1人のための演奏会
長峰永地
1度きりの出会い
「はっはっはっは」
乾いた笑い声が、安居酒屋に響く。
男が座る、一人用のテーブルにはすでにジョッキが三つも空になっている。店員は男のテーブルの周りをうろついているが、ジョッキを片づけようとはしない。
店内は閑散としている。それもそのはず、店は看板を落とし、もう十五分が過ぎている。
「お客様、大変申し訳ございませんが、閉店のお時間となっております。お会計を頂戴してよろしいでしょうか」
「もう少しだけ、いいじゃないの。ほら、料理も残ってるし」
「申し訳ございません。お客様さえよろしければ、こちらのお食事は詰めさせていただきますので…」
店員はここで言葉を切った。
態度こそ穏やかではあるものの、有無を言わせない雰囲気がある。
「…わかったよ。出てけばいいんだろ。ほら、釣りはいらないよ」
男は店員にそう吐き捨てると、財布から一万円札を出し、テーブルに叩きつけ、店を後にした。
男は北風の吹くビル街を歩いている。
1人歩く男の名は綾川秀忠。
先日まで都内にあるオーケストラでコンサートマスターを務めていた。
「どいつもこいつも、俺のこと馬鹿にしやがって。さっきの店員といい、新しく入ってきた指揮者といい。やってられるか全くよ」
終電も終わり、人もほとんどいない街に秀忠の声が響く。原因は先ほどの店での一悶着ではなかった。今日のオーケストラの集まりで新任の指揮者に言われた一言、それが秀忠の逆鱗に触れたのだった。
「なにが、『君の演奏には心がない』だ。『このままの演奏を続けるならば、楽団を辞してもらう』だ。ふざけるなっての」
鼻息荒く街を歩く秀忠の視界に、妙なものが映る。大きく開かれた男の脚。
それが、立っていれば気にも止めなかった。
しかし、それが道の真ん中に寝ていれば話は別だった。
この寒空の中、道の真ん中で男が寝ている。
秀忠は脇を通り抜けながら男を眺めると、とてもいい笑顔で寝ている。
今の秀忠にとって、その幸せそうな寝顔を恨めしく眺めながら通り過ぎたところで、強い風が吹いた。
自分も身震いしながら、歩いていると、後ろからくしゃみが聞こえた。
「自分には関係ない。こんなところで幸せそうに寝ているのが悪いんだ。そうだよ、別に関係ないね。明日の新聞で、男が凍死とか出ていても、俺は、何にも悪くはない…ないけど。あーもう。おっさん、こんなところで寝てたら死ぬぞ」
「んあ?兄ちゃん、俺の家でなにしてるんだ?」
「道路だよ。あんたの家はどこだよ」
「ん?あっち」
男はそう言いながら空を指す。
寝転がっていることに気が付いていないようだ。
「あーわかった、わかった。交番に連れてってやるからな」
「兄ちゃん、ポリ公かぁ?」
「んなこと言ってると、ここに置いていくぞ」
秀忠は寝ていた男を脇から支え、交番に連れて行く。
道中、男は見知らぬ女についていきかけたり、路上で用を足そうとしたりと、秀忠を振り回していた。
交番に着くと、中にいた若い警官から「お名前は?」と聞かれたが、秀忠は偽名を使い乗り切った。
「変な親父のせいで、無駄に疲れた…。今晩、どうするか…。お?」
その時、秀忠の目に止まったのは、腰まで届く黒髪、すらりと伸びた手足。
後ろ姿しか見えないが、どことなく品を感じる歩き方。端的に言ってしまえば、いい女、である。
秀忠は見えた女を追いかけると、声をかけた。
「こんな時間に何してるの?」
前に回り込み、声をかけた秀忠は目を見張った。想像通り、いや想像以上のいい女だったからだ。
声をかけられた女も、目を、丸くしている。
それはそうだ。
こんな時間に見知らぬ男から声をかけられれば誰でも驚くだろう。
秀忠は、気にすることなく話し続ける。
「実は終電を乗り過ごしちゃってさ。あなたさえよければ、飲み付き合ってくれない?」
女に、反応はない。
目を見開き、固まっている。
秀忠は寒空の下、空気ではない別の寒さを感じていた。
「…いきなり話しかけて悪かった。それじゃ…」
「居酒屋で良い?」
秀忠が向き直ろうとしたその時、女から声が返ってくる。
横笛のような涼やかな声が響く。
秀忠は、首を縦に振った。
秀忠が目を覚ますと、そこには見知らぬ天井が視界に入る。
なぜここにいるのか。
それ以前にどうやってここに来たのかも覚えていない。
「あれ…。昨日は、居酒屋から追い出されて、その後に、どうしたっけ…。あ、そうだ。女に声かけたんだ。その後、飲みに行って…。いい女だった。またお目にかかれないかな」
秀忠は寝返りを打つと、その女がすやすやと寝息を立てていた。
しかも服を着ていない。
秀忠は寝ぼけ眼を見開くと、一度目を閉じ改めて女を見る。
目に映る景色は変わらない。
夢ではないようだ。
女は「うーん…」と声を出しながら目を開いた。
その両目はまっすぐに秀忠を見ている。
「えと、その、あの…おはよう」
何も言葉が出て来ず、あいさつをしてしまう秀忠。
女は答えない。
自分の鼓動が徐々に大きくなる。
背中に冷たい汗が流れる。
時間が遅い。
「…やったの?」
再び問いを重ねても、女は答えない。
こめかみが脈打ち頭痛がする。
女がゆっくりと口を開いた。
「ここにいる?」
「はぁ?」
彼は変なところから声を出して、口を開けている。
私変なこと聞いたのかしら?
…聞いた。
それだけ言うと私は、彼と一緒に寝ていた布団から抜け出し、隣の部屋へつながる引き戸を開く。
「着替えるから、のぞかないで」
それだけ言うと、彼の返事も待たずに引き戸を閉じた。
彼が私の目の前にいるなんて、信じられなかった。
しかも、一緒に寝るなんて。
私が音楽の道に進んだ、きっかけの人。
でも、今の私は…。
手早く着替えを済ませると、再び彼の寝ている部屋に戻る。
彼に会うため…ではなく、そこを通らないと、家から出られないのだ。
「出かけるから。このままいていいです」
何を言われているかもわからない様子の彼を置いて家を出る。
カギはかけない。
アパートの外付け階段を下りて、いつもの道を歩いていく。
音楽の道を目指して一人暮らしを始めて、アルバイトとヴァイオリンのレッスン、その二つで生活が占められていた。
でも、次第に気付いていった。
私には音楽の才能がないことに。
初めは目を背けた。
自分には運がないだけ。
もっと練習すれば腕は上がるし、認めてくれる人が現れる。
そう自分に言い聞かせた。
だけど、そんなごまかしも長く続かなかった。
腕…というより耳が鍛えられれば鍛えられるほど、自分の至らなさがどんどんわかっていった。
そして、私は逃げ出した。
音楽から逃げて、現実からも逃げようとした。
その結果、出会い喫茶に入り込んだ。
最初はただ、非日常を感じたくてここに立ち寄った。
見知らぬ男に声をかけられ、少し話をすれば、一緒に食事をすれば、軽くお酒を飲めば、それだけでお小遣いをもらえた。
一人だけでない。
何人も、何人も、何人も。
危ない話も聞いていた。
しかし、自分には関係ない話と、ここでも考えることから逃げ出した。
でも、昨日とうとうというか、いよいよというか、初めて会った男と肌を重ねてしまった。
それまでそんなことしたことはなかったのに。
…嫌悪感は、なかった。
有ったのはただ冷静に自分を眺めるもう一人の自分の視線を感じただけ。
そんな帰り道、彼に綾川さんに会うとは、思わなかった。
それでも、目の前に現れた彼からも逃げてしまっている自分がいる。
逃げ出すことしかできないなんて、もう嫌なのに。
帰り道、どんな顔で彼に会うのか考えていた。
本当は家を出てから今までずっと。
今日は、すべての誘いを断った。
お金はもらえない。
でも、彼にもう一度会うのに、他の人と会うことに耐えられなかったのだ。
外付け階段を上る。
カギを回す。
家に入ると、彼が立ちすくんでいた。
「…どうしたの?」
「俺が綾辻秀忠って知ってたんだな」
彼が持っていたのは、私がスクラップした彼の記事。
本棚に『綾辻秀忠』と書かれたファイルがあれば、手に取るのも当たり前か。
「演奏家の俺がナンパなんかして、哀れに思ったのか?それとも、金目当てか?」
「…どっちだったらいいの?」
「ふざけやがって…。世話になったな、これが世話賃だよ」
彼は、財布からお金を取り出し、私に投げつけて家から出て行った。
部屋に散らばった札を眺めていると、床に水滴が垂れた。
「…涙、まだあったんだ」
あの女、ふざけやがって。
家を飛び出した俺は、当てもなく歩いていた。
歩いても歩いても、気分は少しも晴れない。
むしろ苛立ちが増していく。
どこをどう歩いたのか、気が付くと昨日飲んでいた場所に戻っていた。
あの女と出会った場所。
そこにいるだけでまた腹が立つ。
そんな時後ろから声をかけられた。
「おう、兄ちゃん」
振り返るとそこには、見たこともないおっさんが立っている。
「誰だ、あんた」
「昨日、俺のこと助けてくれただろ。酔ってはいたけどちゃんと覚えてんだから」
「…あー、すっかり忘れてた」
「これから時間あるかい」
「…まぁ」
「これから付き合え。昨日の礼だ、奢ってやるよ」
「気にしなくて…」
「四の五の言わずについて来い」
「いや、結構…いてて」
尋常じゃない力で腕をつかまれ、俺は、引きずられる形でおっさんに居酒屋へと連れて行かれた。
「…っていうことがあったんだよ。ふざけてるよな」
居酒屋に連れた行かれた俺は、最初はこのおっさん、佐竹健と飲んでいるだけだったが、酒がすすむにつれ、昨日会ったことを全部ぶちまけていた。
新しい指揮者に言われたこと、あの女のこと、すべて。
その話を健は黙って聞いていたが、突然声を上げて笑い出す。
「いきなりなんですか?」
「悪い悪い。おかしくなっちゃってさ。確かに、こんな状況じゃ『そうだね』しか言えなくなるわ」
「健さん、なんなんですか」
「こっちの話。やっとあいつの気持ちがわかった」
「…こっちに戻ってもらっていいですか?」
「あー、はいはい。しかし面白いね」
「何がですか?」
「演奏家って、人の気持ちわからなくてもできるんだなって」
俺は飲みかけていたグラスを机に叩きつける。
「いきなり失礼なこと言いますね」
「怒るなよ。俺だって、昔の自分を見ているようで、いい気分はしないんだから」
そう言った健の顔は、にやけていた。
「そうですか。じゃ、お互い気分が悪いなら、ここでお開きにしましょう。これ、俺の分です。」
「いらないよ。その金は、昨日出会ったファンの子に使ってやりな」
「ファン?何言ってるんです。俺の話聞いてなかったんですか?」
「あんたのスクラップ帳を作る。何も言わずに、一緒に過ごす。そんな何も見返りを期待しない態度をとられても、相手に興味を持てないなら、それは人の心なんて理解してないだろ。別に、俺は困らないけどな」
「どういうことですか」
俺は、再びテーブルに着いた。
「聞く気がない人間に話すつもりは無いよ。ただ、そろそろ自分のためじゃなく、人のために行動する喜びを知ったらどうだい?俺は帰る。ここまでの代金は払っておくから、この後は、好きにしな」
そう言うと、健は本当に帰ってしまった。テーブルには飲みかけのグラスが二つ、残されていた。
ひと月後、俺は一人でステージの上に立っていた。客席は満員。
でも数はどうでもよかった。
あの後、指揮者に頭を下げ、俺の演奏を聞いてもらった。
その上で今回のわがままを提案した。
意外なことに、すんなりと話は通った。
コンサートの中で、たった一曲。
俺だけが舞台に立ち、演奏をさせてもらうという提案。
チケットはポストに入れてある。
この会場に彼女がいるのか、いないのか。
俺にはわからない。
でも、そんなことは関係なかった。
ここに居なくても、俺は演奏を続ける。
こんなわがままな俺を、何も言わずに受け入れてくれた、彼女のために。
きみが、どこに居たって、この音が届くように…。
一斗缶の中で炎が揺れている。
私は、その炎が完全に消えるまで眺めていた。
封筒に書かれた『青柳晴香様へ』という綺麗な文字。
中を見てみるとそこには、『綾川秀忠より』とだけ書かれた手紙と、一枚のチケット。
この缶の中で、たった今燃え尽きたチケット。
聞きに行こうとも考えた。
でも、行かなかった。
私は充分貰ったから。
初めて会った時に見せてくれた、あの寂しそうな瞳。
私が大好きな人があんなに寂しい目をしているなんて耐えられなかった。
だからあなたの支えになれればと思った。
でも、必要なかったみたい。
私は、いつまでもあなたを、あなたの音楽を愛しています。
私にたくさんのものをくれた、あなたの音楽を。
あなたの音は、どこに居ても聞こえるから。
どこに居ても、聞いてるから。
だから、聞かせてください。
あなたの心からの演奏を。
1人のための演奏会 長峰永地 @nagamine-eichi
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