4.イベリス=『』

 雑用のグラジオは、積み荷用の一番窮屈な馬車に乗る。そのあまりの狭さに、彼は小さくうずくまって腰を下ろした。昨日の調査で隊員が各々サンプルを採取したため、以前はかなり余裕のあったはずの馬車が、人間一人分のスペースだけを残すのみとなってしまった。

 「お、動いた動いた。やっとか」

 先程少しの間だけ馬車が停まったことには気づいたが、これほど荷物が所狭しと詰められていては、馬車を降りて先頭で何が起こったのか確かめるのも一苦労だ。気にはなったものの、彼は大人しく待つことにしていた。




 「……知らない人間が……どうしてここへ……?」

 大木の陰に身を潜めながら、馬車の隊列の様子を窺う者が一人。その男は道なき道を進んでいた先頭の馬車が細い道沿いへと進路を変えたのを確認すると、その道を引き返すようにして駆け出した。




 少女と老婆の暮らす小さな家。老婆が家を空けているこの時間は、家の中に少女ただ一人だけが残される。少女は紅茶をポットに残された紅茶をマグカップに注ぐと、それを小さな一口で含んだ。

 「……ダージリン。芳しい香りと収斂味。やっぱり……美味しくない」

少女は手にしたマグカップをテーブルに敷かれたコースターへ重ねる。マグカップの中には、まだ紅茶が残されていた。

 「ダージリンは紅茶にして飲むよりも、そのまま花の姿を見ていたい。村の近くには咲いていないけど、確か森のあの辺りにだったら……」

 外に出たい。その気持ちが彼女の視線を、無意識にも家の玄関へと向けさせる。しかしそこには彼女の望みを打ち砕くように備え付けられた重厚な扉。木造の家に似合わぬその扉は、家の外側だけでなく内側にも鍵穴を持つ。ゆえに少女が外の世界へ飛び立つことは出来ない。

 視線を玄関から反対側へと向ける。そこには部屋の隅に積み上げられた分厚い本の塔。少女はその塔の麓を目指して歩み始めた。

 頂上の一冊を掴み取ると、それをぱらぱらと無造作に開いてみる。少女はそこに刻まれた文字や写真を目で追うことなく、ただ眺めるようにページをめくり続けた。

 「……だめ。これも全部覚えてる」

少女は少し残念そうにして、本を塔の麓の側に戻してやる。期待せずに別の本へ手に伸ばしたとき、彼女の退屈な時間は揺れ動く。

 家の外から聞こえてきたのは、村の門の鐘を打ち鳴らす轟音。重たく低い音が幾度と繰り返される。このなんとも不安な耳にしたのは、随分と久しぶりだった。

 「な、なに……?」

彼女はそれが何かしらの緊急信号であることを知っていた。しかしそれがたとえ天災であっても侵略であっても、彼女はこの家から出てどこかへ逃げ去ることはできない。

 扉から慌ただしい物音が鳴る。少女は震えて床に塞ぎ込んだ。

 「イベリス……! 村に誰かが来る! 二階の納戸に隠れて!」

 少女の前には、慌てた様子で家へ飛び戻ってきた老婆の姿。息を切らす老婆は、背後に盾と剣を身に着けた屈強な男二人を連れて戻った。束の間、老婆は少女の手を強く引く。

 イベリスはひどく怯えていた。老婆が掴んだ手は激しく震える。それでも老婆は強引に階段を駆け上がり、彼女を二階の納戸に押し込んだ。

 「ほんの少しだから……我慢しておくれ!」

 イベリスは暗闇の中で震える手を引き寄せ、自分を抱きしめるように肩へ腕を巻き付ける。自然と流れ出す涙を拭う余裕さえないほどに取り乱した彼女は、まるで何かを思い出すかのように怯えていた。

 扉の奥からがかすかに声に聞こえる。

 「あんたたち。絶対にイベリスを守るんだよ。あの子はこの村に必要なの……」

 「承知しております。さ、おば様も早く村の中央へ……!」

その緊迫した声は、長い時を共に過ごす老婆のものでも久しく聞かぬ色だった。




 「うーん、こりゃだいぶ警戒されてるな……」

 バルディアの乗る先頭の馬車は、前方に広がる門を捉えた。しかしそこから聞こえるけたたましい鐘の音に頭を抱える。

 「にしてもまさか、こんなところに人間の住む村があったとは……遺跡なんかを期待したんだが、文明は現存していたのか」

先頭の馬車に乗る隊員の一人は唖然とする。狼狽せず村を見つめる別の隊員は、バルディアに尋ねてみた。

 「交流……してみるか?」

 「調査のためには、それしかなかろう」

小さなナイフを胸ポケットにしまったバルディアは、颯爽と馬車を飛び降りる。

 「馬車を止めろ。私以外の者は、しばらくこのまま待機だ」

そう告げた彼は、たった一人でまっすぐに道を歩き始めた。

 村へ近づくにつれて、両脇に並ぶ大木は数を減らし始める。それに伴って視界は開けてきた。どこもかしこもエメラルドグリーンに染め上げられていた空は、久しぶりに広い青を見せ始める。

 村は突然の訪問者に騒然とした。杖をついた老人の指示によって、武装した若い男たちが村の入り口を固める。村の中央には女性や老人、子供が身を寄せ合い、揃って不安げな表情を浮かべる。そこには少女と共に暮らす、あの老婆の姿もあった。

 村の門をくぐった者は、バルディアたったひとり。彼は両手を顔のあたりまで上げ、戦意の無いことを示す。それでも武装した男たちが剣を下ろすことはない。

 「言葉は、通じるか?」

バルディアは刃を向けられつつも、冷静に対話を試みた。されど男たちは誰一人としてそれに応えない。

 「通じるとも」

屈強な男たちの合間を縫うようにして現れたのは、杖をついた村の長らしき装いをする老人・カム。若い男はすぐに老人を守ろうと前に立つが、老人はそれを制止して男を後方へ戻した。

 「主は何者だ。なにゆえこの森に立ち入った?」

 「名はバルディアと申す。森を調査するため、この森へ入った。発見した人間の痕跡を追ってきたところ、ここへと辿り着いたのだ」

 「ここは我らの守る森だ。今すぐ立ち去れ」

 「それはできない。私は調査隊だ。私が何も得ずして帰ったことは、これまでに一度たりとも無い。手ぶらで帰るとき、それは調査隊としての誇りが死ぬときだ」

バルディアはそう話しながら踏みしめるようにして歩を進める。

 「と……止まれ!」

バルディアが立ち止まったのは、制止するように呼びかける男が握った鉈の間合いに入ってからだった。バルディアの命はもはや男の手の中。それでもバルディアは動じない。彼の震え無き眼は、寸前で凶器を握る男のさらに奥、不安げな表情でこちらを見つめる女性や子供たちを捉えていた。

 バルディアはおもむろに胸ポケットから小さなナイフを取り出す。それを見た男は咄嗟に鉈を振り上げた。

 「これで、通してくれないだろうか」

バルディアは右手で握ったナイフを左手に握って逆手に持ち帰ると、それを自身の右手へ迷うことなく突き刺す。

 「……貴様、一体何を?」

振り上げられた鉈は下ろされろ。それがそこへ立つ男の命を奪うことはなかった。バルディアは顔を歪めながらそのナイフを抜けば、そこから溢れるようにして鮮血が噴き出す。

 利き手を捨てることで生殺与奪の権を委ねたバルディアは、その血濡れたナイフを放り投げる。そのまま彼は、村の中央で怯えたとある女性に近づいた。彼女の前で止まったバルディアの視線は、やや下へと落ちる。彼が目にしたのは女性の腕の中に抱かれていたもの。それは細々とした呼吸を繰り返しながら懸命に生きようとする、衰弱した赤ん坊の姿だった。

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