カップスープ

日笠しょう

カップスープ

インスタントのクラムチャウダーをお代わりすることでしか得られない幸せがある。


おいしいにおいしいをかける。おいしいの二乗。ちょっと高いのより、スーパーとかで十把一絡げに並べられている、特徴のないやつが好きだ。素材本来の味と言われるよりも、庶民が少しでも楽しめるようにと、誰かの優しさがこもった味わいに親しみを感じる。なんて、添加物や塩や油の味に慣れきった貧乏舌を高尚に言ってみる。


空になったマグカップを置いて、窓から差し込む街明かりだけを頼りに台所へ。部屋の電気をつけないのは節電、というわけではなく、もちろんスープを好きな時に好きなだけ食べられないくらいには困ってはいるのだけれど、気持ち的に電気を使いたくないのだ。


ケトルを持ち上げると、不安になるくらいの水しか残っていない。ただ、注ぎ足すのも少しめんどくさい。


私は賭けに出た。


薄暗い部屋の中、ケトルの赤い通電ランプだけがぼやぼや光って、まるで私に何かを警告しているようだ。駆け落ちしちゃダメだよ、とか、そのうえで不倫されたのは救いようがないね、とか、挙げ句の果てに不倫しかえすのはもはや手遅れ、みたいな。


深夜12時少し前。スマホをつけてSNSを眺めると、漫画の照れ顔のようなハッシュタグのあとに、厚顔無恥な「動物を解放せよ!」の文字が続いている。タイムラインはそれに埋められて、夕方のニュースでも警察が出動したと言っていた。


環境問題が取り沙汰されてかれこれ数年。問題自体はもう数十年前からあったとは思うけれど、私としてはエコなんてブームの枕詞なので、タピオカと同じ数年ぶりの環境意識高まり期と言っている。ただ、今回は思春期の男の子が情動のまま大人の階段を登るように、世界も少し前進した。進歩というより、転がった。調子に乗って変な感じで転んで、未だ着地点は見えていない。


石油を使うと空気が汚れるのは誰もが知っている。だから石油を使うのは良くないらしい。でも私たちだって空気を汚している。ある人が考えた。今あるものを使う分には問題ないのでは?


例えば北海道の広大な大地で優雅に過ごす牧牛たちの出すメタンは意外と地球に悪いらしい。だけど誰もそれを咎めない。ショッピングモールとかによくある、子供が地団駄を踏むとそれが電力を生み出す謎の機械はみんなが微笑ましく思ってる。創作の世界では自転車を漕いで発電する。


生き物なら許されるのでは?


そこからは速かった。琵琶湖で度々目撃されていた電気ウナギの品種改良に成功し、電気ウナギ1匹でスマホが満タンになるくらいの電力を生み出せるように。さらに研究が進み、今では家庭の一日分くらいは、ウナギ一匹に任せておける。一家に一匹、電気ウナギがいる時代なのだ。


この電気ウナギは少し飼育が大変で、電力会社がまとめて飼育し、家庭に送電している場合もある。少し割高だが、自宅で飼育コストを考えるととんとんかもしれない。なにせこのウナギ、肉食なのだ。しかも牛肉しか食べない。牛肉であればなんでも食べるものの、産地や部位によって電気の質が変わるというほんとかうそか分からない話もある。1ヶ月あたり500gくらい消費する。もっと電力が必要なら、より多くあげなくてはいけない。人間なんて滅多に牛肉食べられないのに。


というわけで安価な牛肉量産に向けた牛さんの品種改良も進んでいるものの、まだちょっと豚肉の方が安い。人が好きに牛肉を食べるにはお金持ちになるしかないのだ。


そんなウナギ優位の時代に貧乏人が怒ったのか、あるいは本当に一寸の虫にも五分の魂を地で行く人たちなのか、国内では大規模な抗議運動が始まった。ちなみに海外でも似たようなことは起きているが、あちらはほんとに自然保護の気持ちだろう。アメリカは牛肉が安いイメージだ。


カチッ、と鳴って、お湯が沸いた。早すぎる。蓋を開けると、乾いた空気が吹き出した。中を覗いてみると、粉が湿るくらいの水しか残っていない。規定の8割くらいしかお湯を入れないで、底に残った溶け切っていない固まりを食べるのは好きだけど、クリーム色の泥団子を作る趣味はない。


ケトルに水を入れつつ横目で時計を見ると、時刻は日付が変わる2分前。暴動の先導者は日付が変わるとともに発電所に突撃すると声明を出した。発電所といっても生簀が並んだ、水族館としても経営していけそうな施設だ。そこに反電気ウナギ発電の団体やその賛同者が流れ込むという。警察は出動しているというが、本当に大丈夫かしら。


生きて帰ってこれたら結婚しようね、と言われたのは2回目だ。1回目は3年前、私が24歳のときでもはや黒歴史。いつかいい思い出だったと言えるのかもしれないけれど、それはその時点から地続きな環境を脱出して、生活が良くなったときだろう。今のところ、私はまだあの時の失敗に囚われている。


大体誠実な人は「愛さえあれば」なんて言わないのだ。愛さえなんてセリフを口にする人は、愛しか渡せるものしかないというのを身をもって知った。仕事もなければお金もない。人として必要なものがないない尽くしで、どうして惹かれたんだろうと思う。たぶん、人とは違うところに惹かれたんだろう。物は言いようだ。


恋愛はジェットコースターなんて、考えた人はどっち側の人間だったのかというのを最近良く考える。スリルを味わうのが好きな恋愛強者が思いつきで言ったのか。それとも、ドキドキするのは登っていく途中だけで、ピークを過ぎたらあとは自然のままに落ちるだけ、曲がったり回ったりするけど再加速は滅多になくて、徐々に冷めていくのを待つ恋愛の本質を、諦観の人が絞り出したのか。


地元の三流大学を卒業して、そのまま自宅から通える建設会社に事務職として就職した。朝も昼も夜も見知った顔ばかりの街で過ごす。どこに行っても見張られている感覚で息苦しかった。


かといって都会に出ようとかそういう気概もなかった。新幹線の止まる駅まで片道2時間という田舎で幾星霜を過ごした私は人生にすっかり冷めていて、この場所でなんとなく、何も残さないまま老いていくんだろうなと諦めていたのだ。


だから今の(ところは)旦那と会った時は、それこそ女学生のように心が沸き立った。彼は東京から出向してきた人で、当時は詳しく語らなかったけれど、今思えば左遷されてきたのだろう。仕事は恐ろしくできなかったが、都会から来たというだけで私には輝いて見えた。少年のようなあどけなさも母性をくすぐったのだが、あれも単に人生経験の乏しさが滲み出ていただけなのだろう。ともあれ事務職で手の空いていた私が面倒を見ることになったのもあり、恋仲になるのにそれほど時間はかからなかった。


どこかに行きたい。何度目かの逢瀬の別れ際、私が零したその言葉に彼は目を輝かせた。


じゃあ、こんなところから逃げ出そう。


私には24年分の鬱憤があったが、彼はこちらにきて半年も経っていない。それを踏まえてもやはり彼は何も考えていなかったに違いない。恋は盲目。過去の私、反省。


この場所から抜け出せる。その思いが先行して、後先を考える余裕がなかった。両親に、彼氏と共に東京へ行くと伝えて案の定止められた時も、却ってそれが燃料となり、はやる気持ちをさらに加速させた。


周囲の反対を押し切り……といえばかっこいいが、反対というよりももう少し良く考えたら? と助言をくれていた人ばかりで、ただただ当人たちだけが盛り上がり、世界に私たちの理解者はお互いだけだと勝手に孤独なふりをして、そして本当に孤独になった。


愛さえあればいいという人は、愛してさえくれなかった。駆け落ちはひとりぼっちへの助走なのだ。


東京に出てきて、たった1年で裏切られ、しかしもうどこにも行けない私は見て見ぬふりで普段通りの生活を送ることを強要された。別に意趣返しの気持ちがあったわけではない。一人でいる週末に耐えきれず、そして身近な人がやっているから、私のなかにも不倫という選択肢が生まれたのだ。


旦那が今何をしているのかは知らないが、私の不倫相手は現在、襲撃の矢面に立たされている発電所に勤めている。彼が無事で、今日この後も世界に電気が供給され続けたのなら、私たちは明日、二人でまたひとりぼっちの未来へと駆けていく。


手に冷たさを感じて、はっと我に返る。ケトルに入りきらなかった水達がこぼれ落ちていっている。顔を上げれば時計は0時を指していた。ダイニングに戻り、ケトルを台に戻す。そしてゆっくり、スイッチに手を伸ばした。点いてほしいのか、点かないでほしいのか。正直どちらでもいいけれど、でもやっぱり、せめてスープをおかわりする程度の幸せくらいは、あってもいいじゃないか。そう願う私を見て、過去の私なんて言うのだろう。ほら、ジェットコースター好きなんじゃん。そんな声が聞こえるようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カップスープ 日笠しょう @higasa_akira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ