byebye Mr.&Mrs 私たち

日笠しょう

byebye Mr.&Mrs 私たち

 非常口の緑の人が逃げ出したので、捕まえてきます。

 そんな頭の悪い書置きを見つけたとき、あまりの脈絡のなさにそれが彼なりの別れの言葉だということに気が付かなかった。そっか、あの緑の人、ようやく非常口から逃げだせたんだ。いつも出口に引っかかってたのもな。良かった良かった、と。

 遅れてここ最近の、ただでさえ普段から挙動不審で臆病で周りばかり気にしている彼の輪にかけて挙動不審で臆病で周りの目、主に私の目を気にする行動の数々が脳裏に浮かんできた。嘘が下手なあの人の言動に見え隠れする私以外の女。逸らした目線。不自然な朝帰り。合わせない目。噛み合わない会話とすれ違う気持ち。対峙しない、目と目。

「誰にも秘密の、自分だけの逃げ道を一つは作っておけ」が座右の銘だった彼が最後に絞り出した私からの逃げ道がこんなしょうもない嘘だったなんて、泣けてくる。それとも非常口の人が逃げ出すほどの非常事態なんていう、彼なりのジョークのつもりなんだろうか。乾いた笑いしか出てこない。今までまともに相手してこなかったけれど、今日からは反面教師として、彼の座右の銘を頂こうかしら。そんなことまで考える。こんな無様な逃げ口上、他人事ながら、泣けてくる。

 でも、本当に嘘なのかな。

 嘘を吐くとき、あの人は決まって目を逸らした。だから面と向かって言われたら絶対に嘘だと見破れるのに、書置きじゃあ仕方ない。もしかしたら本当かもしれない。箪笥に一緒に貯めてた引っ越しの資金も、隠していたはずの私の通帳と印鑑も、別の女との生活費なんかじゃなくて非常口の緑の人を捕まえるための必要経費かもしれない。

 そんな現実逃避をさせるほどに伽藍堂になった2Kで、私は彼が私の目をしゃんと見据えて、それから屈託のない笑みを浮かべて袋一杯の非常口の緑の人を掲げてやってくる光景を思い浮かべていた。

 捕まえてどうするんだろう。食べるのだろうか。


 むしろカゴ一杯に非常口の緑の人を捕まえて帰ってくるまで許さぬと誓ったのはそれから数日経ってからのことだった。成果なしに我が家の敷居を跨げると思うな。何なら私が手助けしてやるから、いっそ荷台一杯に非常口の緑の人を積んだトラックで帰ってきて、運転席の窓から顔を出して手を差し伸べてくれるくらいのことをしてみろよと半ばやけくそになりながら、私は寝泊まりしている小汚い雑居ビルの非常口の緑の人の部分を丹念に白く塗りつぶしていった。ホームセンターで買ったコロコロするペンキ塗り具片手に、地味に、静かに、しかし確実に。私は一人、また一人と緑の人を逃がしていった。幸いに時間だけは大量にあったから、廊下から非常階段から果てにはテナントに入っている事務所に夜中忍び込むなどして、徹底した仕事ぶりを見せた。ビルの非常口の案内全てから緑の人を逃がしたとき、私は達成感と、そして彼への清々しい気持ちを手にしていた。この世全ての緑の人を捕まえてくるまで許さぬ。そして私は、この世全ての緑の人を逃がし続けて見せる。決意を新たに、私はコロコロを握りしめる。

 私が達成感に肩まですっぽり浸ったその翌週、雑居ビルにお触れが出た。

 悪質な悪戯、発見次第処罰、住民の協力も求む、とのこと。

 そして緑の人たちは次々と汚い雑居ビルに戻ってきた。貸したものは絶対返さず、約束も十回に一回しか守らないような彼が、捕まえた非常口の緑の人をそのまま元居た場所に返すわけがないと私は考えた。元に戻すとしても、その前にまず資産価値を考慮し、安値なら加工し、あるいは見世物などにするとして幾らかの利益はあげようとするはず。少なくとも私に見せないなんてことはない。褒められたがりの彼のことだ、私が嫌がろうが拒もうがお構いなしに緑の人を見せつけてくるだろう。おそらく、このビルの緑の人たちは自力帰還したか、もしくは心優しいヤンキーが雨の日に拾って届けてくれたか、ヤンキーとのハートフルな日常の後、涙なしでは語れぬ別れを経て自力帰還してきたのだろう。夢にまで見た外の世界。せっかく非常口から飛び出したのに。きっと外の世界はあまりに醜悪で、胡散臭くて、嘘に塗れていて絶望したに違いない。そんな中転がり込んだヤンキーのもとで彼らはどんな経験を積んだのだろう。心なしか、帰ってきた非常口の緑の人たちは逞しくなっているように見えた。

 しかし、それでは彼の取り分が減るので私は性懲りもなくまた逃がす。

 さあ、行け。外の世界を知るがいい。


 確かに私と彼の関係は冷めていたかもしれない。窓が一つしかないあの部屋で、流れを失った水のように淀み、濁り、膿んでいく。停滞して、意味を見失った関係性。二人があのままあそこにいれば、どちらかが腐っていたかもしれない。そうなる予感は確かにしていたのに、私は何もできなかった。何かするのが怖かったのだ。生き方を変えるには大変な労力がいると彼は言っていた。それまで続いていたものを変えるのは、それまで止まっていたものが動き出すのは、それを維持するより大変なんだと、彼は笑っていたのだ。ちゃんと聞いておけばよかったのかな。彼の一世一代の決心は、たった一枚の紙きれなのにまるで赤紙の如く、私の人生をすっかり変えてしまった。醤油を喇叭飲みしてその役目から逃れるように、私は今も書置きの意味を理解していない振りをして、どこかに逃げ道を探しながら自分に言い聞かせるように、目と耳を塞いでただ生きている。


 私と雑居ビルに関わる何かしらの勢力とのイタチごっこは、業を煮やした管理会社による警備会社との契約及び監視カメラの導入という禁じ手により一つの節目を迎えた。こんな汚いビルのどこに煮やすような業があったのか、あったとしても差し詰めゆでるか蒸すかくらいの柔らかくてちんけなものだろうと思っていたから、管理会社の決断には些か驚かされた。

 しかし、関係ない。

 このビルに最も古くから住んでいる者として、新参者に大きな顔をされるのはプライドが許さない。長年で培った土地勘と技術を余すことなく使い、ばれることなく全ての非常口の緑の人を逃がすことに二度、成功した。二度目などは全ての非常口の緑の人に対して監視カメラが向けられていたものの、管理室に忍び込んで録画テープを盗み出し事なきを得た。その後、警備が厳しくなったのでそのビルでの活動は不可能になったが、警備会社との手に汗握る対決の日々が私を成長させた。逃がすばかりではない。今度は私が外の世界に飛び出す番だ。なけなしの貯金と仕事道具を担ぎ、私はビルから夜逃げした。

 数々の建物や施設を渡り歩き、非常口の緑の人を逃がし続けた。時には博物館や銀行にだって忍び込んだ。次第にそれは噂や都市伝説の類となり、警察が報じたことで現実の犯罪となった。一世を風靡する時の人。世間の盛り上がりは一瞬だったが、そういう人間を求める人種や職種が少なからずある。監視の目を掻い潜る、絶対安全の脱出経路までの案内人。私はただ非常口の緑の人を逃がしていただけなのに、いつしかそれは別の意味合いを持ち始め、やがて彼らは私をこう呼んだ。

 逃がし屋と。


 入念な下調べと、素早い立ち回り。事前に地図を渡すのではなく、その日の警備の癖を見抜いてその日限りのルートを記す。言葉にすれば恰好がつくが、要は人の目を盗んで非常口の緑の人を効率よく逃がしているだけである。私が辿った経路が偶然人を逃がすのにも適したものになってしまったから、私はそれを売っているだけだ。元より真面目に働いていたわけでもないし、社会に貢献する気だって微塵もなかった。私はただ彼と過ごしていただけだし、彼がいなくなった今は緑の人を逃がしているだけだ。それはどっちも変わらない。健やかに暮らすことができるなら、それでよかった。

 道を作るのは簡単だ。分かれ道なら、どちらかが正解。三叉路なら、そのうちの一つが正解。私はそれを間違えないように選び抜いているだけだ。

 人生を道だという人がいた。だとしたら、それは間違いだと思う。

 今歩いているこの道が合っていたのかどうか、彼が今いるところがあっているのかどうか、私にはさっぱり分からない。この道が正解かどうか、間違っているのだとしたらどこで道を誤ったのか。誰も教えてくれない。正解なんて死ぬまでわからない。ただ一つ、この道を正解だと思い込まなければ、人生なんてやっていけない。

 そんな自信、今の私にはない。

 私は粛々と、非常口の緑の人を逃がしていくだけだ。

 有名になって仕事はし辛くなったけれど、有名になったおかげで仕事を続けることができている。これも有名税ってものなのかしら、と非常口の緑の人を逃がしながら思う。屋上へと続く扉、ここで最後だ。今日の買い手は最上階に用があるらしい。あとはいつものようにビルから出て、私が定めた一定の時間内なら経路は有効であるという旨のメールを送る。少ししたら訂正のメールを再送して、私の仕事はおしまい。あとはしくじろうが捕まろうが自己責任。逃げきれないのは私のせいではない。

 携帯をぱたんと閉じて、ついでに朝ご飯のことも考えながら家路につこうとして、夜をひっくり返さんばかりのけたたましい警報に吹き飛ばされた。

 しくじった? この私が? まさか、彼じゃあるまいし。

 いつも足を引っ張ってくれていた彼のおかげで、却って冷静になれた。冷静は言い過ぎかもしれない。忘れかけていた彼の嫌な所を思い出して若干頭に血が上っている気がする。

「ごめんなさぁい。みゆ、気まぐれ屋さんでぇ」

 だから、機嫌を逆なでする甘い声に自分でも引くような形相で振り返ってしまったのは、私のせいではない。

「あなた、客?」

 女は正気を疑うピンクのレオタードに身を包んでいた。

「は、はい。そうでーす」

 顔をこわばらしていた女は気を取り直したのか、猫なで声と表情筋が溶解したかのように緩い笑顔を浮かべる。

「予定よりずいぶん早いお付きで。エンジンかっと飛ばしてきたんですか?」

「ええ、まあ。みゆ、泥棒猫っていうかあ、自分の前世は絶対猫ちゃんだと思ってるんでえ、気まぐれなんですよねえ」

 自分のことを猫科と称す霊長類の雌とは関わらないようにするのが私の主義だ。無視してすれ違おうと試みる。

「待ってくださいな、逃がし屋さん」

 みゆが後ろから私の肩を掴む。その拍子にバランスを崩した私は、みゆに覆い被さるように倒れ込んだ。

「いやあっ」とみゆが私を跳ねのける。嫌とはなんだ。

「あ、ごめんなさい。でもペンキ付いたらやだなあって」

「じゃあ、離れましょ」

「いえいえ、せっかくですし一緒に逃げましょってば。みゆ、一度でいいから逃がし屋さんとご一緒してみたくてえ。ほら、私たちって女では数少ない、裏社会の人間じゃないですかあ。しかも、みゆも逃がし屋さんも超有名人」

 一言一言が癪に障るこの女の名前など聞いたことがなかったが、それに突っ込んだところで無駄な会話が続くだけだ。大方実績とか実力とかの知名度ではなく、単にクラスの誰にでも股を開く女くらいの担ぎ上げをされているのだろう。頭も緩そうだ。

「あなた、泥棒?」

「違いますよぉ〜。義賊です、みゆはみんなを幸せにするんだにゃん」

「忍んでるくせにその服って、正気?」

「みゆは女捨ててないんでぇ、いつだって勝負服ですっ。逃がし屋さんは……辛くないです? そのかっこ」

 仕事の日は汚れるからつなぎを愛用しており、飾らない感じに愛着もわいていたのでが、この女に言われると泥をかけられた気分になる。

「私だって女捨ててませんよ。でも、こんなところで誰に媚びを売るんです?」

「私レベルになるとぉ、お客さんはどこにでもいるんでぇ。逃がし屋さんも紹介しましょうかぁ?」

「それって本当にアイドル? 主に男性向けの家庭訪問的な仕事でなく?」

「経験あるんですかぁ? みゆは違いますけど、みゆはみんなに幸せ届ける義賊だにゃんっ」

 これはちょっと、生きてて一番辛いかもしれない。

「早く逃げよう。そんなに有名なら捕まっても大変でしょ」

「みゆは大丈夫だけど、逃がし屋さんは大変かもー」

「なんであなただけ?」

「みゆにはファンがいっぱいいるからぁ。もちろん、警察さんにも、ね?」

 色仕掛けというわけだ。

 本当に同じ人種なのだろうか。男には女がこう見えているのか? もし彼にとっての私がこんな感じだったのなら、さすがに同情する。それは仕方がない。誰だって逃げたくもなるだろう。私も逃げたい。今一番逃げたい。

 頭の中で、ルートを再構築しつつ階段を駆け下りる。非常事態だ。警備の仕方も変わるだろう。カメラにも注意しなくてはいけない。映ったら最後、この状況で録画データを破棄することは難しい。カメラの周期、位置関係、警備の人数や増援が来るまでの時間。それら全てを考慮に入れて、最適な脱出経路を導き出す。

 大丈夫。安全な脱出ルートは必ずある。

「みゆ、ファンはたくさんいるんだけど、友達がいないっていうかあ、普段は地下アイドルやってるんだけどぉ。やっぱりそれってファンでしかないし、お金にもならないしぃ。だからお金も手に入ってスリルもある泥棒になってみたんだけど、やっぱ友達が欲しくてぇ」

「さっき義賊って言ってませんでした?」

「みゆが幸せならファンのみんなも幸せでしょ? 今夜だって、お家で待ってるファンのためにお宝を盗みに来たんだから。だからね、みゆは義賊ナイトキャットなんだにゃん」

 その営業スマイルの中に善意を見つけ出すよりも、枯葉に生命力を見出すか、砂漠で雪の結晶を見つけ出すことのほうがまだ簡単に思えた。彼女の悪意は活き活きとしていて、自分のために、他人を蹴落とすために、まるで蒸気機関車が唸りを上げて荒野を縦断するように力強く疾走しているように感じられた。私にはないな、と少し投げやりな気分になる。私には、みゆのような生きるための燃料がない。ただ惰性に、今までの人生の勢いを消費しながらゆっくり停止に向かって歩いているだけだ。腐っても彼女に憧れたりはしないが。

 慣性の法則だよ、と彼が言ったことを覚えている。

 いなくなった人のことは、一体いつまで覚えていられるのか。彼と過ごした季節という映画の中から映像が、シナリオが、そしていつの間にかそれを思い出す観客さえも抜け落ちていった。後に残るのは走馬灯のようにふと蘇るワンシーンと、去っていった観客に呼びかける、途切れ途切れな彼の声だけだ。


「林檎が落ちるのを見てニュートンが発見したように」

「それは万有引力の法則なんじゃ」

「えっ、じゃあ慣性の法則は誰?」

「さあ。梨が空を飛ぶ夢でも見た人じゃない?」

「じゃあそれでいいや」

 彼の話に信ぴょう性や中身なんてものはいつもなく、レストランのBGMのように私はそれを聞いている。主張せず、沈黙せず、合間合間に知っている曲が流れると思わず耳を傾けてしまうように、そういえば会話の途中だったと思い出す度に私は適当に相槌を打っていた。

「あるヨーロッパ人が空飛ぶ梨を見かけた。もちろん、梨自体に飛行能力なんてない」

「あるかもよ」

「ヨーロッパの梨は慎ましやかな品種なんだ、きっと」

「まるで日本産が騒がしいみたいな」

「君がフランス産だったらよかったな」

 食事中だったのか、仕事中だったのか。朧げな記憶の中、確か向かい合ってはいなかったと思い出す。隣同士だったはずだ。目は見ていない。彼の話の半分以上は嘘でできている。

「梨は誰かが投げたものだ。誰かの力が梨に伝わって、梨は空を飛び続けた」

「落ちないの?」

「動いているものは動き続け、止まっているものは止まり続けようとするっていうのが完成の法則のキモなのに、誰かがただの梨に空を飛ばせたばかりに、梨は落ちざるを得ない」

「梨に空を飛ぶ品種なんてないもの」

「苺にだってないよ。まあ、きっとなんにだって慣性はあるんだって話だよ。梨に限らず、例えばきっと人生とかそういった形のないものにも。梨は普段から止まっていたから、空を飛ぶという変化を受け入れられず地に落ちた。今まで続けていたことは止めづらく、止まり続けていたものが何かをしようとするにはそれ相応の力がいる。生き方がなかなか変えられないのも、こうやってまだ僕たちが付き合っているのも、それは慣性の法則のせいなのかもね」

 諦めたような彼の声が蘇る。カップラーメンの香りが漂ってくる。そうだ、あれは下見のために張り込んでたときだった。廃ビルの窓際に並んで一緒にカップラーメンを啜って、「健康大国の日本が世界に誇ってるんだから、長期的に見て不健康でも短期的に一食ならむしろ健康にいいだろう」といつものように汁まで残さず彼は平らげた。嘘をついてまで食べるくらいなら、やめればいいのに、と私が言ったんだ。それがカップラーメンに対してだったのか、彼の吐く嘘に対してだったのかはもう分からないけれど、彼は悲しそうに

「生き方は簡単に変えられないよ」

 と言ったのだった。

 懐かしいような、うっとうしいような、だけどそんなあの頃にはもう付き合いたての刺激なんて消え去っていて、さながら熟年夫婦のように互いを気遣いながら、その関係を保とうとしていた。相手を思いやるふりをして、自分を慰めていただけなのかもしれない。この人に優しくできるのは自分だけ。思い出は色褪せないから。そんな幻想を抱いて、自分の価値を見出していた。思い出す記憶はすっかりセピア色に染まっているというのに、過去の私は変化に怯え、でもささやかな未来を期待し、毒にも薬にもならないぬるま湯に浸かっていた。幸せではあった。思い出があったから。楽しみがあったから。もしかしたら何か変化が起きて私たちはもっと幸せになれるかもしれない。

 その後。変化に期待と恐れをいただいていた私に訪れたのは、私の期待のどれもこれもを打ち消す、終わりを告げるものだったけれど。

「関係ないかもしれないけれど、海外の梨って洋梨よね、きっと」

「洋梨は空を飛べるのかもしれない」

 ただ、あの頃は楽しかったなと、今になって恋しく思うのだ。


 一人になってから、夜に眠るのをやめた。

 月明り灯る、静かな夜。充電器に繋いだ携帯の点滅や、外の街灯。青白い光が空っぽの部屋を満たして、ゆらゆらと、今自分の横たわる地面が不明瞭で、まるで海の底に漂っているみたいだった。空の遠い世界で私は海底に横たわり、じっと水面を見つめて、息を潜めて、そうして静かに手に持った包丁を胸へと突き立てる。何度も見た夢は、もはや夢なのかどうかも区別がつかない。私の願望が見せる幻影なのか、記憶が呼び覚ます幻想なのか。一人では広すぎるベッドから見上げる灰色の天井は見慣れたはずなのにどこか新鮮で、掲げていないはずの両手を、握っていないはずの包丁の煌めきを、刺さっていないはずの肌の感触や肉厚や体温や流れ出る血の生臭さや浮遊しているような不安が、溶けて、そうして気づいたときには朝日が差し込んでいる。そんな夜に嫌気がさして、私は昼間におさらばした。

「地下アイドルって楽しいですか」

「生活には困りませんよ? 貢がれるんで。でも足を引っ張ってくる人が多くてえ、今日だって、ここ、私の前の所属事務所があるんですけど、あまり外に出したくない書類とか出すぞとか脅されてぇ、仕方なく? いろいろ盗ってきたんですけど」

 そう言って見せられた手提げ鞄の中には、様々な大きさや厚みの封筒が入っていた。

「過去とかバラされるのは寒いしぃ、みゆ、昔のみゆのことは忘れたんです」

「色々やってきたんですね」

「逃がし屋さんと同じです。体の訪問販売ってやつです」

「私はしてないけど」

「それも駆け出しだったんですけど、何人目かのお客さんにアイドルになりたあいって言ったらぽいってお金くれて。でもそういう過去って消したいからあ、ここの社長さんにはさっき眠ってもらいましたぁ。まあ結果良ければ全て良しって感じぃ? 今さえ最高なら過去のみゆなんてぽいっ、です」

 みゆは封筒の一つをくしゃりと潰した。それが永眠じゃないといいけど、と私は思う。

「逃がし屋さんも、人生上手く行ってなさそうですね」

「余計なお世話。あと、私はそんな風にアイドルをして楽しいかって聞いたんですけど」

「じゃあ、逃がし屋さんは楽しいんです? 仕事」

「私のこれは副業みたいなものだから」

 言って私はコロコロを見せびらかす。

「案外短いんですね」

「伸縮自在なの、意外と便利よ」

「如意棒的な? 猫ちゃんなみゆには似合わなそうですねー」

「私は気に入ってる」

 降りて、曲がって、隠れて、昇って、また降りて、やり過ごして。私の作ったルートは完璧なはずだ。道を選ぶのは簡単だ。ただ道なりに進んで、曲がり角に当たれば、客観的事実から正解の道を導き出す。それの積み重ね。なのに、どうして人生だけはうまくいかないのか。同じことのはずなのに、どうしても正解が分からない。今までの道が、これからの道が、どうしても自信をもって正解と言えない。不安を抱えたまま次の曲がり角まで歩き続ける。それの繰り返し。

「みゆはアイドルになるために生まれてきたんだなって、常々思うんですよねえ。みんながみゆの生き様に釘付けになって、みゆがどう生きても誰も否定しなくて、今が最高だなあって」

「幸せね、そんな考え方」

「逆にこれ以外に幸せになる方法ってあります? 逃がし屋さんにはいたことないだろうから分からないかもしれませんが、恋人含め、どうせ人なんて誰か他の人がいないと自分でいられない生き物なんですよお。それが利用であれ、比較であれ。見ている相手が下等生物なのか鏡なのかって違いじゃないですかあ?」

「そこまで分かっててそれをやっているなら、性悪ね」

「誰にも夢を与えない生き方より社会貢献していると思いますけど」

「ほおら」

「今だってペットちゃんを飼っているんですよ? ずっと自分について悩んでいた可哀そうな豚さんを骨抜きにしてあげて、全財産をみゆのために使わせてあげて、今も幸せそうにみゆの部屋で眠っているんです」

「監禁とかでなく?」

「捉え方は人それぞれですよ。みゆはそうは思いません。みゆのために全てを捧げるのがみゆのファンの一番の幸せですから。ああでもお」

 みゆが卑下た笑みを浮かべる。吐き気を催す、人間の悪い顔。絶対に相手を傷つけられると分かった人間の、勝利を確信した顔。ああ、心底。

「逃がし屋さんって、幸薄そうですよねっ」

 別に人並みじゃなくたっていいじゃないか。陰の方で生きている。誰に迷惑もかけちゃいない。いやまあ、仕事は少し非合法かもしれないが、日向で普通に暮らしていたら多分、自分も周りも面倒だ。信じていた人が、親が、友が、嘘を吐いて、裏切って、私を売って、人並みに暮らせなかっただけで、それすらも私のせいなのかと。逃げるように選んだ道を正解と思うしかなくて、だけど隣の芝生が目に入るたびに自分の国が酷く貧しいものに思えて。あの時黙ったまま殴られていればよかったのかとか、あのまま抵抗せずに売られていればよかったのかとか、反論せずに認めていればよかったのかとか、過ぎ去っても正解か不正解だったのか分からない選択肢を延々と悩み続けている。悩んでいるということは、不正解だと思っているということなのだろう。正解だったという自信がない。今を生きている私に、自信がない。

 でも、今ここで自分を不正解だと認めてしまったら、それは私が心底嫌いなあいつらのことを認めてしまうことになるから。私は不正解だと薄々感じながらも、あいつらに負けないために寂しく知らんぷりをしながら正解だったと思うしかないのだ。

 だから、あなたみたいな人は。

「私、あまり面と向かって人のこと嫌いって言わないタイプなんですけど」

 心底。

「あなたのこと嫌いみたいです」

「奇遇! みゆも逃がし屋さんみたいな人大嫌いー」

「アイドルが他人のこと嫌いとか言っていいんですか?」

「どうせ逃がし屋さんとは今夜限りだし」

「そうね。次で最後の分かれ道。あなたとはそこでおしまい」

「それでぇ、次はどうすればいいんです?」

「そこの部屋に入る」

「そのあとはぁ?」

「企業秘密」

 言いながら、私は扉に手をかける。

「いやだなあ、信用してくださいよお。みゆは裏切ったりなんてしませんよお」

「ご生憎、嘘には慣れてるの」

 たくさんの嘘を吐かれた。たくさんの裏切りにあった。でも、あの人は嘘は吐いたけど、最後まで裏切ったりはしなかった。あの人の嘘は、弱い自分を守るための嘘。弱い私を騙すためでもなく、誰かを傷つけるためでもなく、ただ自分の存在を煙に巻き、距離を置いて自分を傷つけないための嘘。

 私は彼の嘘を見抜いても咎めたりはしなかった。優しい嘘だと知っていたから。

 ああ、だから早く謝りに来なさいよ。


「見てない見てない。何も見てないよ」

 他に人がいることは予想外だった。そもそも衝動的な犯行だったから完璧とは程遠いのだけれど、それでも目撃者の存在まで許してしまうとは我ながら情けない。

 ここで人生を棒に振るか、それとも申し訳ないが無関係のこの人の人生を棒に振らせてもらうか。二つに一つ。選択の時。どちらが正解か、やけに回転数の上がっている頭で考える。パニックを通り越すと、人は却って冷静になるらしい。私は存分に冷えている。だから今なら、もう一人くらい。

「うわぁ、生きてるよ、まだ」彼は大げさに驚いて見せながら、車の屋根の上を覗き込んでいた。「いや、僕の車は死んじゃってるけど」

 町はずれのモーテル。三階の部屋。駐車場に面した窓。そこから見下ろす、彼と、彼の車の上で伸びている口だけの婚約者。

 金の上に成り立つ肉体関係から、張りぼてみたいな愛情を嘯かれて、よせばいいのに馬鹿みたいに期待して、奥さんだの裁判だのお金だの、面倒くさいこと話を持ち出して挙句の果てには社会のごみ呼ばわり。そんな社会のごみに金払ってまで抱かせてもらっていたのはどいつだよと思いつつ、気が付いたら窓の外に突き飛ばしていた。

「僕も窓から飛び降りるときは車用意しとこ。すぐ逃げられるしね」

 車の周りを一周した彼が運転席に入ると、遅れて気の抜けたエンジン音が聞こえて、止まった。

「こいつはもう駄目みたいだけど」

「ごめんね、車」

「いいよ」

「もっと壊すけど」

「え?」

 彼を手にかける気はもうすっかりなくなっていて、しかしどうせ捕まるにしてもせっかくならあの中年の息の根だけは止めておきたいと窓のサッシに足をかける。彼はそんな私を見止めるとあたふたしだして、いいことあるよ、だとか、ほら、お姉さん日本人だし、だとか訳の分からない慰めをした。

「日本人と外国人で、飛び降りに差があるの?」

「日本人は慎ましいから、あまり飛ばないんじゃないかなって」

「清水寺とかあるじゃない」

「ああ……で、でも生きてたらいいことあるかも」

「本当?」

 私が問い詰めると、彼は目を逸らした。

「嘘だ」

「嘘じゃないけど……いや自信もないけど」

 彼は俯いてしまった。足で着地すべきか頭から行くか、それとも重力に身を任せたエルボーで華々しく命を散らすか私が悩んでいると、彼がまた声をかけてきた。

「お姉さん、車で来たの?」

「そう。そいつの車だけど」

「鍵は? あの、ほら、僕の車、こんな感じだし。代車が欲しいなって」

「コートの右ポッケ」

「ふむ」

「いや、私の」

「えっ?」

 言って私はキーをひらひらさせた。

「昔っから手癖が悪くて」

 ぽい、とキーを放ると、彼はわたわたしながらキャッチの体勢を取り、でも結局落とした。

「黒のワンボックス」

「あれかあ」

 彼は私たちが乗ってきた車に乗り込むと、自分の車のすぐ横に付けた。

「さあ、逃げよう」

 運転席から顔を出した彼が、屈託のない笑みでそう言った。

「は?」

「逃げないの?」

「逃げるって、一緒に?」

「うん」彼が、こちらに手を伸ばす「いいことがあるって言いきれないけど、でも僕が幸せにするよ。少なくとも、君がそんな悲しい顔しなくて済むように」

「してない」

「してるよ」

 伸ばされた手が震えていた。彼の小さな目は潤んでいて、きっと今すぐにでもこの場から逃げ出したいだろうに、見ず知らずの私なんか捨て置きたいだろうに、そうしないでこちらに手を伸ばしている。

 彼は嘘をついている。自分を騙し、私を連れ出すために。

 でも、嘘じゃないとも思った。何がとは言えないけれど、何かが本当のことだと、直感した。

 次の瞬間、私はワンボックス目がけ飛んだ。

 一瞬のこと過ぎて何がどうなって車の上に落ちたのかはよく分からなかった。ただ体がふわりと軽くなって、それまでずっと私を湿った奈落に引きずり込もうとしていたしがらみや事情を全部部屋に置き去りにできたような、初めて味わう解放感と心地よい体の痛みが全身を駆け巡り、私はしばらくその場から動けなかった。

「生きてる?」

「生きてる。今度飛び降りるときも車の上にする」

「すぐ移動できるしね。さ、行こう」

 手を引かれるまま、助手席に滑り込む。屋根を壊してしまったかなとふと思う。

「天井、穴空いてませんか?」

「うん? ……そうみたいだね」

 やっぱり。だから雨が入り込むんだ。この両手に溢れる雫は、雨のせいだ。

 一息ついてシートベルトを締めてから、私は隣の車を見る。

 やっぱり隣に飛び降りればよかった。


 扉を開けた瞬間、肩を掴まれて思い切り後ろに吹き飛ばされた。

 背中を強かに打ち付け、息が止まる。

「道案内ご苦労様ですう。もうすぐ出口なんですよね。じゃ、ここで逃がし屋さんとはさよならですっ」

 錠の閉まる音がする。嵌め殺しのガラス窓から、みゆがこちらを見下しているのが見えた。

「やっぱり犯人逃亡中の殺人事件より、犯人が捕まっている事件の方が都合がいいじゃないですかあ。なんで、逃がし屋さんにはみゆの身代わりになってもらいまあす。逃がし屋さんの通る道には、非常口に目印がある。これって有名ですよねえ。ってことはあ、それさえ見つけちゃえば私だけで充分。なのであなたは、もう用無しですっ。大人しくみゆの代わりに捕まっちゃってください」

 きゃは、とみゆが笑う。

「そうですけど、状況は刻一刻と変化しますから、私の付けた道が絶対に安全とは限らないですよ」

「それが嘘だってのは、逃がし屋さんが一番良く分かっているんじゃないんですかあ」

「……そうですね」

「はい、みゆの勝ちい。みゆ、逃がし屋さんみたいな人、本当に嫌いなんですよお。頑張って隠しているみたいですけど、透け透けなんですよねえ、日陰者臭さって奴? 負け組の癖に格好つけちゃってまだ負けてないみたいな? いやいや負け犬だしい、早く認めて大人しくみゆみたいな上位カーストの踏み台になればいいのに。存在させてもらっている分際で一人にしてとか、何贅沢なこと言っているのって感じ」

「なかなか生き方は変えられないもので」

「そういう斜に構えて距離を置いてんのがむかつくんですよお。それで頭のいいつもりですか? 物事の中心にならないのとなれないのは違うんですよ。なれない癖にならない風を装って日向にいない言い訳して、そういうのに限ってみゆに噛みついてくるんですよね」

「分かります。私、絶対にあなたとは仲良くなれないもの」

「今のペットちゃんだって生き方は変えられないだの苺は空を飛ばないだの、意味分からないつぅの。どうして陰キャってそうひん曲がった考え方なんですかね。あ、だから陰キャなのかあ」

 ドア越しにも、みゆの高笑いが嫌らしく耳元を撫でてくる。あと三分もすれば警備員がやってきてお縄にかかってしまうだろう。

 そうなる前に。

「昔付き合ってた人が嘘つきで、臆病者で、そのくせ性質が悪いほどのお人好しで。そんな人だからよく貧乏くじ引くんですけど、卑怯者な人でもあったから必ず逃げ口を用意してたんです。まあ、それも哀れなほどにお粗末なんですけど」

「なんの話ですかぁ?」というみゆの声は明らかに不機嫌そうだった。私は顔を上げずに二の句を継ぐ。

「だから、自分のときはちゃんとした逃げ口を作ろうと思って。誰にも内緒の、一発逆転の逃げ道を」

 廊下の先から複数の足音が迫ってくる。

「あなたの言うとおり、私の道は絶対です。だから、こんな時のために罠を用意しておくんです。あえて嘘の道に印をつけておくんです。本来なら利用者がそこにたどり着く前に訂正のメールを送るんですけど、今回はその前にあなたがきた」

 肌身離さず持っていたコロコロを目一杯に伸ばし、つっかえ棒のようにドアにあてがう。気づいたみゆがドアを開けようとするが時すでに遅し。袋の鼠はみゆの方。

「なんなのよぉ」

「私、心底あなたのことが嫌いですけど、あなたが私の鏡でよかった。あなたみたいはなりたくないなって考えてたら、今まで悩んだこと、すっきりしちゃいました。今日あなたに会えてよかった。別に正義の味方気取るわけじゃないです」

 立ち上がり、ガラス越しのみゆを見据える。ああ、滑稽だ。

「これはただの私怨」

 彼氏の浮気相手くらい、把握してるっつうの。

「あっ、それみゆの!」

 私が手元で弄んでいたものに気づくと、みゆは目を丸くして叫んだ。

「なんで、いつの間に! 返してよ! それみゆのキー! あんた最初からっ!」

「昔っから手癖が悪くて」

「ビッチ! 負け犬! ブス! 男に尻振るくらいしか能がないくせに! 大人しくみゆの踏み台になっていればいいのにっ」

「それあげます」ありったけの罵倒を投げかけるみゆに、私はコロコロを指さした。「お似合いですよ」

「糞女!」

「知ってます? 洋梨って、飛ぶんですよ」

 ぱっと身を翻し、窓の方へ。道すがら、塗りそびれた非常口の緑の人が目に入る。ああ、一人逃がしそびれてしまった。でももういいか。たぶん、目的は達成したし。

 とん、と跳ね、そのまま窓ガラスを突き破る。くるりと回転する風景はきっとあの時見逃したものと同じなのだろう。きらきらと光っていて空も地面もなく世界は私を中心に回っている。今まで通ってきた道が今こうして飛んでいる私につながるのなら、それがきっとさして悪いことばかりではなくって、ちょっとは正解だったんだなと思えた。

 どすん、と背中から落ちる。痛みに身もだえながら、ボンネットの上を滑り降りる。上階から喧騒が聞こえるが、あまりの衝撃に遠く聞こえた。さて、と私は手当たり次第にキーのリモコンを押す。

 浮気者を捕まえに行かなくちゃ。


 


 




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