第五話:シカト

 二〇一二年九月十八日 火曜日


 シカト、という言葉がある。

 いわゆる無視と同義だが、そもそもは花札の鹿の絵がそっぽを向いていることから博徒の間で無視をするという行為の隠語になったと言われている。

 花札の中には種と呼ばれる札が存在する。馬鹿という遊び方のルールに準えれば、十点札にあたるその種の札の絵が、鹿がそっぽを向いている絵で、鹿の十点札、鹿しかとお、ということでシカトとなったらしい。

 もちろん諸説あり、だ。


あきら!」

 音楽プレイヤーのイヤフォンを耳にしかけて、一瞬その手を止めてしまった。間に合うだろうか。俺はそのまま何事もなかったかのようにイヤフォンを耳にする。

「てんめぇシカトかよ!上等じゃねぇか!」

 やはり駄目だったか。

「何ですか」

 文句を言われると思ったが、俺に文句を言うよりも大事なことがあるらしい。

「お前、誘い断ったんだって?」

 そう、藤崎尭矢ふじさきたかやは俺に近付きながら言ってきた。あまり親しい訳ではないが、別段嫌いという訳でもない。ここ数日間で渡樫わたがしを始め、関谷せきたにながみ瀬野口せのぐち生徒会長までもが俺を勧誘してきた。尭矢さんが関わっているのはまず間違いない。恐らく俺と渡樫の接触を知って、尭矢さんがGOを出した。聡なら俺も知ってるし訊くだけ訊いてみりゃ良いじゃん、という流れになったのではないだろうか。だとするならば、突き詰めれば諸悪の権化の可能性もある。

「尭矢さんがけしかけてるんでしょう」

 思ったことをストレートに言う。この男は短気なので回りくどい言い回しが大嫌いなのだ。

「けしかけた訳じゃねぇよ。バンド辞めたんだからそれなりの理由はあんだろうけど、まぁ訊くだけ訊いてみ?とは言ったけどな」

 ニヤリと悪い顔をして尭矢さんが言った。やはり俺の思った通りか。

「おかげでいい迷惑ですよ」

 渡樫や詠、関谷、水沢みずさわとは以前よりも親しくなれたが、というよりは殆ど知らないに等しかった連中と親しくなれたので本来ならば感謝の一言でも述べるべき……。違う。俺の平穏を乱すような真似をしやがって、と文句の一つでも言ってやりたいくらいだ。

「じゃ訊くけどよ、お前ホンキでもうバンドしねぇのか」

「……」

 そう言われるとキツイ。言ってしまえばバンドもベースもしたくないのも今だ。辞めたくて辞めてそれは半年間続いているが、きっとそんなものはそう長くは続かない。

 バンド者の多くは一度ステージに立ってしまったら、二度とあの快感を忘れることはできない。俺も本当は同じだ。渡樫や詠や関谷にあんなことを言っておいて、俺はベースもアンプもプリアンプも手放してはいない。尭矢さんはそこを見抜いているのかもしれない。

ferseedaフェルシーダは確かにイイバンドだったけどな。オレァ正直良くあのギターと組めてんな、って思ってたぜ。人間的にな。だからお前がバンドを辞めたのは仕方ねぇって思うけど」

 ferseedaは以前俺が所属していたバンドだ。関谷も水沢も言ってくれていたが、バンドとしては良いバンドだった。ただ、ギタリストの太田康太おおたこうたはとことん性格の合わない奴で、派手な喧嘩も何度かやらかした。俺がferseedaを辞めたのは正しく太田との確執が原因だ。私的すぎて話す気にもなれないし、話したところで誰に理解をされる訳でもない。だから誰にも話さない。

「オレはお前のベース気に入ってたんだぜ。まだ楽器手放してねんなら一緒にやれる機会として巧く使えねぇかとは思った」

「やっぱり尭矢さんがけしかけたんじゃ……」

「違ぇっつってんだろ。人聞きの悪ぃ言い方すんな」

 大丈夫、まだ怒ってはいない。この男は俺以上に口が悪いし態度がでかい。ただ裏表がない分、理解してくれる人間が多いのだろう。仲間も多い。

「じゃあ何で軽音楽部の連中が代わる代わる勧誘に来るんですか」

「知らねぇよ。オレは香織かおりにも瀬野口にも行けなんつってねぇし」

「腑に落ちないんですが」

「何がだよ」

 尭矢さんは馬鹿だが、頭は悪くない。逆に言えば頭は悪くないが、馬鹿だ。少しけしかけてみるか。

「二つ、あります」

 そう言って俺は言いたいことを整理する。

「まず、軽音楽部の連中が何で躍起になって文化祭の出演を狙うのか。聞けば男子部員で三年は尭矢さんだけらしいじゃないですか」

 女子部員には部長だという伊関至春いぜきしはる瀬野口早香はやかがいるが、女子部員はバンドとして欠員がある訳ではない。普通に文化祭のライブに出演して、普通に思い出創りをすれば良い。

「ま、そうだな」

「ここからは勘ですが、尭矢さんが卒業するから、最後の思い出として文化祭に出たい、って訳じゃあないですよね」

 昨日瀬野口と話していて気付いたことだ。

「何でだよ」

 憮然として尭矢さんが口を尖らせた。恐らくだが別に渡樫や詠、瀬野口弟辺りがあんたを慕っていない訳ではないだろう。心配するな。

「記念的なイベントにするなら文化祭に拘る意味が判らない。そりゃタダで出演できるのは魅力ですが、出演時間だとか音響設備のことまで考えれば、俺は記念イベントなら文化祭の環境は御免です」

 どうだ。反論できなかろう。

「……まぁ確かにな」

「それと」

「まだあんのかよ」

「二つ、と言いました。渡樫や詠が俺を勧誘するのは判ります。けど関谷や瀬野口先輩までもが勧誘に来るのは何なんですか。女子部員のバンドはメンバーも欠けていない。部活の時に関谷が男子部員に駆り出されるくらいで関谷の性格から言ってもそれほど煩わしくは思っていないはずですよね」

 煩わしいどころか、あの性格ならば楽しんでいるといったこともありそうだ。

「お前、アタマ良かったっけ?」

 何か知っているのか?俺の話に直結しない返し方をしてくるということは、話を逸らしたいのか、或いは逃げている可能性もある。

「別に良かないですけど少し考えりゃ判りますよ。何故文化祭なのか、何故俺なのか、その二つが判らない点です」

「オレも判んねぇ」

 くそ。読みにくい。話の流れから言って何か知っている可能性は高いはずだが、本当に何も知らない可能性もこの男の場合は充分に有り得る。だとするならば、誰かを俺の味方に付けるか。渡樫はあの性格だ。完全に不向きだろう。関谷は恐らく瀬野口に教育されているだろうから口を割ることはない。だとすると、あまり気は進まないが詠か。

「こないだ瀬野口先輩はまた来ると言ってましたよ。いつまで続くんですか」

「さぁな」

 尭矢さんが知らないのならばこれ以上は時間の無駄になるし、知っているとしてもどうやら俺に話す気はなさそうだ。つまり、これ以上はどう転んでも無駄以外の何物でもない。

「そすか。それじゃ」

「何、帰んの?」

 何を驚いているんだ。まさかこの後俺と遊びに行こうという訳でもなかろう。

「帰りますよ」

「何でだよ」

「はぁ?学校は終わり。俺は帰宅部です。当たり前でしょうが」

 また学校に舞い戻って予習復習でもしろと?俺は不真面目なつもりはないが、勤勉ではない。

「折角先輩が声かけたのにか?」

 先輩とは言うもののただ学年が一つ上で、中学も高校もこうして同じ学校な訳だが、学校での付き合いなど皆無な上に、外で会う時もバンドは違うし、世話になっていることだってない。

「じゃあ言いますが尭矢さん、俺とお茶でもしますか?」

「しよう」

 即答だ。渡樫と出会ってからというもの、どうもおかしい。俺は人に好かれる性格ではないことを自覚している。なのに渡樫も詠も関谷も水沢も、ここ数日で急激に親しくなった。

「……」

「……ヤなのか」

 俺が少しの間考えを巡らせていると、不満そうに尭矢さんが言った。

「そうじゃないですが」

 この行為に意味があるのかないのかは、俺独りでは判断できない。

「お前とはちゃんと話したことなかったろ。いい機会じゃねぇか」

 真偽のほどは判らないが、尭矢さんが俺と話すことに意味があると言うのであれば、俺から意味はない、と切って捨てることはできない。だが。

「ベースはやりませんよ」

 言うべきことは言っておかなければならない。尭矢さんが俺と親しくしてくれるというのであれば、俺も迷惑なことは一つもない。と言ってしまうと随分と上からの言い方になってしまうが、俺などと仲良くなりたいと思ってくれている酔狂な人間が稀有なのは確かだ。

「わぁってるよ。メンドくせぇな」

「面倒なら茶なんぞ飲まなくてもいいじゃないですか」

 色々な含みを込めて言う。そう、俺はきっと百人中、九十人の人間が面倒臭いと評するだろう人間であることも自覚している。

「それが面倒だ、つってんじゃねんだよ」

「俺もそれが面倒だなんて言ってないですよ」

 なるほど。尭矢さんもそれを承知で言ってきている訳か。ならば付き合おう。

「いいから!行くぞ!」

「行くんだ」

 いやに乗り気なのが不自然だ。思わずぽろりとこぼしてしまった。

「ヤなのか?」

「そうじゃないです」

 俺もまた即答。俺の自己判断になるが、この藤崎尭矢という男もまた百人いれば百人が付き合いやすいとは言わない男だ。渡樫も詠もそうだが、この男にもまた俺が偏執している、フロントマン独特の特別に嫌な感情というものを感じない。それは一緒にバンドをしていないということが大きいのだろうが、俺は彼らのバンドには関わる気がないのだから、それならばそれで良いのだろう。

「水沢んとこ、知ってんだろ?」

「えぇ、まぁ。奢りですか」

 何だかんだと言って俺はあの店で毎度コーヒーをタダ飲みしているのだ。あんな上等なコーヒーを格安で飲ませてくれているのに、一度も金を払ったことがないというのはいい加減心苦しい。いくら誰かの奢りで店に収入があったとしてもだ。

「何でだよ」

「いや、ならいいんです」

 これでやっと涼子りょうこさんとの約束が果たせる。

「ワケ判んねぇな」

「ま、こっちの話です。行きましょう」



「聡君いらっしゃい。あら、尭矢君も一緒なの?」

 涼子さんが先日と変わらぬ素晴らしい笑顔で出迎えてくれた。この人には営業スマイルという言葉は存在しない。店内には客が四人。多くもなく少なくもなくといったところか。

「どうも。ここに来る時は大抵珍しい組み合わせで来ることになっているようです」

 俺は素晴らしい笑顔に苦笑を返すと、窓際の二人掛けのテーブル席に着いた。

「お久しぶりす、涼子さん」

 尭矢さんも涼子さんに軽く会釈をすると、俺の対面に座った。

「二人はバンド繋がり?」

 メニューを持ってテーブルにまで来てくれてから涼子さんは言った。

「まぁそうっすね」

「違います」

 今の俺はバンドとは完全に無関係だ。だからただの先輩後輩で良いはずだ。そんな流れで軽音楽部のバンド騒動に巻き込まれるのは絶対に御免だ。

「てんめぇ」

「俺はバンドはやっていないですよ」

 ぎろりと音が出そうな視線で俺を睨む。残念だが事実だ。諦めてもらう他にない。

「知り合ったのはバンドがきっかけだろが!」

「うるさい……。他のお客さんがいるんだから静かにしてください」

 知り合ったのは確かにお互いがバンドをしていたからだ。だとするならば、涼子さんの質問の答えとしては尭矢さんが言った方が正しい。ただでかい声を出さないで欲しい。これではまるで俺が叱られているみたいだ。

「可愛くねぇ……」

 可愛くない後輩などお茶に誘うからこうなるのだ。大体尭矢さんは俺のベースは認めてくれていたのかもしれないが、俺という人間を認めているとは思えない。俺が我慢してfrseedaで太田と組んでいた状況と変わらない……。いやそれは言いすぎだな。俺は太田など天地がひっくり返ろうともお茶には誘わない。

「涼子さん、俺はブルーマウンテンで」

 この間のコロンビアも非常に旨かったが、俺はやはりブルーマウンテンが好みだ。店によって表情が違うブレンドも好きなのだが、ブレンドはもう少しこの店の様々なコーヒー楽しんでからでも良いだろう。

「俺RBS」

「RBS?」

 聞きなれない名だ。オリジナルメニューだろうか。記憶に残っている限りではメニューにはその名は出ていなかったように思う。

「常連だけが飲める隠しメニューの涼子さんブレンドスペシャルだ。知らねぇのか」

 ふ、と勝ち誇ったように尭矢さんがにやりとした。少し腹が立つ。

「俺は今日この店に来るのは四度目です。知らないのも無理はないでしょう。ちなみに涼子さん、それはいつから飲めるようになるんですか?」

 つまりはどのくらい通い詰めれば常連となるのだろうか。常連だけが飲めるということであれば、是非とも俺も味わってみたい。

「特に期限は切ってないから今日からでも良いわよ」

 なるほど。つまりは隠しメニューというだけであって、常連だけに振舞うものという訳ではないようだ。

「変更しても大丈夫ですか?」

「勿論。ついこの間バージョンⅢ(スリー)ができたのよ」

 ほう。研究にも余念がないとは流石は涼子さんだ。ブレンドとはつまりある種の黄金比探しとも言える。少しずつ混ぜる品を変え、分量を変え、これなら客も唸るだろうという味を引き出せたものが、今は三種もあるということだ。どことなくエレキギターの音作りにも似ている。

「え?」

 RBSが載っていないと判っているメニューに目を戻し、尭矢さんが短く言う。つまりはバージョンⅢは愚かバージョンⅡが存在していることも知らなかったのだろう。

「普通のRBS、それとRBSⅡ、最後に一番新しいRBSⅢ。尭矢君知らなかった?」

「し、知らなかったっす!なんだよ聡……。常連面して恥ずかしい奴だとか思ってんのか」

 凄いな。エスパーかと思うくらい正確な読心術だ。

「思いました。常連面して恥ずかしい人だ」

 心が読まれたと思うことが気持ち悪かったのですぐさま口に出した。

「思ってんのかよ!そいでわざわざ言うんじゃねぇよ!」

「涼子さん、まずは基礎から。通常のRBSでお願いします」

「かしこまり」

 喚く尭矢さんを他所に俺は涼子さんに注文を伝えた。

「シカトか!」

「うるさいですよ。注文が先です」

 いつまでもこのテーブルに涼子さんを貼り付けておく訳にも行かない。客は少なめとはいえ、基本的にはこの店は涼子さんが一人で切り盛りしているのだろうから。

「あ、すんません。じゃあ俺はRBSⅡで」

「かしこまり」

 ぴん、と人差し指を立てて涼子さんが笑顔になった。相変わらず可愛らしい女性だ。

「……お前友達いねぇだろ」

「いませんね」

 クラスで孤立している訳ではないし、班分けで一人あぶれることもないが、放課後一緒に遊びに行ったりする奴はいない。小学生の頃ならば友達はいたと思うが、中学生になりバンドを始めてから、バンドをしない友達とは疎遠になり、バンドを辞めた今となってはこの始末だ。

「だろうなぁ。別にヤな奴だとは思わねぇけどさぁ」

「あら、けいちゃんとかしん君は?」

 涼子さんがカウンターテーブルの奥からそう声をかけてきた。

「向こうがそう思ってはいないでしょう」

 何しろあれからこうしてここに来ることもない。渡樫は確かに良い奴だと思うし、詠も誤解が解けて実は中々に面白い奴だったと判った。だがそれだけでは友達とは言えないのではないだろうか。どこからが友達でどこからが知り合いなのか、明確な線引きはできないが、それでも友達という言葉を使うにはまだ早くはないだろうか。

「そういう失礼なこと、言わないのー」

 やんわりと、諭すように、笑顔のまま涼子さんは言う。

「失礼ですか?」

 失礼というのならば、会って僅か数日なのに友達だと言い切ってしまう方が失礼にはならないのだろうか。

「そ。慧ちゃんも慎君ももう聡君のこと友達だと思ってるわよ。慧ちゃんはなんでだよー、って言うくらいで済みそうだけれど慎君はまたぐちぐち言いだすかも」

 いや、そうだ。渡樫は俺のことを友達だと言ってくれた。そして俺は全く嫌な気分はしないどころか、少々照れくさかった。つまりは嬉しかったのだ。だがしかし、それも人それぞれ感じ方など違うのではないだろうか。詠も俺と同じように思うとは限らないのではないだろうか。

「……この年になるとそういう判別も難しいですよね。俺は連中と話すのは嫌いじゃない。でも知り合って僅か数日の人間が友達だなどと言おうものなら昔からの連中の友達は、何を新参者が、と思ったりはしないものですかね」

 本人同士の感情のやりとりならば少々照れくさい程度だが、相手を取り巻く友達の感情だって勿論あるに決まっているのだ。

「新しく友達できたんだな、って思う程度だろ。考えすぎなんだよ、お前は」

「……なるほど」

 ふぅ、と嘆息してから尭矢さんは呆れたように笑った。

「尭矢君の言う通り。この調子だとうちのみふゆも友達にはしてもらえない感じね」

 くすくすと笑いながら涼子さんが言う。その間も手は動きっぱなしだ。若輩の俺が思うことはおこがましいことだが、本当に涼子さんは人をもてなすという一点に重きを置いているのが良く判る。

「み、水沢は……。クラスも違いますし、ここでしか話したことありませんからね。それに知っているとは思いますが、水沢みふゆは瀬能学園のアイドル、とまで言われているんですよ」

 それに比べれば俺など何の特技も無いただの凡人だ。成績は平均点。別段イケメンでもなければ取り立ててブ男でもない。運動も何でもやるにはやるが飛びぬけて得意なものもない。

「ただの高校生じゃない。芸能活動している訳でもないし、普通に部活してるだけでしょ?」

「運動抜群、成績優秀、眉目秀麗、と揃っていれば嫌が応にも有名になります」

 オマケにどうやら性格も飛びぬけて良いようだ。面倒見は良いし機知に富んでいる。人への気遣いも忘れないし、人当たりも柔らかい。なるほど瀬能学園の男は誰でも一度は水沢みふゆに恋をする、などという噂を立てられる訳だと納得してしまうほどに。

「こんにちは」

 そんなことをぼんやりと考えていた矢先に水沢みふゆの彼氏が登場だ。多くの男がこの谷崎愁たにざきしゅうに恨み言の一つでも言ってやりたい気持ちもあるのだろうが、またこいつも跳びぬけて良い奴で、男女分け隔てなく人気がある。

「あら愁ちゃん、みふゆは?一緒じゃなかったの?」

「今日は部活みたいです。あ、新崎しんざき君、尭矢さん」

 そう言って谷崎はこちらに視線を向けてきた。谷崎は親が経営している楽器店兼リハーサルスタジオEDITIONエディションで、俺と尭矢さんが一緒にいることを何度も目撃している。なので特に今の状況に驚きはしなかった。

「よー愁。相変わらずイケメンだなぁ。やんなるぜ全く」

 にやりと笑って尭矢さんは言った。確かにやんなるほどイケメンだ。

「人の顔を見るなりやんならないでくださいよ。ギターあれからどうです?」

 苦笑して谷崎はそう返す。谷崎は将来そのまま家業を継ぐらしく、今からリペアマンの修行をしているのだ。かくいう俺もベースのメンテナンスを無料でしてもらったことがあるが、尭矢さんもまた谷崎には世話になっているのだろう。

「おー、ばっちり。まだ修行期間中なんだよな?何かあったらまた頼むわ」

「了解です。新崎君はバンド、辞めちゃったんでしょ?」

「ん、まぁな」

 パッタリとスタジオには顔を見せなくなったし、ferseedaの誰かが谷崎に言ったのかもしれない。

「楽器はどうしたの?」

「……ま、まぁ一応まだある」

 く、尭矢さんの前でそうはっきりとは言いたくなかったのだが、谷崎には嘘はつけない。

「……」

「うるさい」

 尭矢さんの視線がやたらと刺さるような気がしたので、短く言う。

「なんも言ってねぇだろうが」

 ほれみたことかと、にやにやする尭矢さんを見て谷崎は苦笑する。

「じゃあ、新崎君がその気になるまでは僕が預かるよ。放置しとくとネックも反るし、捩じれるし、金属パーツも傷むの早くなっちゃうしね。良いベースなんだから勿体ないでしょ」

 まったく、底なしの良い奴だな、お前という奴は。

「いつやる気になるかなんぞ判らんだろう」

 確かに俺のベースは俺が小学生の頃から溜めていた貯金をはたいて買った、高校生が持つにしては上等すぎるベースだ。

「もしもやる気が戻らなかったら僕が買い取るよ。でもさ、もしも新崎君がやる気になった時、愛用していたベースが酷い状態だったら新崎君はきっと自分のことを責めると思うんだ」

 こいつの洞察力はたいしたものだ。人を気遣うことに長けすぎている。俺は観念せざるを得ない。これだけ親切にしてくれる谷崎の厚意を無駄にするほどには俺は冷徹な人間ではないつもりだ。

「……判った。今度持ってくる。ただ我侭を言って済まないが、スタジオには顔は出せない」

 ferseedaの誰かに会わないとも限らない。今更戻って来いなどとは言われないが、顔を合わせれば気まずくなるし、何よりも太田の顔を見たくない。

「……そうだね。じゃあここで」

「済まないな、色々気遣ってもらって」

 俺は言って谷崎に頭を下げた。

「友達なんだからそんな水臭いこと言わないでよ」

「……そ、そうだな」

「……」

 尭矢さんの視線が再び突き刺さる。判った。俺が認識を改めれば良いだけのことなのだろう。甘んじて谷崎の言葉を受け入れる。だからその視線をやめて欲しい。

「うるさい」

 おっと言ってしまった。

「だから何も言ってねぇだろうが」

「楽器、私が預かりましょうか?」

 にやにや顔の尭矢さんから涼子さんに視線を移す。涼子さんもどことなくにやりとしている気がしないでもないが、涼子さんも流石の気遣いだ。まだ四度しかこの店に来ていない俺のことをきちんと気に留めてくれている証だろう。

「え?」

「遅い時間、弊店間際に来てくれれば誰にも会わないで済むでしょ?」

「どういうことだ?」

 俺と涼子さんのやり取りを谷崎と尭矢さんは判っていないようだ。

「楽器を持っている時に慧ちゃんや慎君、早香ちゃんに見つかりたくないもんね」

「感服です」

 ぺこり、と涼子さんに頭を下げる。

「あぁ、なるほどな。でも別にそこまで嫌わなくてもいいだろ」

「嫌ってる訳ではないですよ。連中にほんの少しでも妙な期待を持たせたくないだけです」

 連中が楽器を持っている俺を見れば、その気になってくれたのかと思うのが普通だ。説明をすれば済むことではあるが、その説明によって連中をがっかりさせることになってしまう。

「愁に楽器を預けるって時点でオレァ妙な期待すっけどな」

 尭矢さんの言うことも尤もだ。しかしまだ今の俺はその期待に応える気など毛頭もない。

「諦めてください。それに谷崎が見ててくれるなら状態は良いままで売れますし」

「何でベーシストってへそ曲がりが多いんだろうな、愁」

 ちぇ、と言ってから尭矢さんは俺たちの席に一番近い、すぐ隣のカウンター席に腰をかけた谷崎に話を振った。

「そこで僕に同意を求めないでくださいよ」

「尭矢さんの言葉にいちいち耳を貸していたら時間が勿体無いぞ、谷崎」

 結局、こうしてコーヒーを飲みに来たものの、軽音学部の情報は何も得られないままだ。

「お前はシカトしすぎなんだよ」

「谷崎よ、花札にあるもみじの札を知ってるか?」

「それってシカトの語源になったやつでしょ?」

 俺があまりに堂々と尭矢さんを無視したからなのか、谷崎は苦笑した。

「流石に知っていたか」

「だから聞けっつんだよ、人の話を!」

「うるさい」

 良い香りが近付いてくる。銀色のトレーを持った涼子さんが俺たちのテーブルにコーヒーを運んできてくれた。

「お待ちどうさま」

「はぁ、いい香りですね。頂きます」

 酸味は控えめだろうか。俺はふぅ、とカップに息を吹きかけ、ゆっくりと一口飲んだ。旨い。旨すぎる。ブルーマウンテンもコロンビアも旨かったが、これはマストになりそうなほどだ。是非RBSⅡもRBSⅢも飲みたくなった。

「あ、いいな、僕もモカください涼子さん」

 そうか、モカも有りだな。次来る時は何を飲もうか迷ってしまう。

「そういえば今日はお給料日ね、愁ちゃん」

「です。なのでこの場は僕が奢りますよ」

 いきなり、とんでもないことを谷崎は言い出した。

「おー、さすが愁!」

「ま、待て谷崎」

 谷崎の気持ちはありがたかったが、それでは俺の気が済まない。オマケに谷崎は俺のベースの世話までしてくれるというのに。

「ん?」

「俺はここに来るのは今日で四度目だ。だが一度目は涼子さん、二度目は詠、三度目は瀬野口先輩に奢ってもらっている。つまり俺は、ここに来るたび無銭飲食をしているに等しい。今日こそは涼子さんにきちんと代価を支払うと心に決めて来た」

 だからこの店に来る前に尭矢さんに確認を取ったのだ。俺個人としてはこれほど旨いコーヒーを飲ませてもらっているのに、一円もこのお店に金を払っていないのだ。

「僕が払おうと新崎君が払おうと涼子さんにとっては何も代わらないよね」

「そうね」

 だとしても、だ。

「気持ちの問題だ」

「じゃあ僕の気持ちを踏みにじらないでよ、新崎君」

 何と頭の回転の早い奴なのだろうか。涼子さんにも谷崎にもまるで叶わない。

「はい、聡君の負けー」

「す、済まない、ご馳走になる。涼子さん、次こそは……」

「うん、またきてね、聡君」

 にっこり極上の笑顔で涼子さんは言った。

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