13.家出少年と家出少女
その幼女は花畑で慎ましく暮らす。花と共に陽を浴び、花と共に水に触れ。共に暮らす蕾たちは季節も時期も考えず、皆が思い思いの時期に花を咲かす。ゆえに花畑は、どんな瞬間も絶え間なく虹色に染まった。
「……そう。あなたが花を咲かせるのは、あと何万回も夜を越してから、なのね」
その幼女には、花と対話する力があった。彼女が両手で花に触れれば、その花は全てを教えてくれる。いつここへ訪れ、いつ花を咲かすのか。何を見て、何を思ったのか。
「――あら、今日は随分と賑やかね」
彼女が目覚めてから、もう一万回は夜を越しただろうか。代わり映えしない快晴の日。その森は急速に成長し、花畑を囲うように若木が育った。そしてその誕生を祝福するように、野鳥や小さな虫が花畑に集う。
とはいえ、まだ森は生き物が住まうには若すぎた。それでもなぜ彼らはこの花畑へ集うのか。少女にはまだ分からなかった。
「今日も遊びましょう」
少女はいつも通り鳥たちの元へ駆け寄ろうとする。しかしそのとき、少女は久しぶりに転んだ。
「あれ……?」
若木の葉を集めて器用に作った装束から、少しばかり葉がこぼれ落ちる。右足に巻き付けた若木のアンクレットを心配し、咄嗟にそちらへ視線を移した。
そして少女は異変を知る。少女の足はまるで老木のように、皺だらけの弱々しい姿に変貌していた。そこに触れようとも、もう寸分の感覚も無い。動かそうとも、もう思うように応じてくれなかった。
『輪廻の血族』は、まるで多年草が長く花を咲かすように、長い期間を少女の姿で生きる。彼女は幼い姿のまま、およそ五〇年の時を送っていた。そして彼女はまた、記憶の解錠を体感する。
「……近づいてきてる。私の死が。そして……新たな生が」
そこからの記憶は、これまで以上に曖昧だった。体は次第に細く弱々しく変貌し、枯れゆく植物のように皺を増やしていく。同時その体からは少しずつ自由が奪われていった。
「……おはよう……お花たち」
平たい石に腰を下ろしたままの毎日が続く。この石の上で生まれた日はもはや懐かしい。
皺は容赦なく、じわりじわりと体の末端から侵食を進めた。ついにそれが顔へ近づけば、もう目の前の虹色も、花のほのかな甘い香りも感じ取れなくなってしまった。
少女の形をした花には、着実に一歩ずつ死が迫っていた。それでも彼女がそれに恐怖を覚えなかったのは、自分の存在を思い出したから。彼女は『輪廻の血族』なのだから。その生き物にとって死が終わりでないことを、彼女は許容していた。
そして何より、彼女の心にはもう一つ死を恐れない理由があった。それはまさに生の謳歌。花と共に過ごしどこからともなくやってくる動物たちと踊る、そんな瞬間か彼女にとっての幸福だった。満足のある人生は、死への畏怖を緩和した。
「楽しい……毎日だった……ね」
「――そして私は、また平たい石の上に生きていた。記憶を抱えたまま、体だけ赤ん坊の姿に戻って。それで物心がつけば、やっと私はここに戻ってきたって気がづいて……そこからは、ずーっとこれの繰り返し。私は何も変わらずにただずっと、この森と花たちの成長を見届けてきた……人間と出会うまでは」
イベリスの、名も無き少女の物語の一幕はここで完結した。
「そう。それが君の……」
グラジオは自分が聞き出したイベリスの過去に、曖昧な声しか返すことができなかった。どんな言葉をかけるのが正解か、どんな言葉が彼女への配慮になるか分からなかった。そんな少年の横顔を窺う少女は、またゆっくりと口を開く。
「それじゃ、次はグラジオの番だよ」
「……僕の番?」
「次は君のこと、教えてよ」
「僕の過去なんて――」
イベリスはグラジオの口を細い指で制止する。
「いいから教えるの。交換条件なんだから」
グラジオは少女が折れないことを知ると、おもむろに過去を語った。
「……僕は、普通の街に生まれた普通の子どもだったよ。周りと遜色ないくらには裕福な家に生まれて、それなりの環境で育てられて。みんなと同じ学校で、それなりの水準の教育にも触れて。それで……」
「それで……?」
「僕はそこで孤立した。そこからはひとりぼっち。自分が情けなくて、親にも相談できなかった」
グラジオは自虐するように笑う。
「僕には夢があるんだ。それは世界中の花をこの目で見ること。でもそれは男らしくないって馬鹿にされたのが、全部の始まりだった」
「結局もう、そこには行かなくなった。それでやさぐれたとき、たまたま僕の街に立ち寄っていた調査隊に僕は拠り所を求めた。バルディア隊長はなぜか僕を連れ出してくれて、この村にやってきた」
グラジオは過去を悲観的に語ってしまったつもりだった。しかしイベリスは、すでに未来を見据えている。だから彼女は少年の暗さに囚われず、ただ笑顔で返した。
「ならグラジオは、今まさにその、ちょうさたい? ってところで夢を追ってるんだね。とっても前向きなのね」
「そう、だね。でもきっと親は僕のこと心配してるよ。別に恨んでも嫌ってもいない親を捨てて、家出しちゃったんだから。ありがとうも、ごめんなさいも言わずに」
「なら、私と同じだ」
「……え?」
「私だって今、初めての家出してるのよ。誰かさんに誘拐されてね」
イベリスはグラジオに目を合わせる。被害者のような言いぶりだが、彼女はどこか嬉しそうだった。グラジオは反応に困って言葉を詰まらせる。
「ねぇ、冗談言ったんだから笑うの……!」
イベリスは少し恥ずかしそうにこぼすと、グラジオの頬に手を伸ばした。無理矢理にでも、少年の口角を上げさせようとする。
イベリスの手が頬から離れたとき、グラジオは不自然につり上がった口角のままでただ放心していた。少しの驚きと、彼女の手に触れたことへの恥ずかしさから。
そんなひとときの幸せは、すぐに終わりを迎える。背後から忍び寄る複数の足音に勘づいたグラジオは、咄嗟にイベリスの口を抑えた。
「今のは人間の声だ。ここらに居るぞ」
「村の存亡が懸かってる。絶対に儀式を成功させるんだ」
気がつけばタイムリミットのである日の出の刻が近い。低く太い声は、追っ手である村の男のもので間違いないだろう。
グラジオは大木からそっと顔を出し、声の方向を覗き込む。まだあたりは薄暗いが、光の玉はかすかに男衆の腰に差された鉈と握られた弓を照らした。背中の矢筒には、相当の数の矢尻が見て取れる。これほどの武装で近づかれてしまったならもう太刀打ちする術がないことは、彼らの目にも瞭然だった。
決断を迫られたグラジオは、小さな声でイベリスに囁く。
「イベリス、もう走れそう?」
「少し明るくなってきたし、大丈夫だよ」
期待通りの返事を得たグラジオはそれに頷くと、近くの手頃な石へと手を伸ばした。そのまま迷うことなく、その石を遙か遠くへと投げ飛ばす。宙を舞った石は離れた大木とぶつかり、硬い音を鳴らして墜落した。静かな森の中、追っ手の男たちは自然と異音に注意を惹かれる。
「あっちだ。逃がすなよ!」
グラジオの見越したとおりだった。先頭に立つ男の一声を皮切りに、彼らの視線は二人から逸れる。
「行こう……!」
その刹那、少年は少女の手を引いて駆け出す。しかし豊かな森に生い茂る草は、乾いた足音を容赦なく響かせる。
男衆はすぐそれに反応した。動くものが少ない森の中、彼らの目は逃げる人影を容易に捉える。
「居たぞ! こっちだ!!」
二人は振り返らずとも、追っ手がこちらに視線を戻したことを察知した。背中に冷たい感覚が走る。
束の間、グラジオはかすかに弓の引かれる音を耳にする。それでも視線の誘導による矢の装填の遅れは、彼らに逃げる時間を与えた。
「イベリス、こっちだ!」
グラジオは背後からの射線を断つようにイベリスの手を引く。そして次の瞬間、一斉に矢は放たれた。
グラジオの策は、間一髪のところで命を繋いだ。それらは二人の小さな体を射貫くことなく、間一髪のところで大木の太い幹によって阻まれる。
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