――これ以上はおやめください。イベリス様」

 気づけば男衆は、二人が足を止める森の側へと辿り着いていた。イベリスは思わずそれに怯むが、グラジオはただ必死に諭し続ける。

 「逃げ……るんだ……」

少年から繰り返される言葉を受け、イベリスは俯き噛みしめる。苦渋の決断を迫られた。

 そして彼女は決断を下す。イベリスはグラジオの腕を肩から外すと、もう一度地面へ彼を優しく寝かしつけた。そのまま彼女はまるで少年を守るかのように、男衆の前へと立ち塞がる。

 男衆の一人は立ちはだかる少女をもろともせず、ただ冷酷に尋ねた。

 「その者があなたを連れ出したのですね。名をお聞かせください」

 「彼は関係ない! だから彼には、手出ししないで!!」

少女の怒号が響く。それは彼女の長い記憶の中で、初めて沸き起こった感情だった。

 しかし男衆が小娘の怒りに動じる訳はなく、彼らはただ鋭い視線を彼女に突き刺し続ける。敬語を用いながらも、それを心から敬う本意は見受けられなかった。

 イベリスは諦めず、説得を試みる。

 「私が彼を巻き込んだの。だから彼は見逃して! どうか……どうかお願いします」

イベリスは跪き両手を地面に揃え、易々とそこに頭を付けた。彼女は何よりも、自分のためにグラジオが殺されることを恐れていた。

 「……いいでしょう」

 男は一歩ずつイベリスに近づく。弓を手放すと鉈に握り替えると、薄っぺらい敬語で粛々と告げる。

 「それでも、我々はあなた様をここで殺めなければなりません。それが村を守る為であり、あなた様の使命にあられるからです」

イベリスはそれに返答しなかった。顔を上げた少女は、跪いたまま少年の方へと振り返る。

 「……グラジオ、ごめんね。あなたは全部投げ捨ててここまで来てくれたのに、結局私はいつも通りのお終いみたい」

 「駄目だ……逃げろ……」

 「でも生きてさえいれば、あなたは私に教えてくれた、あの素敵な夢を追える。これからたくさんの人に出会って、もっと幸せになれるよ。だからさ、私のことなんて――」

そのときグラジオの掠れ声は、ただならぬ気迫を帯びて宣言した。

 「僕は諦めない!! 絶対に君を救い出す――!!」

その情動へ揺さぶられるように、イベリスの頬には涙が伝う。その返答を、心のどこかで期待してしまっていたのかもしれない。

 イベリスは年相応に、ただ爛漫な笑顔を見せて応じる。

 「……ありがとう。忘れないから、グラジオ――!」

 彼女の人生は、いつだって単調だった。イベリスの名を与えられて歩んだ一五年の人生は、今まで繰り返してきた一五年刻みの人生の中で間違いなく、最も彩られたものだった。だから彼女は、迫り来る死が怖くない。イベリスは生を謳歌していた。

 男の鉈がイベリスの細い頸をはね落とす。少女は笑顔のまま旅出った。




 白い肌は噴き出す血で染められてゆく。ミント色の髪と共に切り離された頭は宙を舞い、生い茂る雑草でふわりと受け止められた。残された胴体はゆっくりと力無く倒れ込む。先程までずっと側にいたはずの少女は、無惨な姿で横たわる亡骸へと変貌した。

 そしてグラジオもまた、土に塗れ横たわる。湿った土と止まらぬ涙で顔を酷い有様にしたまま、狂気を孕んだ叫び声が零れた。心の中に溜まった混沌の感情は一口に説明できないが、少年はその瞬間に復讐を望んだ。

 妖艶な女は男衆の元へ遅れて合流する。その女は男衆を掻き分けると、真っ直ぐにグラジオへと歩み寄った。

 「よくも邪魔してくれたものよ。大森林・チョウランの天敵よ」

グラジオに降り掛かる低い女の声は、確かに恨みの籠もった呟きだった。

 そして女は続けざまに、後方の男衆へ一方的な意向を告げる。

 「こやつはここで殺す。異論無いな?」

グラジオを穢れたもののように見下す女は、男衆を率いる筆頭弓矢取ゆみやとり。名をアジサといった。






○イベリス

科・属名:アブラナ科イベリス属

学名:Iberis spp.

和名:イベリス

別名:キャンディタフト、屈曲花(マガリバナ)、常盤薺(トキワナズナ)

英名:Candytuft

原産地:地中海沿岸

花言葉:「心をひきつける」「初恋の思い出」「甘い誘惑」


※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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