9.時を運ぶ花
キキョウは目に前に整然と並べられた木箱からひとつを選ぶと、躊躇無くその蓋を外した。グラジオはその青年と顔を並べながらも、おそるおそる箱の中身を窺う。
箱の中に収められていたものは、まさにグラジオの望んだ景色だった。横向きで取り付けられた木の板は箱の中身を二階建てにする。その床に等間隔で空けられた穴には、一本ずつ丁寧に花が差されていた。
キキョウは花を見るなり、グラジオを頼る。
「……これ、何の花だ?」
「え、ええっと……」
てっきり即答されるものかと思っていたキキョウにとって、グラジオの反応は意外だった。
「あれ、お前でも知らない花なのか?」
グラジオはそれを認めたくないといわんばかりに黙殺すると、寝床のそばからボロボロのバッグを引き寄せ慌ただしく例の図鑑を取り出した。ただ必死に頁をめくっていく。しかし少年は己の抱いた違和感が正しいことを知らされる。なぜならそれをいくら読み進めようと、今目の前に並ぶ花たちは誰一人として記録されていないのだから。
グラジオは本を一度閉じると、咄嗟に馬車の外を目指す。彼とて調査隊の本能には抗えない。
「ちょっと僕、明るいところで見てきます!」
「お、おい! 持ち出すのはさすがに……!」
その忠告も虚しく、彼は直感的に花を一本選ぶとそれと図鑑を抱えて馬車を飛び出した。一度は止めようとしたキキョウは、すぐにそれが無粋だと察する。グラジオを制止すべく差し出した手は自然と降りた。彼は今まさに重大な規律違反を犯しているというのに、なぜだか思わず笑みが零れる。
「そうよそうよ。そうだよな。俺ら冒険家って、そういう生き物よな」
光の玉は、昼夜を気にせずあたりを揺蕩う。グラジオはそれが都合の良いことに気がつくと、急いでそこへ近づいた。花と本を交互に照らしてもらうと、それをまじまじと観察する。たとえ淡く弱々しい光でも、夜ではこれだけが救いだ。
「黄色の丸い花弁……茎は……」
光の玉はふらふらと動く。少し集中すると、頼りの光源が手元から離れていってしまう。
「ああ……ちょっと待って」
そしてグラジオは光の玉の導かれるままに歩を進めた。花に触れて図鑑を開き、また花へ。そんなことを繰り返しているうち、気づけば少年は再びあの場所を訪れていた。まるでその光が意図して誘ったかのように。
か細く可憐ながらも、少し取り乱した声がグラジオの耳へと飛び込む。
「その花を……どうして……!」
上から降るようにしてかけられた声の先、そこに居たのは名をイベリスという少女。突然の出来事に慌てふためくグラジオは、ただ声の方向へ顔を上げて唖然とその少女を見つめることしかできない。
「どうしてトキバナを……!?」
グラジオは彼女の様子から己が何か過ちを犯していることを察すると、その不安に抗って返答した。
「それが……この花の名前? 僕は、僕は何かいけないことしてしまったの?」
少女の声色は落ち着いた。彼が故意であることを、その声色から感じとったからだろうか。
「その花は一度『時届きの花畑』の大地を離れてしまうと、もう生きることはできない。だからその子はもう……」
少年は言い濁されたその先をすぐに理解すると手を震わせた。そしてその震えは声へと伝染してゆく。
「僕は……僕はどうすれば」
イベリスは少し俯く。そしてしばし流れた沈黙を打ち破るように少女は呟いた。
「その花を土に埋めてあげて。せめて安らかに、温かい土の中で眠らせてあげたい」
少女の言葉は、花という生き物に対する深い愛をグラジオへと曝け出す。そして彼は同じ花を愛す者として、彼女の示した贖罪に応じなければならないと錯覚した。
「わかった。それで少しでも償えるのなら」
二階の窓から溢れる光で照らされるイベリスの顔からは、ようやく険しさが消えた。そして彼女は小さな声で呟く。
「あなたなら、信じられる」
イベリスは窓を閉めずにカーテンだけを閉めた。そのまま彼女の影は窓から遠ざかってゆく。グラジオはそれを多々呆然と見つめていた。やらねばならないことがあることを分かっていながらも、少女の初めて見せた微笑みに心酔する。もう一度戻ってきてはくれればそれ以上に嬉しいことはない。
そして少年は正気へと還る。目に焼き付いた二階の窓辺に背を向け歩みを進める。近く畑の縁で置きっぱなしにされたスコップをこっそりと拾い上げれば、真っ暗な森の奥を目指してゆく。
森に入って数本の大木をくぐったとき、少年は立ち止まる。特に理由は無かった。
「……きれいだ」
グラジオは現れた一つの光の玉によって、視線を吸い寄せられた。何かを探すように漂うそれは、なんとも心細く弱々しい。まるで寂しさを誤魔化すように、それは木にぴったりとくっついている。一見ただ木の窪みに引っかかっているだけにも見えるが、彼の解釈ではない。
グラジオは大木に歩み寄ると、おもむろにその麓へスコップを突き刺した。数分かけて深く掘ると、その穴に死にゆく花を差し込む。その後は土で優しく包み込んで弔いを終えた。
グラジオは馬車へ戻ると、開けっぱなしの木箱から全ての花を持ち出す。彼は迷うことなく、サンプルとして回収された全てのトキバナを弔った。
「あ……あれ?」
突然目覚めたグラジオは、すぐに状況を理解した。気づけば陽が出かけている。どうやら最後のトキバナを埋め終えたところで、その近くの大木に寄りかかったまま眠ってしまっていたようだ。
雑用である彼は、一刻も早く朝の仕事に戻らねばならない。焦りを抱えてすぐに村の方へと駆けた。
「まったくキキョウ、おまえという奴はな……」
バルディアは頭を掻きながら苦い表情を浮かべる。彼の横に転がるのは空の木箱。昨日の晩までは回収したトキバナが保管されていたのだが、中身には木の板だけが残されている。
「いやあ、すいません隊長。こっそり調べようと持ち出したら、中身を森の中で無くしちゃいまして」
「おいおい、まるごと全部無くすか普通?」
「く……暗かったからさ……」
「……とにかくこいつは規則違反だ。しばらく個人の調査は禁止。当分の間は、村人への技術提供に尽力しろ」
「は、はーい」
バルディアは手短に罰則を告げると、そこから足早に立ち去ってゆく。キキョウは苦笑いを浮かべた。森の中から丁度その様子を窺ってしまったグラジオは、居ても立ってもいられずにキキョウの元へと駆け寄った。
「キ、キキョウさん……どうして!? あれは全て僕のせいで――」
「どうしてって。お前が犯人ってばれたら除名されるだろ」
「でもなんで、そこまでして庇って……」
「借り、返したぜー」
キキョウはそれだけ言い残すとグラジオのもとを離れる。彼は笑っていたが、それが彼の本心とは違う感情であることくらい分かる。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、キキョウさん……」
相変わらずの晴天。それでも暗いの雲がかかった少年の心は晴れない。
「――こうしてまた厄災を目にすることなく、一五年が経ったのか。大きな雨も無く、平穏に」
カムは同じ雲一つ無い空を見上げ呟く。衣服が詰まった藁の籠を抱えた孫娘のリカがそこへ並んだ。
「そのために、また始まるの?」
「……村を守るためだ。それにおまえも、森の厄災の伝承は知っておろう。終焉は一粒の雨から始まるのだ」
「……うん。分かってる」
俯いたリカは、何かを見て見ぬふりするように話を変えた。
「そ、それじゃ私は川に行ってくるから」
「……気をつけてな」
森の中を漂う水の粒たち。ある一粒は植物に溶け合ってそれを育み、ある一粒は川に飛び込んで旅をする。
「さ、洗濯物を済ませなきゃね」
リカは籠を川の側に置くと袖をまくり上げた。
この地に雨は降らない。それでも森が豊かに広がるのは、無数に存在する水の粒の恩恵である。
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