2.リナリア=『』

 幻想的な様相を見せ始めた、未知の森・チョウランにて。順調に進行を続けていた馬たちは、少しばかり開けたところでその足を止めた。バルディア調査隊はこの場所をキャンプ地として、これより近辺の生態系の調査を開始する。

 隊長・バルディアは隊員の男と共に、宙に漂う光の玉に見とれた。ふわふわと浮かぶそれに顔を近づけたまま、思わず恍惚としなって言葉を交わす。

 「綺麗だが……一体なんだこれは?」

 「……触れようとも触れられず、何かに着いて行ったり、引き寄せられたりしている感じも無いですね。意思がある生き物の類いとは違うのでしょうか?」

 大木と向かい合って図鑑を開く別の調査隊員らもまた、そこに広がる未知に頭を悩ませる。

 「……駄目だ。どこの森にも自生してるような普通の木とも、それが突然変異した種とも違う。一致する特徴がまるで無い」

 「この森固有の種、ということになる訳か。なら図鑑は、お役御免だな」

 また別の場所にて。キキョウは膝を突いてしゃがみ込むと、そっと地面へ触れた。二本の指で土を摘まんで掬い上げると、それを擦り合わせてみる。

 「こんな快晴なのに、土は湿ってんのな。これもやっぱり、コイツらのせいかねぇ……」

キキョウが見上げた先には、空中を漂う水の粒。彼らは光の玉を真似するように、同じ空中を旅した。

 図鑑では語られることのない植物の数々。漂う光の玉と、水の粒。そこにある何もかもが、いまだ彼らにとって未知であった。




 隊員たちが思い思いの場所で調査を進める一方、キャンプ地に残されたグラジオが任されたものは隊員らの夕食の支度だった。

 無論、グラジオも森の調査に挑みたいところである。それでも彼に調査が許されないのは、彼が正隊員ではなく雑用の立場にあるから。当然であって、逆らいようのないことなのだ。潔く諦めるほかない。

 グラジオは食料品の入った樽と木箱を、馬車の中から積み下ろした。力仕事の類いには慣れているが、その慣れこそがやはり油断を呼ぶ。最後の樽を下ろし終えたようとしたとき、それは少年の手からするりと滑り落ちて横たわる。

 グラジオはゆっくりと転がり始めた樽を優しく止めて、ふと安堵する。

 「あ……危なかった。傾斜がなくて助かったよ」




 やや涼しく快適な気候だが、それでも相当な重労働にグラジオへ汗を滴らせる。使う物全てを積み下ろし終えた彼は、近くの透き通った川で顔を冷やして両手を洗った。

 ただ、その為だけに川へ近づいたはずだった。それでも頭の中に溢れる好奇心は留まらない。気づいたときには、周囲の環境を観察し始めてしまう。

 「……あれが光の玉で……あいつが水の粒」

 僅かな時間が経てば、グラジオはすぐ我に帰る。まだ仕事は山積みなのだから、こんなところで暇を持て余す余裕など無いのだ。

 「……ここの滞在はきっと長くなる。チャンスはあるはずだ。とにかく今は、目の前の仕事に集中するぞ」

少年は両手で頬を鳴らし、私欲を払いのける。




 グラジオは樽と木箱が待つキャンプ地の中央へ戻ると、目についた木箱を開いた。中に入っているのは日持ちの良い穀物や木の実。燻製や塩漬けにして、長持ちするように加工された肉類もばっちりと揃っている。

 「――ちょっと。手は洗ったんでしょうねー?」

 木箱の中身に触れようとしたその時、背後から幼い声が飛んだ。少年の振り返った先に立つのは、腕を組んだままこちらを見つめるリナリアという名の少女。グラジオは突然の出来事に気押されそうになったが、とりあえず素直に返答した。

 「あ、洗ったけど……」

 「あのね、隊員あいつらはきっとそんなこと気にしないんでしょうけど、私は嫌よ。雑用が触った食べ物を食べるなんて――!」

 十二歳のリナリアと十五歳のグラジオ。歳だけ見れば妹のような存在だが、雑用である彼に対して、彼女はどうも風当たりが強い。

 グラジオは調査隊に同行し始めてからそれなりに経つ。その間キャンプの機会があれば、ほぼ毎回に渡って彼が食事を準備してきた。つまるところ、リナリアは今まで数え切れないほどグラジオの用意した食事を口にしてきたはずなのだ。それでもなぜか、彼女は今頃改まるようにして難癖をつける。まさに突拍子も無い悪態だった。

 それでもグラジオより年下であるリナリアが随分と大きな態度を取るのは、もっともな理由がある。それは彼女が、この調査隊を率いるバルディアの愛娘であるから。彼女がグラジオよりも年下だろうと、非力だろう無知だろうと、そんなことは関係ない。彼女は隊長を父に持つということだけで、グラジオより立場が上なのだ、と認識しているらしい。

 そんな関係も相まってか、グラジオはこれ以上の返答を留めた。語弊が生じてそれがバルディアに悪く伝われば、調査隊に居られなくなる可能性さえ否定できない。バルディアがそこまで非情でないことは分かっていたが、グラジオは一切の危険を排除する為慎重に振る舞った。

 場は凍り付く。それでも幸運なことに、リナリアの背後から歩み寄ってくる彼女の保護者がそこに雪解けを生んだ。

 「こらこらリナリア。そんなこと言っては駄目でしょう。彼だって、お父さんの調査隊の仲間なんだから」

 「だ、だって……」

 「彼がこうして裏方の仕事に徹してくれているから、お父さんたちは調査ができるの。グラジオくんは、調査隊に必要な存在なのよ」

リナリアの母であるサルビアは、優しい笑顔で娘を諫めた。少女は下を向いていじけると、そのまま黙り込んでしまう。

 リナリアはその頭に手を置いたまま、グラジオに視線を向けた。

 「グラジオ君、酷いこと言ってごめんなさいね。さあリナリア、あっちに行きましょう」

顔を上げてむっとして表情を見せたリナリアは、そのまま母に続いて馬車の中へと戻ってゆく。




 調査に没頭していた隊員たちにとって、夕暮れまでの時間は束の間だった。散開していた隊員たちが、続々と馬車の停まるキャンプ地へ帰還する。

 五台の馬車でぐるりと囲むようにして組まれたキャンプ地の中央には、隊員たち食事を行う空間が準備された。無事に全隊員がそこへ揃うと、各々が今日の成果を語り始める。ようやく一仕事終えたグラジオも、食事を摂りつつひっそりと話の内容に耳を傾けた。今は盗み聞きだけが彼の唯一の情報源なのだ。

 「――ということでして、詳しい事は何も分かりませんでした」

 ある隊員の声が耳へ差し込む。どうやら状況は芳しくないらしい。他の調査隊の話も同様の結末が連なり、どうやら現段階では何も分からないようだった。

 それでも、気掛かりな発見は確かにある。どっと湧くテーブルの中央では、隊員の男が右手を広げた。掌に乗っかった小さな魚は、水から揚げられて時間が経って既に死んでいるが、なぜか隊員たちの関心の的に値する評価を受ける。

 「――皆さん、これを。これが、川を泳いでいたのです」

 「これは、古代魚か!?」

 「絶滅しているはずの種がどうして……」

ざわつく隊員たちの声が森に響く中、バルディアはその人だかりを掻き分け最前列に立った。じっとその魚を見つめ、ふと持論を述べ始める。

 「なるほど。この森の植物の正体。ある程度は、見当がついてきたかもな」

 「と、言いますと……?」

 「ここら一帯の木々や植物。図鑑のどのページを探そうとも、特徴の一致するそれらしいものは載っていない。それはなぜか。ここの植物が、現代を生きる植物の先祖であるからだ。特徴が一致しないのではない。樹形図の集約点に位置しているが為に、あらゆる特徴を備えている。だから新種に見えた。進化して枝分かれしていった現代の植物たちの根元にある存在がここの植物であるなら、たとえ古代魚が生きていようとも納得ができる」

 「それってつまり……?」

 「この森では、あらゆる生き物の進化が停止している。もちろん植物も例外じゃあない。言うなれば、時が止まっているということだろうか」

キキョウが口を挟んだ。

 「でもそれじゃ、このふわふわした光とか水の説明がつかないでしょ? 古代には、現代と異なる物理法則が働いていた、なんてのはさすがに無理がある」

その一言で場は静まり返った。論理があっと言う間に瓦解したのだから仕方無い。キキョウは追い打ちをかけるように、その沈黙を打ち破る。

 「チョウランではもっと信じられないような現象が起こってる。そう考えるべきじゃねーか?」

バルティアは口角を上げた。

 「……ああ。この森を説明するには、俺の仮説じゃまだ足りないようだ」




 この森は昼でも薄暗い為に、あまり釈然としないが、どうやら陽は落ちたらしい。大森林・チョウランで迎える初めての夜が始まった。

 調査隊の一行は食事を終えると、明日に備えてそれぞれの馬車で眠りに就く。しかし彼らのキャンプは、皆が気持ちよく眠れるほど油断に満ちてはいない。グラジオを含む若手の人間数名には、夜間の見張りという億劫な仕事が待ち受けている。

 グラジオは次の当番が交代に来るまで、馬車の屋根の上に座り込んで見張りを続けていた。頭の中を満たすのは、夕暮れ時にこそっと耳にした隊員たちの話。雑用といえども、彼とて調査隊の卵。限られた情報の中から自説を導こうとしてしまう、調査隊としての本能が深く根付いている。

 少年は遠くで漂う実物を見ながら、呪文のように呟いた。

 「……光の玉。おまえは一体何者なんだ? 古代の生息していた生き物か、もしくはこの奇異な環境条件が生んだ何か。浮かび上がる水……明らかに物理法則が狂っている。なら光の玉も、そういった物理法則の乱れが生んだものか?」

 「んだぁ……何ぶつぶつ喋ってんだ気持ち悪いな……」

 そこへ目を擦りながらやってきたのは、キキョウだった。気づけばすぐ背後で、馬車の屋根を登りかけたまま止まり、こちらをじっと見つめている。振り返ったグラジオは隙を突かれて身震いした。

 「うわぁ! キキョウさん!?」

思わず大きな声を出してしまった。屋根の下で見張り番の隊員が仮眠していることを思い出すと、グラジオは焦って口を抑える。

 キキョウは完全に開ききっていない目のまま呟いた。

 「……なんだ、眠くなさそうじゃん。じゃあ、俺また寝てきていいか?」

 「駄目です」

 「……だよね」

 キキョウは屋根に登ると、グラジオの横に腰を下ろした。グラジオは入れ替わるようにして、仮眠用の馬車へと向かう。少年は馬車の屋根から勢いよく飛び降りた。

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