第七話:可憐

 二〇一二年九月二十四日 月曜日


 可憐かれん、という言葉がある。

 憐れむ、という言葉からきているようだが、それに加え可、というのは合う、適合、などという意味がある。無理に分解すれば、憐れむに適合する、と言ったところだろうか。


 などとぼんやり、いや、無理矢理に考えていた。その理由は一つだ。何処で見知ったのか知らないが、今、喫茶店vultureヴォルチャーにはferseedaフェルシーダのギタリスト、太田おおたがいるのだ。今日は一人でゆっくりと涼子りょうこさんのオリジナルブレンド、RBSⅡを楽しんでいたのだが、台無しだ。店に入るなり奴は俺を見てニヤリと下衆な笑顔を向けてきた。「貴様に涼子さんのコーヒーの味など判るものか。早々に立ち去れ」とも言えず、俺はカウンター席でただ黙々といや、悶々とRBSⅡを飲むこととなった。

 そんな折だ。

新崎しんざき君、だよね」

 見知らぬ女と共に来て談笑している太田に腹を立てていた俺にそんな声がかかった。

「は?」

 ごく短くそう言って振り返ると、そこには可憐な女生徒が立っていた。我が校の制服を着ている。

「……」

 俺は問われた側なので何か用があるのかと待ち受けていたのだが、二の句はなかった。

「新崎ですが」

 何か用か。とは流石に言い放てない。それだけの儚げな印象がこの女生徒にはあった。

「えと、そうだね。ごめんなさい。私は三年F組の伊関至春いぜきしはると言います」

 女生徒は折り目正しく会釈してそう名乗った。

「あぁ、名前は生徒会長から伺ってます」

 こんな可憐な女生徒が俺に何の用かと思ったら、何のことはない、また勧誘の話だ。伊関至春とは今現在軽音楽部の部長を務めている生徒の名だ。

「あ、そうなんだ。じゃあ話は判っちゃってるのかな?」

 苦笑して伊関は言った。おどおどしているかと思ったのだがどうやらそうではないらしい。

「そちらも俺の返事は判ってるんじゃないんですか」

「だね」

 苦笑のまま伊関は応え、俺の隣に座る。涼子さんがお冷を出すと早速それを口にした。

「俺に参加して欲しいなら何故かを教えてください。何故俺なのか、何故文化祭なのか」

「それが判れば入ってくれる?」

「入りません」

 そこだけははっきりと言っておかなければならない。全ての事情を聴いて、全ての疑問が解消すれば、俺の気持ちは変わるかもしれない。だが、連中に妙な期待はさせたくない。

「じゃあ教えません」

 に、とやや最初の印象と違う笑顔になって伊関至春は楽しそうに言った。

「虫のいい話ですね」

 俺も苦笑しつつそう言った。

「だね」

 少しも悪びれていないのが気にかかる。軽音楽部の部長である伊関も全ての事情に通じている訳ではないのだろうか。

「お前、伊関か?」

 俺の背後から太田が声をかけてきた。

「太田君?」

「あぁ、やっぱり伊関か」

 出身中学が同じだったとか、その辺りだろうか。

「久しぶりだね。何だか遠くの学校へ行ったんだよね」

「あぁ。お前は瀬能せのう?」

「うん。勉強しないでも大学生になれちゃうゆとりだね」

 と伊関は悪びれずに言った。太田の扱いを判っている様な口ぶりだ。太田の親は総合病院の医者をしていて、相当な金持ちだという。恐らくは何不自由なく育ったせいで性格が歪み、こんなにもくだらない人間に成長したのだ。しかし太田は自分がくだらない人間だという自覚が皆無だ。だからこうして自ら遜ったような言い方をすると、すんなりと会話が進む。

「何、こいつんこと構ってんの?」

 俺を巻き込むな。

「勧誘してるの。私軽音部の部長やってるから。太田君、新崎君知ってるんだ」

「あぁ、ちょっと前まで一緒に組んでたんだよ。なぁ」

 返事をする義務も義理もない。それに折角の涼子さんのコーヒーを楽しめなくなってしまう。貴様の声を聴きながら涼子さんのコーヒーを口に入れるなど、涼子さんに失礼だ。

「新崎君が抜けちゃったんでしょ?一緒のバンドだったんだね」

「まぁやめとけって。下手くそな上に協調性もねんだぜ。楽器だきゃイッパシなもん持ってんけどよ、何度こいつと喧嘩したか」

 確かに俺の腕などたかが知れている。だが、こいつの腕もたかが知れている。太田は俺が抜けたことでその抗争に勝った気でいるし、自分の方が上に立っていると思い込んでいる。

「それで、やられちゃったんだ」

「あ?」

 凄い。何故判る。エスパーか。

「え、だって太田君中学生の時凄く虐められてたじゃない。三年間よく耐えたね、ってみんな言ってたんだよ」

「伊関!」

 なるほどな。道理だ。太田は態度はでかいし口も性格も悪い。その癖喧嘩は弱い。

「女子に向かってでかい声出すな下衆野郎が。なぁるほどな。偉く歪んだ性格をしていると思ってはいたが、虐められっ子とは恐れ入った。学校でのストレスをバンドで吐き出してたって訳だ」

 全くくだらない男だ。俺はここぞとばかりに太田を嘲笑した。

「てめえ!」

「喫茶店ででかい声を出すなドブ野郎。コーヒーは静かに楽しむんだ」

 それが守れないのならば、こんなにも素晴らしい店には二度と来るな。

「じゃあ太田君の方が新崎君に色々してたってこと?」

 確かに俺に対しては辛辣な言動を続けてきた。それはそもそも俺と太田の性格が合わなかったからで、俺も一つ年上だろうが同じ中学でも同じ高校でもない、つまりは先輩でもないこいつを敬う理由もなく、全力で反発していた。

「心配には及びません。喧嘩とはいえ俺はこいつの拳など一発も貰っていませんからね」

「そっか」

 それが伊関にも判ったのだろう。彼女はこともなげに頷いた。恐らく中学時代の太田もくだらない奴だったのだ。伊関の扱い方でそれが判る。まったく憐れな男だ。

「さっさと戻ったらどうだ。虐められてた過去を知る人がいては座りも悪かろうが」

 これ以上貴様の声を聞いていたくない。でき得るならばさっさと帰れ。

「……ち。おい、行くぞ!」

 奥のテーブル席に残っていた女にそう声をかけて太田は財布を取り出すと、そそくさと支払いを済ませ、店を出て行ってしまった。やぁ愉快愉快。これでゆっくりとRBSⅡを楽しめるという訳だ。

「ありがとうございましたぁ」

 涼子さんの声が少し嬉しそうなのが鼻が高い。

「ね、少しお話しない?」

 しまった、まだ伊関至春嬢がいた。

「構いませんが、何の面白味もない男ですよ」

 自虐でも何でもなく、事実を述べる。もう少し面白味のある人間だったならば、俺の人生も少しは変わっていたかもしれない。

「そう?香織かおりが面白くて優しい人だって言ってたの、良く判ったよ、今ので」

「……断言しますが奴の目は節穴です」

 関谷せきたにはそもそも何を考えて生きているか判らない。俺に興味を抱いてくれるのはおおいに結構だしむしろ光栄だが、そんなものはいつまでも続く訳がない。

「そんなことないよ。ぽーっとしてるけど、ああ見えて結構鋭いんだよ」

 くす、と笑顔になって伊関嬢は言う。伊関も俺の主観ではあるがかなりの美人だ。それにしても軽音楽部は実に可愛い女子が揃っている。

「まぁ確かに反射神経は良さそうですが、先輩こそ中々やり手じゃないですか」

 関谷のゲームの腕前から反射神経は良いのは判るが、それよりも最初のイメージとは全く異なる伊関至春というこの人物も中々のものだ。

「お店に入った時に判ったんだけど、あまり良い印象持ってない人だったからできるなら無視しちゃおうって思ってたの」

「正直な人だ」

 俺は言って苦笑した。ばか正直な人間は面倒だが、正直な人間は付き合いやすい。特に太田のような人間に好印象を抱かないのは大多数の人間が同じだと思いたいが、そういう同意が得られると嬉しいものだ。

「ね、辞めちゃった原因って太田君?」

「ですね。取るに足らない喧嘩別れですよ」

 本当に、喧嘩の原因は何だったか思い出せないほどくだらないことだった。ただ、その原因から音楽性の話などに話が飛躍してしまったのだ。

「そうなんだ。どういう喧嘩だったの?」

「さっきあいつが俺のこと下手だと言ったのを聞いてましたか」

 思い出すだけで腹が立ってくる。

「言ってたね」

「俺は確かに巧かないですが、下手なつもりもないんですよ。普段から驕らないように自分を戒めるくらいには、ね」

 自分が巧いなどとは思わない。それこそ上には上がいるし、下にも下はいる。良い気になって練習を怠るようなことはしなかった。

「確かに。自分の好みと合わない部分を下手だ、なんて言われたら私も腹が立つと思う」

 初心者に言うのならばまだしも、俺はferseedaに入るまでには三年もの月日を費やしている。僅か三年ではあるけれど、自分なりに真面目に練習もしてきた。

「そうです。そこを何度も問答して喧嘩して、取っ組み合いになって」

「その度に殴っちゃってたの?」

 しゅ、と小さな拳を創って、下手なストレートを打つ真似をした。

「ま、まぁそうですが、先に殴りかかるのは必ず奴ですよ」

 弱いくせに喧嘩っ早い。それは恐らく俺が年下だったからだろう。太田はドラマーやボーカルには一切手を出さなかった。

「だから避けて反撃しちゃうんだ。強いんだね、喧嘩も気も」

 太田にとって、そこも俺を嫌う要因の一つだったのは判っていた。年下なのに生意気な奴め、とういうのは至極当たり前の感情だろうとは思う。

「まぁ、しおらしい性格ではないです」

「でもさ、新崎君が一人で抜けちゃうことはなかったんじゃないの?」

 太田が、言ってしまえば嫌な奴だという認識の上で言ってくれている言葉だろう。

「いや、結局はバンドのことを考えたんですよ。太田は大嫌いだったけど、ferseedaは良いバンドです。俺はギターが良ければ性格には目を瞑るってことができなかった」

 俺と太田のそれこそくだらない諍いでferseedaを潰したくはなかったのだ。

「なるほどね」

「最終的にバンドでギタリストが抜けるのと、ベーシストが抜けるのと、どっちがいいかってところまで話は行ったんです」

 バンドのギタリストとベーシストのどちらかの首がすげ変わった場合、より大きな違和感を感じるのはどちらか。結果は火を見るよりも明らかだ。

「それってバンドしてない人たちの意見だったら絶対的にベーシストが抜けた方が良い、っていう結論になるよね」

 そうだ。そしてバンドであるferseedaの決断も伊関の言う通りの結果になった。

「です。俺はそれなりにferseedaの音を支えている自負はありました。音楽を聞かせるって立場からも、ギターよりベースが変わった方が良い、バンドの特色はそれほど変わらない、ってことも判っているつもりでした」

 そう、判っていたはずだったのに。俺はどこかで期待してしまった。

「バンドしてる側の人ならそう簡単には割り切れない話だよね」

 結局俺と太田の溝は修復不可能なところまで深くなっていた。本当にパーマネントにやっていくバンドでもない限り、恐らく一番簡単に切り捨てられるのはいつだってベーシストだ。

「でも割り切られた。明確に言葉で言われた訳じゃないですが、もうそんな雰囲気だったんで。俺が抜けてferseedaが壊れないんなら、と思い切りました」

 疲れてしまった。俺はどこかで、バンドの扇の要となるベースが変わってしまったら、という誰かの制止を期待してしまった。だけれどそれは一切なかった。疎まれていたのは俺だけだった、とその時に悟った。太田は俺が嫌いなだけで、メンバーは誰も太田を嫌っていなかったとしたら。そう思ったとたんに、何もかもがばかばかしくなってしまった。

「でも、結局巧くは別れられなかった、と」

「判りますか」

 俺は今まで誰にも話さなかったferseeda脱退の理由を、今日初めて会った伊関至春に全て話してしまった。何故こんなことを話してしまったのか、それは判らない。彼女の雰囲気がそうさせたのか、太田との邂逅でどこか俺の感情の箍が外れてしまったのか。

「何となく。状況からの推測。新崎君って自分でわざと偽悪っぽく装ってるけどさ、いい人だもん」

「……そんなことないですよ」

 俺はferseedaのメンバーに見限られた。嫌な奴だと思っていた、大嫌いだった太田よりもさらに嫌われていたということだ。

「あるよ。女の子に向かってでっかい声出すな、なんて中々言えないよ」

 それは太田にではなくとも言っていただろうことだ。

「親父が極度のフェミニストなんですよ。だからそんな性質のせいなのか、同じ土俵に立てないところで大が小を兼ねることが嫌いなんです」

 例えば純粋に筋力だったり、体力だったり。ヒト科として男性と女性の役割を与えられて生まれてきたのだ。その役割を果たすための力の使い方を履き違えている人間を見ると、つい腹が立ってしまう。俺は男尊女卑という言葉が大嫌いだ。女性には命を生み出し育むという、とてつもなく尊い能力がある。男にはそんな尊い能力が無い代わりに、愛した女性や子供を守るための力がある。その力の矛先を本来守るべき対象に向けるなど、もってのほかだ。

「良い人だね」

 当たり前のことだが、当たり前のことを当たり前と捕らえられない、くだらない人間が多すぎるのだ、今は。

「そうよ。あきら君は凄く良い子。凄く良く考えてるし、凄く優しいの。だからそこをちゃんと判ってくれる人だけが、聡君のことを好きになってくれるのね」

「りょ、涼子さん、俺を持ち上げても何も出ませんよ」

 それに俺は人に好かれるような性格ではない。こんなことばかり考えているから、変人扱いされることもある。

「私の代わりに迷惑なお客さんに注意してくれたでしょ」

「あ、あれは殆ど私情です」

 本当に、ただ単に太田が嫌いで、この素晴らしき店に一秒でも長くいてくれるな、と思っただけだ。

「聡君の私情でも助かってる人がいる、ってことよ」

「……」

 ぴん、と人差し指を立てて涼子さんはそう優しく言ってくれた。悪い気はしない。どころか、とても満たされているような気もする。

「良い子だし、真面目な性格だからこそ、疑っちゃうのよね」

「……はい」

 涼子さんは超能力者なのか。伊関の推論立ても中々のものだったが、涼子さんの察しの良さは流石に客商売をしているだけあるのか、鋭すぎるものがある。

「え?」

「軽音部のことよ、至春ちゃん」

 伊関も流石にそこまでは判らなかったようで、涼子さんにそう聞き返していた。

「ど、どうしてですか?」

 流石の涼子さんでも、俺の中にある言葉は正確には導き出せないだろう。俺はRBS2の最後の一口をゆっくりと飲んでから口を開いた。

「何かを隠してるのは明白。先輩や涼子さんがどう思ってくれててもですね、俺は自分が他人から好かれるような性格ではないことを自覚しています。せいぜい太田の反応の方が正しい、と思うほどに」

 それこそ最初にながみとまともに話した時のような、あんな反応が当たり前だと思っていた。

「それは大袈裟すぎない?」

「そうでもないですよ。事実俺は親しい友達なんて今までいなかった。でもここ数日でいきなり増えた。だけどそれは渡樫わたがし以外は全て俺をベーシストとして勧誘しに来て接触して来た人間です」

 いや正確には水沢と尭矢たかやさんも違うな。しかし詠、関谷、瀬野口せのぐち姉弟は明らかにそうだった。

「……」

「思うところはあるんでしょう、伊関先輩も。更に言うなら、瀬野口一也かずやは俺を騙してまで軽音楽部に引き込むのは反対だと言ってましたよ」

 肝の部分は確かにどんなことなのかは知らない。恐らくは詠も渡樫も尭矢さんも関谷も。

「そっか。一也君が、そう言ってたんだ」

「えぇ。でも俺に何かを隠していることまでは、教えるつもりはなかったようです」

「……なるほど」

 伊関至春も肝の部分は知っているのだろうか。それを引き出すことは、できるか。

「あえて悪し様に言えばこうです。連中は俺をベーシストとして引き入れるために、どんなに嫌な奴でも友達になるくらいの勢いで接して、気安くなったところで本格的に引き入れようとしている。つまり友達のいない俺に、友達という餌をぶら下げて、騙すつもりなんじゃないか、と」

「そっか。そういう風に捉えられても仕方ないね」

 肯定は、しないのか。俺は瀬野口一也の口ぶりから、そんなことではないのかと思っていたのだが、確かにそれは悪く考えすぎなのかもしれない。しかし可能性はゼロではない。

「でもね、新崎君」

「はい」

「少し思い返せば判ると思うけれど、私たちは誰も新崎君の人となりを知らなかった。新崎君がそんな気持ちでバンドを辞めてしまったこと、新崎君に友達がいなかったっていうこと、中には新崎君がベースを弾いていることすら知らなかった人もいたと思う」

 確かにそれはそうだが、その言い分には穴がある。

「けれど、それを証明する術はないでしょう」

「うん。ないね」

 実に簡潔に伊関は応えた。

「俺の話も推測の域は出ません。でももしもそうなら、俺はちょっとあなた方を許せそうにない」

 渡樫も詠も関谷も、俺を軽音学部に引き入れるためだけに俺に近付き、友達の振りをしていたのだとしたら。我ながら情けない考えだとは思うが、それが本意なのだとしたら、俺は裏切りに遭った訳ではなく、ただ単に騙されただけのばかでしかない。

「そうだね。もしもそうだったら、新崎君の気持ちは私も当たり前だと思う。でももしそうで、許さなかったら、どうするの?」

 そんなことにはならないであろう、とは薄々感じている。涼子さんの言葉をそのまま全て信じる訳ではないが、俺だって連中のことは信じたい。でも、それでも、もしも俺がただのばかだったとしたなら。

「金輪際関わらないでいてくれればそれで良いですよ」

 僅か数日前の、渡樫に助けられる前の状態に戻るだけだ。

「なら話は早いよ」

 にこ、と笑顔になって伊関は言う。

「は?」

「お前は友達の振りをして俺に近付いて騙そうとしてるのかー、って率直に訊いちゃえばいいじゃない」

「……」

 そんなことを簡単に言える訳が無い。相手に俺を騙そうという悪意を感じられるのならばまだしも、渡樫も詠も関谷も、そんな悪意など微塵も感じられない。できることなら俺だって連中のことは疑いたくはないのだから。

「ホントだったなら関わりたくない。そうじゃなかったらこのままバンドのことなんか抜きにしたって友達でいたい。そう思うんだったらその二択ではっきりしない?」

「でも、もしもそう思っていなかったら、相手に悪いでしょう」

 感情論を抜きにしてそんな言葉など出せる訳が無いのだ。

「でもそれは新崎君も同じだよ。私たちは、少なくとも私は新崎君を騙して勧誘しようだなんて思ってない。でも新崎君はそう今、私に伝えたよね。正直に言うと、少しショックだったよ」

「……あ、す、済みません。短慮でした」

 これは失態だ。言うなれば俺は、伊関に対し、お前も俺を騙そうと近付いてきたのか、と言外に語ってしまっていたのだ。つまり、俺はまんまと伊関至春にやり返されたことになる。だが不思議と腹は立たなかった。

「ううん、ごめんね。私も言いすぎちゃったかな。私は今日初めて新崎君と話すのにね。一番疑われても仕方ない人間なのに」

「い、いえ、俺の視野が狭かったんです」

 以前瀬野口は軽音学部の部長に、あまり向いてはいない伊関を選抜したと言っていた。しかし俺が今日話した感覚では、むしろ部長に向いているのではないだろうかと思うほど彼女は察しが良いし、視野も広い。

「瀬野口先輩は部長の仕事は伊関先輩には向いていないのに押し付けた、と言っていましたがそんなことはないですよね」

 俺は疑問をそのまま口に出して伊関に訊ねてみた。

「あぁ、良く言われるけどね。多分逆の意味よ」

 親指と人差し指でLの字を作ると手首をくるりと返しながら伊関は笑った。

「逆?」

「あんまりこうやってずけずけモノを言っちゃうから、向いてないって言われるの」

 へへ、と照れたように笑って伊関は言った。

「確かに、初見は可憐な女生徒というイメージでした」

 恐らく伊関至春という人間は諧謔も充分に判ってくれる人間だろうと思い、俺は冗談のつもりでそう言った。

「褒めすぎ」

 ストレートに取られてしまった。違うぞ伊関至春。

「初見、です」

「まだ今日のところは初見でしょ?」

 そういうことか。伊関との会話はテンポが良い。知らずのうちに色々と話してしまっていることに対しては警戒しなければならないが、伊関との会話は心地良ささえ感じる。

「ではこう言いましょう。第一印象では、です」

「意地悪いなぁ、新崎君」

 くすくすと笑うその笑顔はとても俺を騙すような人間の顔には見えない。

「お互い様な気がしますが」

「だから私は騙そうとなんてしてないってば」

 そう信じても良いのだろう。大体友達になろうという頓狂な提案をしてきたのは渡樫と詠くらいだ。いや正確にはそんな直接的なやり取りではなかったが、結果的にはそんな感じだ。……ったはずだ。

「判ります。恐らく尭矢さんと詠、それに渡樫は何も知らなかったみたいですし。……だとすると瀬野口先輩、か」

「そうなの?」

 瀬野口や伊関の感じから察するに、二人は深い仲のようだ。俺に伏せているものの確信には触れられないとしても、何か情報は得られないだろうか。

「瀬野口先輩以外は、俺に二度目の勧誘はしてきてないんです」

 渡樫も関谷も詠も、俺が頑として動かないことを即座に理解してくれていた。しかし瀬野口早香はやかだけは、また来ると言い残して行ったのだ。

「早香は二回来たの?」

「いえ、また来ると言ったきりですが」

 それもそれから大した時間は経っていない。まだ来なくても不思議はないが、あまり時間が空いても今更感が出てきてしまう。かといって来てほしい訳ではないのだが。

「そっか。ごめん新崎君。だとすると私もやっぱり結果的に新崎君を騙そうとしてた」

「何か知ってるんですね」

 恐らく瀬野口弟と同程度には。

「でもそれは私の口から勝手には言えないことなの。本当にごめん」

「……」

 伊関の口からは言えないこと。それはとどのつまり、誰かの許可が必要だということだ。その許可を降ろすのは、恐らく瀬野口早香。

「でも、それでも新崎君に入って、ってお願いしたらどうするの?」

 つまり。

「私たちは新崎聡を騙してるけれど、あえてそこを飲み込んで入って、と?」

 流石に正直者だ。伊関の話は全て俺を悪いようにはしない、という言い方が含まれていることに遅まきながら気付いた。

「うん。入った途端にみんなが友達じゃなくなるなんてことはないと思う。新崎君が言う通り、彼らも知らないことはあると思うし」

 なるほど。

「そうか。友達を餌にして、ということではなく、連中が、でもなく、一部の人間が俺に何かを隠してるってことか」

「かも」

 そう言って伊関は再びお冷を口にする。これだけ正直なのだから、もう訊いてしまおう。

「それは仮に、俺が加入したとして、後で教えてもらえるものですか」

「そうね。それは保証する」

 なるほど。いや、だとしても、だ。

「……内容にもよりますよね、そういうのって」

「確かにね。ま、でも私も無理だった訳だね。後は早香に託すとしますかねぇ」

 お冷を飲み干して、こんとグラスをカウンターテーブルに置く。瀬野口にも言ったことだが、結局は俺の気持ち一つ、ということになる訳か。そいつは難儀だな……。

「何で俺なんですか」

「それも言えません」

 人差し指を口に当てて、伊関は微笑んだ。

「そうですか」

 得られた情報は少ないが、それでも瀬野口に話を聞いた時よりは少し情報が増えた。

「変な話しちゃったね。ここは私が持つよ」

 またこのパターンか。いい加減タダ飲みは辞めたいのだが。いや、店には売上損失はさせていないのだが、俺の気持ちとしてだ。正当な代価を支払って然るべき、だ。

「……断ります」

「涼子さんいくらですか?ちなみに私も今からモンブランとRBS一つ下さい」

 今からか。最初に頼んでおけば今頃食べている最中だろうに。視野は広いと思ったが、意外なところで視野の狭さを露呈したな。

「あらあらありがと、至春ちゃん」

「という訳で、ここは持つからもう少し付き合って、新崎君」

 いや、つまりはそう言うことか。やはり伊関至春も中々興味深い人間のようだ。

「……涼子さん済みません」

「何で新崎君が謝るの?」

 確かに奢ってもらっておいて涼子さんに謝罪する意味は、伊関には判らないだろう。涼子さんはいつもの通り、にっこりと笑顔になって頷いた。

「森羅万象、全ての物事には深い訳があるんですよ、伊関先輩」

 俺は苦笑してそう言った。

「至春でいいよ」

「無茶を言わないでください」

 同性の同い年ですら苗字呼びの俺が、女性で、しかも先輩だというのに名前呼びなどできるものか。

「じゃあ至春先輩でいいよ」

 無茶をおっしゃる。

「御馳走様です。伊関先輩」

 例えば俺と伊関至春が良い仲になったとしたら、そのくらいでは呼べるかもしれないが、今日初めて会って名前呼びなど、あの渡樫すらも凌いでいるではないか。

「新崎君て可愛くないですね、涼子さん」

「そうね、優しくていい子だけど、可愛げがないのが玉に傷なのよ」

 そうでございますか……。

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