12.花たちの守護者

 グラジオの瞳は決意に満ちる。しかし決意など、たった一人の少年にはあまりに無謀。イベリスは彼へ引き返すように促すべく声を荒げた。

 「ちょっと待って! ねぇ君ってば、こんなことをしたら――!!」

少年は忠告に聞く耳を持たない。むしろ彼は、自身の決意を更に示すべく名を明かした。

 「僕はグラジオ。"君"じゃない。グラジオだ」

イベリスの顔は浮かばれない。グラジオはしばし黙り込んだ後、ついに彼女の忠告に触れた。

 「分かってるよ、そんなこと。君をここから連れ去ったなら、きっと僕は村にも調査隊にも居られなくなる。でもそんなことどうだっていい。僕は君に……自由に生きて欲しい」

グラジオが口にしたのは解決策などではなく、もはやただの子供の我儘。それでも彼のあまりに真っ直ぐな声色は、イベリスが自身の秘めたる願いの成就を期待するのに充分だった。

 約三六〇年、それはあまりに長い時間だった。いつの日か、定められた一五年よりも、もっと先の未来を歩めたなら。自身に芽生えた無謀な夢が、突如現れた少年の無謀な挑戦と一致する。

 「……ふふ。誘拐されたのは、人生で初めてかな」

 そのときイベリスは、悲しみ以外の涙を知った。それを拭えば、ようやく少女らしいあどけない笑顔が零れる。

 こちらへちらりと振り返ったグラジオに目が合えば、彼女もまた決意を示すべく名を明かす。

 「それに"君"じゃなくて、イベリス。イベリスだからね」

少年は微笑んだ。二つの小さな人影は、大きな森を裂くように駆け抜けてゆく。




 ヒペリカ村の中央広場では、賑やかな前夜祭が続く。その一方でリナリアは、広場の隅に置かれた丸太に腰掛けたまま、ただ呆然と時を過ごす。脳裏に焼き付いたのは、小さくなるグラジオの背中。彼女はあれから一向に姿を見せない彼の身を案じた。それが単なる親切心とは異なる、別の感情であることを認めずに。

 サルビアは事情を話したがらない娘の傍へ腰を下ろす。彼女は娘が何か隠していることを容易に察していたが、強く言及はしなかった。

 「……もう遅いし、お母さんと一緒に寝よっか」

 「……まだ、眠くない」

 「……そっか。でも、もうお部屋に戻りましょう」

 「嫌だ」

いつもの不貞腐れ方とは違った。彼女が何を想うのか、サルビアはついにゆっくりと問いかける。

 「……話してくれる?」

 その優しい語りかけは、リナリアは胸の内を解きほぐす。しかし幼い子供とは繊細なもので、彼女は己の葛藤を語ることができなかった。グラジオの行方が掴めない、ただそれを伝えることが、どこか恥ずかしい行いに思えてしまう。

 母娘のもとへ、ふらふらとした人影が近づく。

 「……おお、二人とも。こんなとこに居たのかぁ」

語尾をとろけさせながら現れたのは父のバルディア。しゃっくりをしながら娘の前に立つと、特に理由も無く頭を撫でた。

 そして酔っ払った甘い父親は、何の脈絡も無くリナリアを褒めちぎる。

 「リナリアちゃーん。今日も可愛いなぁ」

彼女はそれを冷たくあしらった。

 「お父さん……お酒臭い」

 「ああーごめんよリナリアちゃん。お父さんが悪かったよお」

男は面倒な酔い方をしていた。もうそこに、かつての頼れる隊長の面影は無い。

 「ちょっとあなた。酔いすぎですよ」

サルビアが呆れた表情で彼を叱った。バルディアはご機嫌な様子で返す。

 「大丈夫大丈夫。まだそんな酔ってないからなぁ」

 気の抜けるような、道楽に耽る一幕。そんな平穏な時間をわざわざ狙い撃ったかの如く、村はけたたましい鐘の音で満たされた。賑やかしい広場は、一瞬の隙に悲鳴で塗り替えられる。村での滞在が短い隊員らにも、それが有事の知らせであると理解できた。

 バルディアの酔いはあっと言う間に醒める。

 「……な、なんだ!?」

 愉快な音楽と妖艶な舞いは鐘の音に掻き消された。村人たちまでも不安を募らせる中、事情を知る男が広場へ駆けてきたのはすぐ直後のことだった。その男は落ち着かぬ様子で長老のカムの元へ駆け寄ると、地面に崩れ落ちて声を張り上げる。

 「イベリス様が……見当たりません!!」

一声で付近は静寂となった。村の大人たちには、それがいかに重大なことか理解できる。

 話は人づてで中央広場の隅々へ巡ってゆく。一帯が更に混乱する中、カムは老人のものと思えぬ迫真の声を張り上げる。

 「静まれ――!」

強烈な音圧に皆が黙り、視線はカムの方を向いた。老人はまた声色を普段の掠れ声に戻し、粛々と策を打つ。

 「男衆は武装し村の外を、他の者は中を探せ。天照守あまてらすは日の出の前に生贄を捧げる儀式。日の昇るまでに輪廻の血族を殺めるのだ」

 調査隊の者の価値観からすれば、それはあまりにも無情な指示だろう。しかし村の者がその指示に動じることは無い。女性たちは即座に広場から散り散りになると、農具や縄を抱えると、家の中から共用倉庫までのあらゆる場所の捜索を開始した。男衆は倉庫から防具を取り出し、慣れた手つきでそれを身にまとってゆく。そこから小隊に分かれて整列するのは、あまりに滑らかな動きだった。

 その光景は、村人と調査隊員に大きな亀裂を生む。バルディアもまたその価値観の差に打ちひしがれ、思わず一つの溜め息をついた。

 「……どうやら、イカれているのは俺もだったらしい」

 村の安寧の為に、一人の少女の命が失われる。そんな話をカムから事前に知った彼は、それが村の伝統であるならと黙殺した。生贄の少女が人間とは違う生物であることも知らされ、ゆえに少女は生死への価値観さえも人間とは異なるのだろうと、勝手に思い込んだ。しかし事実、生贄は逃げてまで生へとすがり、自らの呪われた運命を拒んでいる。生贄の少女もまた、死を恐れたのだ。バルディアは己の過ちを知らされ、同時に過去の己へ許しがたい感情を覚える。

 そのときカムは付き人を連れてバルディアの元を訪れる。その老人は鋭い視線を彼へ突き刺すと、凄まじい剣幕をもって尋ねた。

 「……調査隊の方々も、協力いただけますな?」

それは半ば強制するような口ぶりだった。バルディアは寸分の迷いさえ見せずに、濁すことなく返答する。

 「……あなたから生贄の話を聞いたとき、私は怒るべきだった。私が、間違っていた」

 「それはどういう意味だ?」

カムの威圧的な問い掛けが続く中、バルディアは粛々と決断した。

 「我々は、ただの調査隊です。人を殺めることに手助けはできません」

その答えはカムの表情を更に曇らせる。そして男は、またついに声を荒げた。

 「過去二三回の天照守あまてらすにて、輪廻の血族が逃亡する事態は無かったと聞く。貴様らが、何かそそのかしたのではあるまいな!?」

バルディアの口元が引き締まる。そして次の刹那、彼の声が低く暗いものへ移った。それは命を軽んじる愚かな己と、この村に対する怒りから。

 「……あなたが輪廻の血族の話をしてから、私は村の中に居るであろうその正体を探りました。村の少し外れに住む、ミント色の髪をした少女。彼女こそが輪廻の血族。そしてその子が天照守あまてらすの生贄なのですね。この村は、たった一人の少女を一五年の年月が流れるたびに殺めてきた。生贄などという、非科学的な儀式の為に命を奪い続けたのです」

 「あれは少女ではない。人間の少女の姿をしただけの、ただの化け物だ」

 「いいえ人間でしょう。人間だから逃げたのです。人間だから、死に恐怖を感じるのです。彼女は気付いただけだ。人間としての本当の生き方に」

 「あれは生贄になるべくして生まれた化け物だ!! 戯言をぬかすな!!」

 「――ちょっと爺様! だめだって!!」

杖を振り上げたカムを制止したのは、背後からやって来た彼の孫娘のリカだった。

 バルディアは怒りを露わにする男へ、ただ冷たく吐き捨てた。

 「私もまた、過ちを犯した。長老殿から生贄のお話を伺った際に、こうやって情に身を任せるべきでした」

そしてバルディアは視界からその老人を消し去るべく、背後の妻と娘の方へと振り返る。

 「二人は馬車に戻ってくれ。私は全隊員に馬車へ戻るよう伝えて回る」

リナリアは父にしがみついた。彼女は涙ながらに訴えかける。脳裏に浮かぶのは、彼女の心を離さぬ少年の名前。

 「ねえ! 調査隊のみんなで、村の人を止めて!! それに……もしかするとグラジオが――!」

 「駄目だ。私には隊員を守る義務がある。村の者と争わせるわけにはいかん」


 


 暗い森に、二人の影。グラジオはイベリスの手を引いて、闇雲に大木の隙間を駆け抜けた。そのとき、少女は掠れた声で呟く。

 「グラジオ……ごめん……ちょっとだけ止まって欲しいの」

気付けばイベリスは酷く消耗していた。グラジオはすぐに立ち止まると、慌てて彼女の手を離す。

 「ご、ごめんイベリス!」

 イベリスの息が荒い。するとそんな彼女を見計らったかのように、辺りを漂う光の玉は彼女へと接触した。そしてそれに続き、水の粒もまた彼女の元を訪れる。イベリスが息を整えて語り始めるまで、グラジオはその神秘的な情景に気を取られた。

 「夜は光が弱いから、あまり激しく動けなくて……」

 「光? どうして光が関係あるの?」

 「……私はグラジオが言ってくれた通り、人間だよ。でも、体は人間と花が半分ずつ。だから食事は少し苦手で、その代わりに光と水が栄養になってくれる」

 イベリスに集まった光の粒は白い肌を照らし、水の粒は水滴となって滴る。彼女は掌に落ちた水滴にそっと触れると、また続きを語った。

 「……食事からは逃げて、普段は光と水に頼ってる。でもそれだとこの通り、光の少ない夜はすぐ弱っちゃう。ごめんね、こんなときに迷惑かけちゃって」

イベリスはそのまま近くの大木に寄り掛かり腰を下ろす。その一連の動作だけでも、彼女の疲弊は見て取れた。

 「あともう少しだけ……時間が欲しいの」

うっすらとした苦悶の表情の中に、申し訳なさそうな心境が垣間見える。グラジオは迷うこと無く、彼女の要望を承諾した。

 「そんなこと全然いいんだ。それに、無理させてごめん」

そしてグラジオもまた、同じ大木の元へ腰を下ろす。

 「少し休もう。イベリス」

 「うん。ありがとう」

一時を急ぐ中でも、気付けばグラジオは思いがけず提案していた。

 「……その間にさ、もっと、もっと教えて欲しいんだ。君のことを」

イベリスは快く承諾する。

 「……いいよ。グラジオになら」

そして少女は笑った。照らされた笑顔に少し拍動が速まるグラジオを横目に、彼女は口を開く。

 「大森林・チョウラン。まだそんな名前すら無かった。そこが小さな小さな、ただの草原だった頃のお話――」

そこから、少女が紡いだ長くも淡い物語が始まる。



 


 ――名も無きミント色の髪の幼女は、揺り籠程の平たい石の上へ体を丸める。どうやら眠っていたらしい。

 なんとか立ち上がってみたが、足がもつれて上手く動けない。結局その不慣れに抗うことはできず、また幼女は草原に倒れ込んだ。

 それでもその幼女は諦めずゆっくり体を起こす、すると彼女の目には、いまだ忘れることのできない光景が脳裏へと焼き付いた。虹よりも鮮やかで、海よりも広い。圧巻の花畑は、幼き彼女の感性を大きく揺さぶった。

 そして幼女は、その景色を目撃したと同時にあることを理解する。いや、それはまるで記憶が解錠され、その内容が一気に脳へ押し寄せた、と言うべきだろう。

 「……私は、ここに咲く花たちの守護者だった」

 どこからともなくやってくる光の玉は。この花畑で土にくるまり蕾となる。どこからともなくやってくる水の粒は蕾に命を吹き込み、美しく咲き誇るその日まで、彼らをゆっくりと育んでゆく。少女はそれを見守り続ける為に生まれた。彼女は使命を抱いた、花たちの母親であったのだ。






○サルビア

科・属名:シソ科アキギリ属(別名:サルビア属)

学名:Salvia splendens

和名:緋衣草(ヒゴロモソウ)

別名:サルビア、セージ

英名:Scarlet sage

原産地:ブラジル

花言葉:全般「尊敬」「知恵」「良い家庭」「家族愛」

    赤「燃える思い」

    青「尊敬」「知恵」。

    英語「esteem(尊敬、尊重)」「wisdom(知恵、賢さ)」

      「domestic virtue(家庭の徳)」


※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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