8.始まりの秘境と終わりの秘境

 丸々とした陽は、雲一無い空を背に沈みゆく。バルディアと数人の隊員がヒペリカ村へ帰還したのは、ちょうどそんな頃だった。

 「――お帰りなさい、お父さん!」

リナリアは馬車から降りた父に飛びつく。チューリはそれを微笑ましく見つめた。

 バルディアは笑顔で愛娘に応える。

 「ただいま、リナリア」

しかしその笑顔は、少しばかりぎこちない。それはきっと、また新たな謎へと苛まれたから。

 色鮮やかな花畑と、そこに佇む一軒の古びた小屋。調査隊にまた一つ、打破すべき壁が立ち塞がったのだ。

 チューリの何気ない言葉は、その悩みの種を逆撫でる。

 「調査はどうだったの? 何か見つかった?」

 「……それが、また訳の分からんものに出くわしてしまったよ」

バルディアは複雑な表情を隠さなかった。もはや笑みすら零れてくる。そんなお手上げの現状に打ちひしがれる中、バルディアはふとある男の所在をチューリへ尋ねた。 

 「そうだ。あいつは……グラジオはどこに居る?」

 「グラジオ? あの子ならきっと、馬車の掃除をしてますよ」

 目の前に自分が居ながらもグラジオの話を持ち出す父を見たリナリアは、嫉妬心からか頬を膨らませる。バルディアはそんな彼女の頭に手を置いて機嫌を取りながら話を続けた。

 「……そうか。なら明日にするか」

 「グラジオに何をさせるんです?」

 「図鑑に載ってない花を持ち帰った。世界中の花を見ること、それがあいつの夢だ。採取した花のサンプルくらいは、見せてやろうと思ってな。それにもしかしたら、何か分かるかも」

チューリはそれを聞くと、どこか嬉しそうに微笑む。

 「あの子も毎日頑張ってるから、ご褒美ね。きっと喜ぶわ」

そのとき、低く掠れた声がバルディアの耳へと飛び込んだ。彼には聞き覚えがある。ヒペリカ村の長老であるカムのものだ。

 「……無駄だとも。その花の正体は、誰にも分かりはしない」

 「おや長老殿。いらしてたのですね」

 「見つけたのだろう、『時届きの花畑』を。そこに自生する花は、全て名をトキバナと言う。それ以上のことはここに居る誰に聞き出そうとも、答えは得られん。全てを知るのは、村の伝承を記した先人のみだ」

 「その伝承を教えていただけますか」

 「聞いても無駄だとも」

 「良いのです。単なる好奇心ですから」

カムは一呼吸を置くと、ゆっくり語り始めた。

 「……大森林・チョウランには二つの秘境がある。その一つは始まりの秘境、そしてもう一つは終わりの秘境。お主たちが見た『時届きの花畑』は、終わりの秘境だ」

 「終わりの……秘境?」

 「トキバナ、それは始まりの秘境から蕾として旅立ち、終わりの秘境で花を咲かす。そこで彼らは一生を終える。ほら、ここら一面を漂う光の玉も全てトキバナの蕾だ」

カムの話は続く。

 「彼らは終わりの秘境を目指し、長い長い旅をする。それこそまさに、道無き道。ここらの蕾が終わりの秘境へと辿り着くのは何年後か、はたまた何百年後かも分からない。いやそれ以前に、辿り着くことができるかすらも分からない。そんな過酷な旅だそうだ」

 バルディアはすかさず問う。湯水の如く疑問は生まれたが、まず真っ先に思い浮かんだものを尋ねた。

 「始まりの秘境には、何があるのです?」

 「始まりの秘境とはこの森に存在する、トキバナの蕾の出生の地。しかし伝承でも、これ以上のことは記録されていない。場所すらも分からない」

 「そう……ですか」

腰の曲がったカムはバルディアを下から見上げた。

 「君たちは調査隊なのであろう。ならばきっと見つけてくれ。始まりの秘境を」

バルディアは老人の真剣な眼差しを見ると、思わず口角を上げる。調査隊として頼られることこそ、彼が調査隊としての人生を歩む糧だ。

 「任せてくださいませ。カム殿」

 そのときそこには、また別の人間の声が飛び込んだ。

 「――おいおい待て待て。まだ解決してないことあんだろー?」

若い声の主は、キキョウ。彼はバルディアの背後から、スケッチブックを抱えて現れた。どうやらバルディアに同行していた隊員から取り上げたらしい。

 キキョウはその中からとある一ページを開くと、それについて物申す。

 「その『時届きの花畑』ってもん、全体図がこれなんだろ。このスケッチの真ん中に、小屋みたいなのがある。これはなんだってんだよ? 人工物なんだから伝承とかの話でもねーだろうし、説明が無いのは妙だ」

カムは一呼吸置くとゆっくり口を開く。そのとき彼は、少しだけ苦い顔を見せた気がした。

 「……秘境の祝福を受けし者の住まいだ。今はもう使われておらんがな」

 「祝福?」

 「何度死んでも蘇る。永遠の命。人間の少女の姿を模したそれは、輪廻の血族と呼ばれる」

 「……まさか、そんな馬鹿げた話あるかよ」

キキョウはスケッチブックを手放すと、両手を肩の前で小さく横へ広げて茶化すように呟いた。こう見えていっぱしの研究者である彼は、非科学的な現象を信じようとしない。

 「……君たちに興味を持って貰いたいのは、始まりの秘境の方だ。祝福の話は、忘れてくれて構わない」

 カムはまるで決まりが悪くなったように、その場を去り始めた。踏み固められた土を突く杖の音だけが響く。




 夜が訪れる。グラジオは帰還したばかりの馬車の清掃をようやく終えた。これでようやく全ての馬車清掃が完了したことになる。

 グラジオは最後に掃除したこの馬車で就寝することとなった。中は手狭で、『時届きの花畑』なる場所から採取されたサンプルやスケッチ等が、辺り一面を埋め尽くしている。

グラジオが横になれば、もうそこには文字通り足の踏み場も無い状況だった。睡眠を取るにはあまりに悪環境だが、それでも彼は自分が雑用だからと言い聞かせて割り切る。

 それにヒペリカ村へ来てからは、夜間の見張り仕事が無くなった。彼にしてみれば、それだけで大きな救いだ。少し寝床が狭いくらいで文句を垂れるほど傲慢でない。

 いつもなら貴重な夜の時間を削って調査に赴くところだが、馬車清掃に明け暮れた今日だけは酷く疲れていた。だから今日は大人しく、その狭い寝床で眠りに落ちるのを待ち侘びる。しかしながら彼はその晩、耐えがたい欲へと苛まれた。

 (み……見てみたい)

 今まさに、彼は新しい発見の可能性を秘めた大量のサンプルに囲まれているのだ。目の前の木箱を開ければ、まだ見ぬ何かがきっとある。それでもサンプルへの勝手な接触は厳禁だ。真面目が取り柄の少年は、こんなところで信頼を失うわけにはいかない。

 「諦めて寝よう。それでいい……それでいい……」

グラジオはそう言い聞かせるようにして唱えると、またゆっくりと瞼を閉じた。

 それでも胸の高鳴りはおさまらず、寝付けないまま時が過ぎる。疲労の溜まった肉体と、強烈な好奇心へ誘われる心。矛盾した二つが、彼を睡眠から遠ざけた。




 何時間経ったかも分からなくなってしまった頃、そこに突然物音が鳴り響く。グラジオはとうとう瞼を開き、その異音に聴覚を集中させた。鈍い音は、明らかに虫やネズミの類いではない。少年にはじわじわと恐怖がこみ上げた。無意識のうちに、体にかけていたはずの布きれをぎゅっと抱きしめる。

 金属が擦れる音が一度鳴れば、馬車後方の扉はついに開かれた。小さく軋む音と共に、淡い光が馬車の中へと差し込む。物音はやはり人間のものだった。

 「げ……グラジオ。ここで寝てるやついたのかよ」

 声の主はキキョウ。グラジオはその青年の困ったような反応から、彼が何を企んでここへ来たのかをすぐに理解する。

 「キキョウさん……まさか?」

 「……そんなもん、こっそりサンプルを見に来たに決まってんだろ。まぁ任せとけ。こちとら常習犯だからよ」

キキョウは悪い笑顔を見せると、躊躇なく狭い馬車の中へ入ってくる。

 「ちょっと……! もしバレたら、僕が真っ先に疑われるんですから……!」

 「……なら、共犯になるか?」

どこかで期待していた言葉が返ってきてしまった。グラジオは少しだけ迷ったふりをしながらも、首を縦に振る。

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