第八話:目から鱗

 二〇一二年九月二十六日 水曜日


 目から鱗、という言葉がある。正確には目から鱗が落ちる、という言葉だが、ともかく、あることがきっかけで視野が広くなったり、物事の真実に気が付いたり、といったことがあった時に使う言葉だ。

 俺は子供の頃、何故だかほっぺが落ちるという言葉とこれを混同してしまっていて、旨い物を口にした時に、目から鱗が落ちると言って大恥をかいたことがある。それはほっぺが落ちると言うのだと教えられて、まさしく目から鱗だったという訳だ。


瀬野口せのぐちか」

 七本槍市に一つだけある大きな総合病院、七本槍中央病院は俺の帰り道にあるので、寄り道さえしなければ大体そこを通ることになる。そして中央病院の前に差し掛かったところで、見知った影があったので声をかけて見た。

「おぉ、新崎しんざき

 やはり瀬野口一也かずやだ。背は俺よりも幾分か低い。俺も男の中では背は低い方に入るが、瀬野口はその俺よりも、もう一回りほど小さい。それよりも。

「どこか悪いのか?」

 病院から出てくるなど、あまり良い原因が思いつかない。耳鼻咽喉科や整骨院ではあるまいし。いや、この病院には耳鼻科も整形外科あったな。いやいや、耳鼻科でも整形外科でも、原因自体はやはりあまり良くないものしか想像できないことには変わりが無い。

「あぁ、去年事故に遭ってさ。そんで色々」

「事故?物騒だな」

 後遺症やリハビリということか。瀬野口はドラマーだ。どちらにしてもあまり宜しくない。早く治した方が良いのはドラマーに限らず、だが。

「まぁ私生活には支障ねぇし、もう少ししたら通院も終わっからさ」

「そうか。それなら良かったが」

 なるほどな。ということはドラムを叩くのにも支障はないのだろう。

「ところでどうよ、軽音部」

「お、貴様は二度勧誘する気か」

 流石は瀬野口早香はやかの弟だ。それともこれが瀬野口早香の二度目なのか。

「勧誘っつーと聞こえ悪ぃな。ただ普通に誘ってるだけじゃねぇか」

 この間と同じ、人好きのする笑顔で瀬野口は言った。こいつは中々さっぱりしていて良い男だ。ながみは面倒臭い男だがその面倒臭さが面白いという稀有な奴だ。瀬野口と詠は全くタイプが逆だが、それでも巧くやって行けるものなのだろう。

「まぁ、変わらずやる気は起きん」

 だから俺もすっきりさっぱり、そう言い放つ。

「ちぇー。ま、しょうがねぇか」

 苦笑して言うと瀬野口は歩き出した。俺も帰りの方向が同じなのでとりあえず一緒に歩く。

伊関至春いぜきしはるにも勧誘された」

「へぇ。至春先輩がね」

 何だ?意外性が含まれているような言い方だ。俺は最初、伊関至春は大人しい性格故に部長や勧誘には向かない人間なのかと思っていたが、話してみればそれはまったくの誤りだと気付いた。だとすると、変わり者故に俺には興味がなかったのか。良くは判らないが、取り立てて話題の主軸にすることもない。

「バンドやるやらないは別として、軽音部は面白い人間が多いな」

「まぁ至春先輩も変わってっからな」

 勧誘され続ければ俺も鬱陶しいと思うはずなのだが、勧誘は別にしつこい訳ではなかった。瀬野口もこの程度だし、他の連中は二度目の勧誘はしない。バンドをやらないでも付合いが切れないのであれば、俺は軽音学部の連中と顔を合わせるのも悪くないと思ってしまっている。

「変わった人間好きみたいな言い方はよせ」

 何も奇人変人の類が好きな訳ではない。渡樫わたがしのようなストレートな人間も、詠のような面倒な人間も、関谷せきたにのような何を考えているか判らない人間も、変わっているとは思うが、奇人変人の類ではなかろう。

「でも面白みのある人間は好きだろ?」

「まぁ確かにそうだな。そう考えると今のところまともなのはお前だけのような気がするがな」

 渡樫、詠、関谷、伊関と比べれば、というところだ。いやいや伊関はまともか。

「そいつぁどーも。でも尭矢たかやさんも結構マトモじゃね?」

「まぁ、そうだな」

 済まない、存在を半分くらい忘れていた。許してくれ藤崎ふじさき尭矢。

慧太けいたしんはちと変わってっけどな」

 ほう。瀬野口でもあの二人はそう思うか。俺の考えもあながち独りよがりではないということかもしれないな。

「ちとどころではない気がするがな」

「はは、言えてるな」

 ひとしきり笑って、ふと会話が途切れる。俺は、もう一度だけこいつに訊いてみようと思っていることがあった。伊関が教えてくれなかった二つのうちの一つ。軽音学部の連中が、いや瀬野口早香が俺に何を隠しているのか、それはもうどうでも良くなってきていた。だが、俺に直接関わることで、一つだけ、どうしても知りたいことがある。

「もう一度だけ訊くが」

 俺はす、と息を吸い込んでから、少しはっきりと口調を改めた。

「何だよ。言えねぇことは言えねぇぞ」

 半ば呆れているのか、苦笑して瀬野口は言う。俺も訊けないと判っていることは訊くつもりはない。

「判っている。だから、これを最後にする」

「お、おぉ」

 立ち止まり、俺は言った。

「お前たちが何を俺に隠しているのかは知らん。隠していることを教えろとも、もう言わん」

「じゃあなんだよ」

 訝しげに瀬野口は問い返してきた。これで何も返ってこないのなら、俺の心変わりも恐らくは有り得ない。

「何故、俺なんだ」

 そう、瀬野口の目を見て俺は言い放った。視線は、逸らさない。

「……判ったよ」

 ややあって瀬野口は短い嘆息の後、観念したかのようにそう言った。

「姉ちゃんや至春先輩がどう思ってっかは知らねぇぞ。……でもおれは、お前がferseedaフェルシーダにいた頃に何度かライブを見てんだ」

「ほう」

 水沢みずさわと関谷だけではなかったのか。ferseedaは良いバンドだと思うが、所詮は高校生バンドだ。同年代ではコピーバンドが多い中、オリジナル曲を演奏するバンドはそう多くはなかったが、いない訳ではない。それこそテレビに出演するような技術の高いバンドも多い。だがferseedaはそこまで技術は高くない。が、バンド力はあった。だから同年代の高校生バンドの中では、ほんの少しだけ話題になることもあるにはあった。

「同じ学年の奴があんなイイバンドにいて、おれはドラマーだからさ、あんなベースと組みてぇ、って思ったんだよ」

「……」

 くそ、ここに来て殺し文句だったか。訊くんじゃなかった。だが、俺は瀬野口がどんなドラムを叩くかを知らないし、瀬野口たちのバンドがどんな音楽をやるのかも知らない。それを知らずに心変わりはない。ただ、瀬野口がそう思ってくれているのは純粋に嬉しかった。

「言ってること判るか?おれは、お前と組みてぇって思ったから、お前を誘ってる」

「そう真正面から言われると、テレるな」

 少しはぐらかす。卑怯だと自覚しながらも。

「慧太と慎はお前がバンドしてたことすら知らなかったみたいだし、多分だけど、お前とやりてぇってのは、尭矢さんも同じ気持ちなんじゃねぇの」

「そんなようなことは、言われた」

「だろ」

 尭矢さんのバンドは女性ボーカルのバンドだが、かなり良いバンドだ。その女性ボーカルは俺と同じ中学で、一つ年上の先輩だった人だ。俺がferseedaに入る前、俺はその先輩と一緒にコピーバンドを組んでいたことがあった。彼女が高校生になった直後に、その先輩と尭矢さんが組むことになり、俺はその先輩のバンドのライブを見に行く内に尭矢さんとも知り合いになったし、対バンでも世話になった。ただ、尭矢さんが俺のベースを認めてくれていたのは、ついこの間初めて知ったことだった。

「前のベーシストのことを聞いても良いか?」

「あぁ」

 それでも俺の心は動かない。コピーバンドは先輩が中学を卒業して行った時点で自然消滅したが、ferseedaに切られたのは、俺にとって大きな問題だ。再び楽器を担げば、今後もそんなことだってあるかもしれないのだ。

「何故辞めた」

「直接的な原因は慧太がライダーキックをかましたからだな」

 ライダーキックだと?蹴ったとか蹴り飛ばしたではなく、ライダーキックなのか。だとすると余程のことだぞ。

「あいつは暴力的なのか?」

 俺は半ば呆れて言った。そういえば初めて会った時に四対一では分が悪いがタイマンであれば何とかなった、と言っていた。腕っ節に自信があるのは本当のことなのだろう。

「や、平和主義だ。聞いたけどお前だって慧太に助けられたことあんだろ?」

「だな。そもそも出会いがそこだ。奴は見ず知らずの俺がチンピラみたいな連中に絡まれているところを助けてくれた」

 知っていても不思議はないな。ちなみに俺もタイマンだったら勝つ自信はあったが、喝上げなんぞをするような連中が一人でいる訳がないのも道理だ。

「あいつに殴られる奴は殴られても仕方ねぇってみんなが思うような奴だよ」

 元ベーシストはライダーキックをかまされてもみんなが仕方ないと思うほどの奴だったということならば、それは確かに辞めさせて正解だったのだろうが、どんな悪い奴だったのだろう。貯水池に毒でも入れようとしたのだろうか。

「べーシストのベースが駄目だったから、切った訳ではないのか?」

 一つ気になることを俺は言った。我ながら女々しいとは思うが、俺は自分が人に好かれる性格ではないと思っているし、実際にferseedaには切られた過去がある。こいつらだって俺をそうする可能性は無いとは言えないのだ。

「そう言われりゃそれだってそうさ。下手なのに練習してこねぇ、部活は良くサボる、女子には手ぇ出そうとするじゃ洒落んなんねぇよ」

「それだけか」

 だとするならばライダーキックは女子絡みで何か不祥事を起こしたか、起こしかけたか、とにかく渡樫の逆鱗に触れてしまったのだろうが、それであれば満場一致でベーシストを切りたいと思う気持ちになるのは判る。だが。

「あ?」

「そのベーシストは渡樫と性格が合わなかった、だとかそういうことは無かったのか」

 メンバー間の確執。それが原因だということだって有り得る。人間は感情の生き物だ。故に善悪と好き嫌いが混同し、二律背反になる。俺はバンドの中での役割を間違えた覚えは無い。言っていることは合っているが、あいつ嫌いなんだ、という理由で切られることだって有り得るはずだ。

「どっちかってぇと慎の方が相性悪かったな。しょっちゅう尭矢さんが二人を宥めてたし」

「なるほどな」

 詠ならば有り得そうだ。俺もバンドを組んだとしたら、詠とは一番ぶつかりそうな気がする。それが険悪な問題にはならないとしても。

「俺が、ferseedaから切られた理由が、全く同じだったらどうする」

「同じなのかよ」

「部分部分はな。ただ俺は練習は怠らなかった。だが決定的にギタリストと相性が悪かった。大げさではなく俺はそいつを何度も殴ったことがある」

 誤解はされたくないので、違うところは真っ先に是正する。ただ冗談ではなく、本当に喧嘩はした。いつも俺の圧勝だったが、喧嘩で勝ったところで……。

(いや待て……)

 一つ、気付いてしまった。

 勝っていたからなのか。

 俺は大げさではなく太田には一度も殴られたことは無い。いつも先に奴が殴りかかってきたから応戦しただけのことだ。だが伊関至春はこう言ってはいなかったか。「強いんだね、喧嘩も気も」と。

 つまり、ギターボーカルもドラムも、年上の人間に手を上げて平気な、気の強い下級生とは組みたくない。そう思ったのか。俺ならばどうだ。喧嘩の原因や言葉の善悪は別として、喧嘩になって、俺が先に手を出したとはいえ、容赦なく俺のことをばかすかと殴る人間のことを、どう思う。俺が被害者でなくとも、そういう下級生とバンドを組んでいたら……。

「正当防衛とかじゃなくてか」

(だとしても不安にはなる)

「や、全て正当防衛だと思っているが、俺はそいつの拳には一度たりとも当たっていない」

 だからこそ、か。そう思い至った。目から鱗が落ちるとはまさにこのことだ。こんなことでほっぺなど落ちる訳が無い。

「殴りかかってきたから避けて殴り返したとか?」

「まったく持ってその通りだ」

 当時のことを思い出しながら、俺は自分の行為に必ずしも正当性があった訳ではないことを自覚した。太田のことは大嫌いだが、だからといって喧嘩で勝っても何も解決はしない。もしかしたらそれこそが、俺が切られる原因だったのかもしれないのだ。

「ひっでぇ奴だな。ま、でもおれは尭矢さんからferseedのギタリストはクソだって聞いてっから、お前がわざと悪ぶったって通用しないぜ」

「ち、そうだったか」

 そうか、尭矢さんは太田のことを少しは知っているんだった。尭矢さんの言葉で俺は少し安心できたんだ。太田を嫌いだと思う人間は俺だけではなかった。伊関だって太田のことは面倒臭がっていた。

「お前今舌打ちしたろ」

「そうだな。思わず出てしまった」

 苦笑しつつ俺は言った。今はあまり瀬野口の言葉が耳に入らなかったが、少し、気持ちに整理がついたかもしれない。

「まぁおれは過去のことなんてどうだっていいぜ」

 瀬野口もそう言ってはくれたが、やはりferseeda脱退の件は、俺にも切られるだけの原因があったということだ。音楽的にベースが切られるということではなく。瀬野口と話してそれに気付くことができた。少しだけ気持ちが軽くなり、俺は少しこいつらのバンドのことを訊いてみようという気になった。

「訊くが、お前らのバンドは何をしてるんだ?」

「ナニ?もしかして曲の話か?」

 おぉ、そうだ。巧く俺の言葉を理解してくれて、瀬野口は顎に手を当てた。ゆっくりと歩き出したので、俺もそれに倣う。

「あぁ、そうだ。コピーか?」

「や、一応オリジ」

「ほほぅ。音源はあるのか?」

 なるほど。だとするならば、こいつらもそれなりにバンドには真剣に取り組んでいるのだろう。そもそも学校の部活動でベーシストを切るようなことが起きること事態、真面目にやっているからこそ起きることだ。

「練習音源ならな」

「今度聞かせてくれないか」

 どんな音楽をやっているのかは興味がある。俺は自身で演奏するのを辞めただけであって、バンド音楽を聴くのは変わらず大好きなままだ。

「は?い、いいけど、やる気はねんだろ?」

「ない」

 そこは勘違いしてもらっては困る。

「何だよ……」

 だが、瀬野口も勘違いしている。そもそも音楽とはどういうものか、だ。

「ただの客として聞くんじゃ駄目なのか?」

「ま、まぁそうだな」

 ふむ、それに気付くようなら安心だ。俺たちはただ自分たちだけが満足したいがために曲を創る訳ではない。音楽とは聞いてくれる人がいて、初めて成り立つものだ。俺がバンドに、軽音楽部に参加しないからといって、俺に聞かせないというのは間違っている。ライブハウスではお客に金を払ってもらって聞かせるのだから。

「それにお前たちの曲を聞いて俺の心が動くかもしれないだろう。その機会を自ら不意にするのか、瀬野口弟」

「その瀬野口弟ってのやめろよ」

 お前も名前呼び推奨派だったな、そういえば。だが無理なものは無理だ。

「渡樫は中々良い声を持っているな。あいつはボーカル向きだ」

「ガン無視すぎるよ」

 さすがにばれたか。

「そうだな、済まん。ぶっちゃけるが俺はこう見えて恥ずかしがりなんだ。下の名前で呼ぶのには時間がかかる」

「や、普通に瀬野口でいいわ」

「おぉそうか。済まないな」

 苦笑して瀬野口は言う。こいつも俺がどんな奴なのかはある程度判ってくれているのだろう。実にありがたいことだ。

「でも名前呼びなんて最初の勢いだろ。じゃなきゃ途中からとか変えらんねぇよ」

「なるほどなぁ」

 それは確かに一理あるかもしれない。何事も最初の勢いというものは大切だ。

「まぁ別に名前呼びが友情の違いになるなんて思ってねぇけどさ」

「そう思ってくれれば有り難いな」

 友情の深さで言えば、俺などまだ序の口だろうからな。

「ところでお前、暇か?」

 唐突に言う。

「まぁ帰るだけだが。帰ってゲームするだけだが」

 まぁ暇だ。

「寂しい奴だな。彼女は?」

 大きなお世話だ。瀬野口一也。

「いれば帰って一人でゲームはしないと思うがな」

 バンドをしている頃にはいたのだがな。別れた。以降女は面倒臭い生物と俺の中では認定された。世の女性たち、こんな俺をどうか許して欲しい。

「だな。おれも同じだ」

「渡樫も彼女はいないのか?」

 まぁいなかろうな。同世代の女子は言ってしまえばまだ子供だ。もちろん男などそれ以下の子供だ。なので、大体大人っぽい男や、年上の男を好む傾向にあるらしい。あんな稚気に溢れた、男の子然とした奴を好きになるのは恐らくもっと年上の、大人の女性だろう。そして俺たちにはそういった、大人の女性と出会う機会が殆どない。故に渡樫にも彼女はいないと推測し、その推測は当たっていたという訳だな。結果論だが。

「だな。いるのは慎と尭矢さんだけだー」

 いいよな、と付け加えて瀬野口は笑った。それよりも何だと。あの藤崎尭也に恋人がいるなどとは全く知らなかった。

「ほう、あんな男に彼女がいるとはどんな酔狂な女だ。見てみたいな」

 というか、笑ってしまうくらい色々酷い女でありますように。い、いやいかんな、つい底意地の悪いことを考えてしまう。

「ひでぇな。でも尭矢さんかっけぇじゃん」

「まぁ否定はせんが、見た目なら詠の方がイケメンだろう」

 そう言うお前も中々の物だと俺は思うが、確かに藤崎尭也も詠慎もイケメンだ。イケメンや可愛い女子は選択肢が多い。実に羨ましいことだ。事実、詠と桜木さくらぎのカップルなど、誰が見ても美男美女カップルだ。ちきしょうばかやろう。やっぱり一発殴っておくべきだった。

「だなー。で、暇なら涼子りょうこさんとこ行かねぇか?っつー話」

「あぁ、いいな。行こう」



「あら、あきら君、一也君も」

 小気味良いカウベルの音の後、涼子さんのいつもの涼しげな声がする。カウンター席には詠が座っていた。今日は客が多いようだがテーブル席は空いていない訳ではない。ということは一人だな。

「よう、詠。こんにちは、涼子さん」

「新崎君……」

 じとり、と俺の方を見てそれでも詠は片手を挙げた。

「なんだ、桜木は一緒じゃないのか?」

「彼女は図書委員だ」

 なるほど。大人しそうな桜木にはぴったりの委員会だな。大人しそうとはいえ、俺は本来桜木がどんな性格だか全く知らんのだが。

「何だよ図書室で待っててやればいいのに」

 後ろから片手を挙げつつ、瀬野口が言った。

「彼女がここで待っててほしい、と言うんだから仕方ないだろ」

 じとり、と俺を見ながらそう弁明する。瀬野口に言え。というよりも。

「ま、そうだな。で、何故貴様は俺に懐疑の目を向ける」

「な、殴るんだろ」

 それか。半分は冗談だ。そしてこの間の暴露で気分は晴れた。それでも殴って欲しいのか。まったく変わった趣を持つ奴だ。

「お前が殴りかかってきたらな」

「え?」

 ぱ、と顔を輝かせて詠は言う。本気で殴られると思っていたのか。まぁこの間のやり取りでは無理はないか。半分は冗談だったとはいえ、半分は本気だったのだ。なので、少しおちゃらけておくことにしよう。

「お前が殴りかかってきたら避けて殴り返す。お前は右利きだろうから、俺の左クロスカウンターだ。お前のパンチを紙一重でかわし、踏み込んでの左フックだ。お前の肘が伸び切った瞬間に放つからな。肘関節が折れても知らんぞ」

 ふぃ、と左フックを打つ真似をする。当然そんな芸当などできるはずも無いが。

「それはクロスカウンターに見せかけた関節技だ。本来は折る方を主とするカウンターだな」

「良く知っているな」

 俺が言っていることの元ネタを見抜いた瀬野口が言った。む、知っていたか。十年以上も昔の格闘漫画のネタだというのに。

「大ファンだ」

「そいつは嬉しい」

 一昨年から新章として、一三年ぶりの復活が更に嬉しい。恐らく二〇一〇年で一番嬉しかったことかもしれない。俺は短く瀬野口に答え、詠の隣に座った。瀬野口も俺の隣に腰を下ろす。反対側の詠の隣には一つ、グラスが置いてあった。誰か一緒にいるのだろうか。

「何言ってんだかさっぱり判んねぇよ」

「おぉ、慧太もいたのか」

 恐らくトイレにいたのだろう渡樫が戻ってくるなりそう言った。二人でいたのにカウンター席だったか。それにしても途中から話に入ってきて何を言っているのか判らないなど当たり前だ。文句を言う意味も判らない。瀬野口は渡樫に軽く手を上げた後、何やらカプセルを取り出してそれを口に放り込むと、恐らくは渡樫のだろうお冷でそれを飲み込んだ。

「よぅ聡!喰らいにゆこうぜ!」

 いや待て、それが言いたかっただけか。しかし俺は店内を見渡す。

「だめだ。今日はお客さんが多い。静かにコーヒーを楽しめ」

「そ、そうか、判った」

 素直だな。やはりこいつは詠と違い素直な良い奴だ。時々頓珍漢なことを言い出さなければ、の話だが。

「という訳で涼子さん、今日はRBSⅢを下さい」

「おれ普通のブレンドー」

 涼子さんがカウンター席を出て、お客にコーヒーを出し、戻ってくるのを見計らって俺は注文を入れる。今日は中々客が多いが、それでも基本的にはいつもこうして一人で切り盛りしているのだろう。働くとは大変なことだ。だが涼子さんはそれを嫌な顔ひとつしないどころか、終始笑顔でやってのける。本当にこの仕事が好きなのだろう。

「かしこまりー。ね、今日試作のケーキがあるの。みんなで食べない?」

「え!マジすか!いただきまっす!」

 遠慮も何も無く瀬野口が食いつく。俺は今日こそは味わったものの正当な代価を涼子さんに支払えると思っていたのだが、今日も完全に、とはいかなそうだ。

「涼子さん、それはモニターってことで良いんですか?」

「もっちろん。さっきもお客さんに出して試してもらってるから、二人が特別って訳じゃないわよ」

 なるほど。それならば安心だ。今後店のメニューになるかもしれない品物のテスターという訳だな。ただで頂くことには変わりはないのだが、時には自分にも言い訳は必要だ。

「それなら安心です。いただきます」

「うん」

 にこ、と可愛らしい笑顔で涼子さんは頷いた。あれで今年四〇歳にもなろうとは何度見ても信じられない。

「超旨かったぜ」

「ほう。楽しみだ」

 渡樫と詠はもう食したようだな。あんなに旨いコーヒーを入れる涼子さんだ。ケーキだって旨かろう。俺はあまり甘いものを好んで食べない方だが、それは甘いものが不味いと思っているからではない。時には甘いものも食べたくなるが、そう毎日は要らないというだけの、言ってしまえば程度の話だ。

「あぁそうだ、慎、アイポある?」

ipodアイポッド?」

「あぁ」

「あるよ。ほら」

 詠が持っていたのは俺が持っている物よりも新しい、小型のものだった。あの大きさでタッチパネルは使い難い気もするのだが、俺の物はもうかなり旧型なので、使い勝手の良し悪しは比べられない。余計なことを言ってまた詠にごねられてはことだ。俺は黙って瀬野口と詠の成り行きを見守ることにした。

「うちのバンドの練習音源、聡に聞かせてやってくれよ」

「え、い、いいのか」

 見守ろうと思ったが、俺に直結する話だったか。いやそれよりも、瀬野口まで俺を聡と呼ぶか。ま、まぁ構わないのだが。

「単純に曲に興味があるだけだ。ベースは弾かん。そこを勘違いするなよ」

 先ほど瀬野口に言ったばかりの言葉を再び言う。そこだけは勘違いされては困る。俺はお前たちに思わせぶりと思われるようなことはしたくない。

「判ってるよ。でも聞いたら新崎君だって興味を惹かれるかもしれないな」

「かもな」

 瀬野口よりは頭は回っているようだ。先回りされたのが若干悔しかったので、俺はせいぜい悪い笑顔でそう、短く詠に答えた。

「相変わらず嫌な奴だ、新崎君……。友達なのに」

「おぉ、済まない詠、他意はないんだ」

 やはりこいつはなんだか面白い。友達なのに嫌な奴だ、とは中々言えない台詞だ。

「ただのクセだよなぁ」

「やかましい」

 人聞きの悪い。相手が詠でなければ俺だってもう少し素直に、愛想良く対応する。

「ふふ、聡君、何だかんだ言ってみんなと打ち解けるの、早いじゃない」

「りょ、涼子さん、からかわないでくださいよ」

 俺はまだこいつらの友達か、と問われれば首を傾げたくなるほどだ。それは恐らく、こいつらにとって失礼なことなのかもしれないが、それでも、俺にとっては座りが悪い。もちろん嫌な気分ではないし、嬉しいと思うのだが、俺はどこかで決定的に自分を信用していないのかもしれない。そんな風に少し、感じるようになってきた。

「からかってないわよ。事実を言ってるだけ。それともこの涼子さんの目が節穴だとでも?」

「い、いえ!そうじゃないです!詠、早く聞かせろ」

 やばい。涼子さんには絶対敵わない。こ、ここは三十六計逃げるにしかずだ。

「何で命令口調なんだ!」

「いいからよこせ」

 俺は半ば強引に詠の手からポータブルメディアプレイヤーをぶん取った。

「聡君は照れ屋さんね」

「……」

 涼子さんの言葉を音楽で塞いでしまいたかったが、タッチパネルの操作の仕方が俺には判らなかった。

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