第5話(後編・上坂涼)

「……まさか裏世界へ行くために、博物館から盗みを働くことになるとはね。これじゃ順序が逆じゃないの」


 叶絵の夢は、おしゃれな予告状を出し、美術館や博物館から華麗に展示品を盗みだすことだ。そのために裏世界で腕を磨くつもりだった。


 それなのに叶絵は今、裏世界に行くために博物館から展示品を盗みだそうとしている。腕を磨くために裏世界に行きたかったのに、腕を磨いてから挑戦するはずだったことに手を出した上で、裏世界に行こうとしているのだ。ハッキリ言ってめちゃくちゃである。


 それでも叶絵は胸の高鳴りを自覚せざるを得なかった。要は盗みに入るキッカケが欲しかっただけなのだ。


 今回は予告状を出していない。だからこれは言わば不意打ち。正々堂々とした怪盗と探偵の対決の様式を成していないのだ。ともすれば、今回の挑戦は予行練習。裏世界で経験を積み、立派な怪盗として正々堂々と対決をするための布石。


 そうやって自分自身に言い聞かせることにした。


 ごちゃごちゃとした考えが渦巻く脳内。まずは思考をクリアにしなければならない。

 叶絵は先ほどから龍の像にピタリと背中を付け、両目を閉じて精神統一をしていた。


 尾野見歴史博物館。

 日中は小さな子ども達と老人で賑わう憩いの場が、今は戦場と化していた。


 手に汗握る心理戦。神経を張り詰めて、ささいなミスすら犯さないように暗躍し、獲物を鮮やかに掠めとるまでのビッグゲーム。


「とはいっても、警備が厳重すぎやしない?」


 黒のエナメルタイツで全身を包み、黒猫の仮面を付けた叶絵は龍の像の陰から、展示フロアを覗き込む。そこには警部然としたトレンチコートの男と警察官ふたりが向かい合っていた。


「D班、そちらの首尾はどうだ!」

「異常なしであります!」

「了解! 引き続き厳戒態勢を怠らぬよう伝えて回れ!」

「はっ!」


 警部然としたトレンチコートの男と警察官が敬礼。すぐに踵を返して二手に分かれる。


 叶絵は短く息を吐き、どうしたものかと思案する。


 あのトレンチコートの男はマスカレード警部。名うての警部として知られている。


 もちろん叶絵も彼の存在は知っていて、得意とする事柄と行動パターンは分析済みだ。


 しかし問題は分析が済んでいるかどうかではない。マスカレード警部は世紀の大怪盗アルセーヌ・ルパンの末裔を相手取るエリート中のエリート。そのような大物がトナティウの円盤の警備に当たっているというのが問題なのである。


 トップをマスカレード警部が担うだけでなく、30分もあれば余裕で回ることの出来る広さしかない博物館に、館外と館内合わせて50人以上の警察官を配備するとあっては、これはいよいよとんでもない代物だということが分かる。


「やってやろうじゃない」

 叶絵は臆するどころか不敵な笑みを浮かべてみせた。裏世界で大暴れする前座としては充分すぎるマッチアップだ。

 予告状を出していたらヤバかったという臆病な自分は隠しておくことにする。


 良いマッチアップとはいえ、この広さでは小細工など無意味。純然たる経験値にモノを言わせたスピード勝負しかない。


 大胆かつ豪快に。バレなければ勝ちではない。盗み出せたら勝ちなのだ。

 叶絵は懐からスマホを取りだし、軽快に指さばきで画面をなぞっていく。


 ――そして。


 フッと。音も無く館内が暗闇に包まれた。天窓から差し込む月明かりが唯一の灯りである。


「いくわよ!」


 叶絵は闇に身を投じた。どよめきとともにひとつ、またひとつと懐中電灯の光が増えていくなか、一寸の光も届かない闇を目ざとく選び抜いて、漆黒の稲妻の如く疾走する。


「そ、そこになにかいたぞー!」

「ちっ!」


 しかし相手方もそこらの駐在警察官とは格が違う。マスカレード警部に選抜されたエリート警察官の集い。叶絵は懐中電灯の光に一瞬だけ姿を捉えられてしまった。


 みるみるうちに足音の数が増していく。このままではマズイと思った叶絵は仕切り直すため、撤退ルートの見取り図を頭の中に思い描いた。


 するとエリート警察官と叶絵の間に現れる影。


「待たんかお前ら」


 警察官たちに背を向け、ハットを片手でおさえて俯く人物。博物館に響き渡るこの威厳と自信に満ちた声は、今ここにあの人物しかいない。


 そう。マスカレード警部。その人だった。


「け、警部! この先で怪しげな人影が!」

「なにを言っておるんだ。その人影は私だ。ちょうど向こうを巡回していたんだ。特に怪しげな人影など見つからなかったぞ」

「し、しかし! 見えた影は警部のものというより、もっと細かったような……」

「ええい! なにをごちゃごちゃ言っておるか! とっとと明かりの修復を急げ! それにここでひとかたまりになっていたら、それこそ賊の思うツボではないか! 各員定常の位置に戻るんだ!」

「……っは!」


 警部の怒声で萎縮した警察官らは、一斉に敬礼をして定位置に戻っていく。


 マスカレード警部がちらりとこちらに顔を向ける。

 ちょうど月明かりが彼の顔を照らし、うっすらとトカゲのような笑みが見えた時、叶絵は何が起きたのかようやく察することが出来た。


 日付が変わって間もない頃。

 禁足地の竹林には怪盗の黒猫と表世界探偵のトカゲが立っていた。


 他には誰もいない。あるのは風がそよぎ、竹がゆらぎ、葉が擦れる。それだけだった。


「思っていたより大胆なのね」

「多少は大胆でなければ、この家業は成り立ちませんので」

「へえ。本物のマスカレード警部はどうしたの?」

「ふん縛って従業員室のロッカーに閉じ込めておきました。今ごろ顔を真っ赤にして怒り狂っているか、ロッカーの中でもがいているんじゃないでしょうか」


 おもむろにメッサンガワは片手を差し出す。彼の言わんとすることを察して獲物を持ち上げる叶絵。


「いったいどんな能力をもらえるのかしら」

「それはもらってからのお楽しみということで」


 したり顔で叶絵はメッサンガワにトナティウの円盤を手渡した。


「ありがとうございます。……これで」


 不意に叶絵の後頭部を衝撃が襲った。


「!?」


 なすすべもなく地面に四肢を投げ、顔面に土を塗りたくる。

 いったい何が起こったのかと片腕を支えにして身体を奮い起こし、顔を持ち上げる叶絵。そこには皮肉めいた感情を露わにして叶絵を見下ろすメッサンガワがいた。


「これで世界を浄化する宿願を叶えることが出来ます」


 複数の足音を叶絵の耳が捉える。盗人の経験で鍛え抜かれた聴力が、その人数を5と数えた。

 顔を動かし、視線を後方に向けると、叶絵の後頭部を殴打したと思われる者の両脚が見えた。


 つまり、合計7人に囲まれている状況だということ。後頭部を殴られ、地べたに這いつくばっている今この瞬間において、1対7という人数差は覆しようがなかった。


 メッサンガワは懐から拳銃を取り出し、叶絵に銃口を向ける。


「わけもわからず命を奪われるというのは、あまりにも可哀想でなりません。ですので、せめてもの餞別として冥土の土産を持たせてあげましょう」

「……そう。ありがとう」


 幸か不幸か、命を落とすまでまだ猶予があることに叶絵は一縷の希望を抱いた。


 旨い話には罠があるとはよく言ったものだが、キッチリと自分の仕事をこなした上で、殺されることになるとは叶絵は思いもしていなかった。


 なんとか突破口を見いださなければ。少しでも会話を引き延ばして、まずは殴られたことによるダメージを回復させなければならない。

 そう思い、叶絵は力強く拳を握った。


「我々タダン族は、太古から神々の怒りを封印する役割を担ってきた部族でした。しかし時代が移り変わっていくほどに、世界に住まう知的生物は皆、神への畏敬を失っていきました」


 メッサンガワはぽつりぽつりと事のいきさつを語り始めた。しかし叶絵の期待する油断というものは一切生まれる様子はなかった。凜とした態度が崩れることはなく、依然として叶絵の眉間を拳銃で狙い続けている。


「科学が台頭した近年においては、神から与えられる恩恵に感謝するどころか、皆、利用することにのみ没頭する始末」

「良いことじゃない。神に甘えることなく、自分たちの足で歩いて行こうとしているってことでしょ? 日本ではそれを『親孝行』と呼ぶの」


「我々は神のしもべなのです。神の庇護下にいるからこそ生きていける。神がいなくても生きていける世界を目指すなど、あってはならぬことなのです。このようなことを続けていれば、必ずや神々の怒りに触れ、永遠の業火に囚われることとなるでしょう。ついには神に愛想を尽くされ、恩恵を賜ることが出来なくなり、生命はすべからく死を迎えることになるのです」


 叶絵は精一杯の笑みを浮かべた。


「随分とスケールの大きい話だこと」


「しかし現実です。世界が死へと向かっているこの状況を重く見た我々の大老は『世界浄化計画』を立ち上げました。その計画に必要だったのが、トナティウの円盤とテクートリの穂という宝具です。テクートリの穂はタダン族の手にあるので、どうとでもなりますが、問題はトナティウの円盤でした。

 我々の計画をどこで嗅ぎつけたのか、大挙してやってきた人間たちにトナティウの円盤を奪われてしまったのです。そしてどうやっても壊せないと知り、地面深くに埋めたのでしょう。科学が台頭したからこそ出土されてしまったのですから、我々としては神への畏敬を欠いた者達の醜態が明らかになって嬉しい限りです」


「なるほどね」


 叶絵はただただ感心していた。信仰心はここまで知的生物を盲目にするのかと。それと同時に『神のためであれば、どのようなことも正義になる』という短絡的な思考回路を、さも正常のものかのように振る舞っているメッサンガワを哀れに思った。


「大老の側近である我々七星剣は、表世界探偵と称して表世界に潜伏し、この数百年トナティウの円盤を探し続けてきました。そしてついに宿願を叶える時がやってきたのです」


 叶絵は空気がヒリつくのを肌で感じた。いよいよ眉間に銃弾を撃ち込まれる瞬間がやってきたのだと覚悟を決める。


「ねえ、テクートリの穂ってどんな見た目をしているの?」


 メッサンガワが目を細める。


「お土産はこれくらいで良いでしょう。世界浄化後、魂の導きによって再会できることを祈っております。その時は美味しいコーヒーを奢りますよ」


 叶絵は全身に力を込めた。大丈夫。動ける。メッサンガワの長話に付き合ったおかげで、叶絵は朦朧としていた意識からも抜けだしつつあった。


 メッサンガワは引き金に指をかけ、片手で宙に線を描く。


「神の祝福があらんことを」

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