第三話:口コミ
二〇一二年九月十二日 水曜日
口コミ、という言葉がある。
例えば評判の良い飲食店。特に宣伝もしていないのに、そこに行った人から人へと話が広まる。
だから主に、飲食店などにその言葉は当てはまるものだとばかり思っていた。
しかし音楽でもそれはある。だがそれは、メジャー、インディーズ問わず、少なからず音源をリリースしているアーティストのはずだ。
数年前、この街界隈の人間たちに広まったディーヴァというアーティストがいた。彼女はどういう訳かこの街界隈のネット上で有名になり、オリジナルやコピー音源、他人がアレンジしたものまで多岐に渡る音源や噂が、正に口コミで広がっていったという。その内の噂の一つには、ディーヴァは我が校の卒業生だったというものがある。その真偽を確かめる術は俺にはないし、ディーヴァの曲はとても好きだが、ディーヴァの正体にはあまり興味もなかったので調べようと思ったこともない。
「
下校中、そんなことをぼんやりと考えながら歩いていた。すると突然、堂々と上から目線でふてぶてしい台詞を言い放つ奴が現れた。そいつは違うクラスの奴だった。
「誰だ?初対面だよな」
そのひょろりと高い身長と、女子と見紛うばかりのイケメンな顔面には見覚えがある。話したことは多分ない。
「初対面ではないはずだが」
「顔は知ってる程度だろう、
詠慎。
「知っているじゃないか」
「顔は知ってる程度だ。何か用か?バンドならやらんぞ。そして俺は帰路についている。お前などに用はない。じゃあな」
先手必勝。恐らく一昨日の渡樫と
バンド者の中ではベーシスト人口はかなり少ない。しかしきちんと探せばいくらでもいる。やりようはいくらでもある。俺程度の腕でもっと性格が良い奴などゴロゴロいるはずだ。やるべきことをやり尽くして、最終的に俺に声をかけている訳ではないのもまた腹が立つ。
「うちのバンドでベースを弾いてくれ」
先手を取られて悔しかったのか、詠はそう言って俺の後をついてきた。
「聞こえなかったか。バンドはやらん。そしてお前に用はない」
「バンドやれなんて言ってない。ベースを弾いてくれと言ったんだ」
なるほどな。別に渡樫や詠たちの中に溶け込んで一緒に仲良くバンドをやる必要はないということか。ただ参加して、ベースを弾いてくれればそれで良いという訳だな。所謂ヘルパーとして。
だが。
「従う理由はないな」
俺は立ち止まると、詠を振り返ってそう言い放った。いくら情に厚く義を重んじる
「ライブが控えているんだ。新崎君、例えば俺がそのライブを最後にギターが弾けなくなるとしたらどうだ」
「御愁傷様」
ザ、即答。
「はぁ?君は、あの時俺がベースを弾いてやっていれば、あいつは最後にやりたいことやれて満足できただろうに、って一生苦悩することになるんだぞ」
つまりは、人の願いを無碍に断ち切って心は痛まないのか、と。全く面倒な奴だ。しかしそれにしても、それは時と場合と人に依るのではないだろうか。
つまりは。
「それは俺とお前が親しかったらそうもなろうが、今のところ赤の他人だ。お前がどうなろうが知ったことじゃない」
ということだ。それに逆にお前ならどうだ。陰口を叩いていた相手が、つまり俺が、その陰口とは全く関係のない原因でやりたいことができなくなったとしたら、小躍りくらいやってのけるのではないのか。
「冷てー。今までマトモに喋ったことはないけど同じ学び舎で学んだ学友だろ」
学び舎の上に学友とは古風に出たな。仲良しだの学友だの、軽音楽部は古い言い回しが好きな連中が多いのか。
「詠よ、お前は俺と友達になりたいのか」
とてもではないがそうは見えない詠にそうわざとそう言ってやる。比較的好感度が高かった渡樫の願いでさえ俺は断った。好感度の欠片もないこいつの願いなどどうやったら聞き入れられるだろうか。俺の中には答えなど欠片もない。
「違う。ベース弾けっつってんの」
「だが断る」
馬鹿なのかこいつは。自分が何を言っているか判っているのか。
「何故だ」
「バンドが嫌だしやりたくない。もうバンドは組まないし、今だってベースは弾いていない」
何故だもくそもあるか。ブランクだって丸半年だ。相当下手になっているはずだ。いや、やらないけれど。
「何で辞めたんだ」
「友達になりたいという奴ならともかく、ただ俺に指図するだけの男に話す義理はないな。それになんだ、お前は俺が嫌いなんだろう」
渡樫のことを思い出す。あいつくらいばか正直にぶつかってくれば、俺だってもう少し愛想良く応対できるはずだ。結果、連中の条件は飲まないことには変わりはないが、話し方も断り方ももう少し違ったものになっていたはずだ。
「それは昔の話だろう」
やはり陰口を叩いていたことも、それを俺が知っていただろうことも自覚はしているのだな。しかし昔と言い切るとは、今は俺のことは何とも思っていないのか。それにしては(俺もだが)友好的な態度には見えない。
「十年ひと昔と言うが、十年前にお前と出会った記憶はない」
「うっぜぇー。なんでこんな奴に……」
ぼそりと不満げな顔をして詠は漏らす。不満げな顔のお手本のようだ。軽く吹いてもおかしくないくらいの絵に描いたような不満顔だ。何気に面白い奴なのかもしれないが、仲良くしてやる理由が全くない。
「どうやら噂は事実だったようだな」
「な、何がだよ!」
突然色めきだって詠は大きな声を出した。少し驚いたが、通行人が数名こちらを気にしただけで別段騒ぎにはならなかった。しかしそれにしてもあらぬ誤解をかけられるのは困る。
「でかい声を出すな人聞きの悪い。お前、俺の悪い噂とか立ててたんだろう。……いや、噂を立てるとは言わないまでも、悪く言っていたのは事実だな」
「……そっちか」
少し安堵したような顔だ。いや責め立てているのは俺だが、何故安堵する。さては何か別に疚しいことでもあって、そちらを俺が知っているのではと思ったのかもしれない。
「何だって?」
「何でもない。そんなもの仕方のないことだろ」
見ず知らずの人間の陰口を叩くことが、か。理由が判らなければ俺としては全く謂れのない陰口だ。
「理由が言えないなら、お前は良く知りもしない俺の悪口を言ってるただの嫌な奴だ。仕方がなかろうが何だろうが、理由も何も判らない俺には何の関係もない。そんな奴の話を親身に聞いてやる馬鹿がどこにいる」
まだ早いとは思う。思うのだが、俺の中ではかなり詠慎という男は馬鹿認定だ。
「……去年」
「話すのか」
急すぎるわ。
「話すよ。仕方ない」
「話したくないなら話さなくていい」
それに聞くのも面倒だ。別に詠のことは嫌いという訳ではないというか、何とも思っていないが、そもそも俺は話を聞いてやったらバンドをやるなどとは一言も言っていない。
「そしたら新崎君は俺のことを嫌な奴だと思いっぱなしだろ」
「当然の反応だと思うが」
俺の陰口を叩いていた人間を好きになる奴がどこの世界にいるのだ。しかし詠も俺が話を聞いたらバンドをやるなどとは言っていないことを判った上であえて話している。そんな口ぶりだった。
「だから、訳を全部話すって言ってるんだ!」
目を閉じて詠はそう言った。我儘な子供のようだ。そうか、こいつは馬鹿な訳ではなくて子供なのだ。渡樫はどちらかというと馬鹿者だが、詠慎という男はただ単に子供なのだろう。
「なるほどな」
ならば、だ。
「……お前、金はあるか」
「はぁ?」
また眉間に皺を寄せて頓狂な声を上げた。ついこの間喝上げに遭ったばかりの俺が他人から金銭を巻き上げる訳がない。とは言っても詠は俺が喝上げされたことを知る由もないのでこればかりは奴を責めるのは可哀想だ。
「でかい声を出すなと言っている」
「まさか喝上げされた腹いせに俺から金品を巻き上げようなんて言う訳じゃないだろうな」
知っていやがった。やはりこいつは馬鹿かもしれない。情報の出所は十中八九渡樫だろう。残り一か二くらいは
「商店街の外れに良い喫茶店がある。そこで訳を聞いてやろうじゃないかという話だ」
「奢れって?」
「赤の他人に
ちなみに俺はある。考えてみたら、もしも詠があの店に行ったことがなかったら、涼子さんの奢りになる。それはなんだかとても腹立たしい。どうか行ったことがありますように。
「色々端折りすぎなんだよ、新崎君の言い方は」
ぷぅ、とまたも不満顔のお手本で詠は言った。
「俺がすべてを話す前に素っ頓狂な声を上げたのはお前だ」
びし、と指を差してそう言うと、俺はさっさと喫茶店に急いだ。
「新崎君ウザい。全部話しても新崎君とは仲良くなれそうもない」
「全く持って同感だ。なんならお前の言い訳なんか聞かなくてもいい。時間も省けるしな」
面と向かってここまで言うことができるのに、何故陰口など叩いたのか。知りたいとも思ったがどうしても知りたい訳ではない。
「……ちきしょう」
俺が水を差したか腰を折ったか、どちらでも別に構わないが、そんなことを詠は呟いた。だから無理して話さなくても良いと言ったのに。
「お前なぁ、俺が嫌いなら嫌いでいいだろう。誰にだって口も聞きたくないほど嫌いな奴の一人や二人、いて当たり前なんじゃないのか」
「俺はできればそういう人間を減らしたいんだよ」
「陰口叩いといて良く言うな、そんなこと」
一瞬自分の耳を疑った。誰かの陰口を叩けばそれは自分が誰かを嫌っていることの証以外の何物でもない。俺の陰口を叩いておいてから、嫌う人間を減らしたいとは虫の良い話だ。
「今自分で誰にだって嫌いな奴がいるって言っただろ」
「だから、嫌いな奴を無理に好きになろうだなんていうのが徒労だと言っているんだ」
今の俺の態度を見て、俺がこれからお前と仲良くするとでも思っているのか。自分からも仲良くなれそうもないと言っておきながらも、どの口がほざいている。
「そうかもしれないが訳くらいは聞いてもいいだろ。俺が新崎君の陰口を叩いていたのが何故だったか、知ればしょうがないって思うかもしれないだろ」
俺からしてみれば矛盾以外の何物でもないことだが、それは詠の中では矛盾でも何でもないことなのだろう。そう思えば俺の一過性の感情や、一方通行の思い込みで詠を遠ざけるのは、確かに(恐らくは、だが)嫌う人間を減らすという努力をしているのであろう詠の気持ちを踏みにじることになるのかもしれない。というよりも考えるのが疲れたのでさっさと詠の話を聞いてしまおうという気持ちの方が正直強い。
「更に嫌ったらどうするんだ」
これだけは確認しておこう。詠の言い訳だか理由だかを聞いて、俺が二度と詠とは関わりたくないと思った時、こいつはどう思うのか。
「その時はその時にしょうがないって思うさ」
「……判った。聞こう」
それならば面倒はない。いや、詠の話を聞くこと自体が既に面倒なことには変わりないのだが、これ以上面倒なことになってはこちらが困る。
「商店街の喫茶店だと、水沢さんちのお店だな」
「何だ、知ってたのか」
あの店の良さが判る高校生が他にもいるとは。本物のコーヒーの味を楽しんでいるかどうかは判りかねるが、楽しみ方など人それぞれだ。そこにいちゃもんを付ける気はないし、俺自身、大人から見たら生意気な高校生だと思われていることだろう。
「何度も行ってる」
よし。
喫茶店
「あ、新崎君、詠君もいらっしゃい」
「あぁ、ども」
その割に冴えない挨拶をして俺は四人がけ用のテーブル席に着いた。詠もそれに続く。
「あら聡君、慎君いらっしゃい」
ぺこり、と頭を下げるだけに落ち着く。俺はもともと社交的なことが苦手だ。直さねばいかんとは思いはするのだが。
「こんにちは、涼子さん」
対する詠は折り目正しく会釈すると、にこやかにそう挨拶をした。俺にはできない芸当だな。
「珍しい組み合わせ?」
俺でも詠にでもなく、涼子さんは水沢みふゆに問うた。
「だね」
「こいつとは今日まともに喋った」
俺はそう言い放ち、メニューに目を通す。基本はブルーマウンテンと決めてはいるのだが、こうしていた方が会話で人と目を合わせなくて済む。話し相手が男だったならいちいちそんなことなどしないが、相手は商店街きっての美人若奥様と学園のアイドルだ。
「新崎君そういうの多いね」
苦笑しつつ水沢みふゆがお冷をテーブルに置いてくれた。
「友達いないからな、俺は」
堂々と胸を張って言うことではないのかもしれないが、ある程度は事実だし見栄を張る意味も見当たらない。
「あら、
「……あれから顔も見てません」
奴は奴で忙しいのだろう。俺は暇だが、学校帰りに忙しそうな渡樫を誘ってこの店に来るのもなんだか心苦しい。
「まぁこれだけ性悪なら友達できないのも頷ける」
「お前も友達いないだろ」
ふん、とそっぽを向いて詠に言う。
「俺はいるよ。少なくとも新崎君よりいるよ」
だろうよ。
でも。
「バンドメンバー以外はいないだろ」
「今日増えるかもしれないだろ」
それが俺のことだったとしたら。
「無茶をおっしゃる」
「まだ判らないじゃないか」
友達になりたいのかそうではないのか判らない。俺は正直どちらでも良くなってきてしまっていた。多分こいつは心底悪い奴という訳ではないのだろう。
「お前さっき俺に仲良くなれそうもないって言ったばかりだろう」
だから、それならそれで良いのだ。
「充分仲良く見えるわよ、二人とも」
「……」
くすくすと可愛らしく笑う涼子さんに閉口する。どこをどう見たらそう見えるのか。水沢涼子とは、圧倒的平和主義者なのかもしれない。抗争派の女性など恐ろしくてたまらないが。
「涼子さん、ブルーマウンテンで」
「俺はモカで」
「はいかしこまり」
ぴん、と人差し指を立てると、可愛らしい笑顔で涼子さんはウィンクした。
天使か。
「で」
俺はお冷を一口飲んで、とん、とテーブルを指で叩いた。
「コーヒーが来るまで待とう」
詠の言うことは尤もだが。
「お待ちどうさま」
水沢がテーブルに俺たちのコーヒーを運んできてくれた。
「で」
「……」
何故何も言わない。まさか忘れたのか。
「何故お前が俺の陰口を叩いていたか、だ」
「……判ってる」
判っているのなら良い。俺は涼子さんのブルーマウンテンに口をつけた。やはり旨い。何故こんなに旨いコーヒーを破格で提供してくれる店に客がこないのか。コーヒーは静かに飲みたい俺としては嬉しいことだが、採算は取れているのだろうか。いやいや今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「さぁ話せ」
とん、とコーヒーカップを置いて俺は詠の言葉を待った。
「去年、
「あぁ」
余りに突飛なその一言で問いたいことが山ほど生まれたが、ひとまずは詠の話を聞こうではないか。
「俺は彼女が好きだった。っていうか今でも好きだ」
なるほど。いやなるほどとは思うのだが、どうしても問わずにはいられない疑問が口を突いて出た。
「まさかとは思うが詠よ」
「そうだ、逆恨みだ」
「……」
その一言で山ほどの問いたいことは瓦解した。何という単純な男だ、詠慎。
「仕方ないだろ!なんであんな奴にって思うだろ!新崎君のことを良く知らなくたって、そう思って当たり前だろ!」
「……」
判らんでもない。確かに本当に好きな女に恋人ができてしまったら、そう思うことだってあるかもしれない。ただしそれは詠と桜木八重が親しい間柄だった場合に限られるような気がしないでもないのだが。
「で、お前は桜木に告白して振られた訳だな」
「いや……」
俯いて詠はぼそぼそと言う。これには俺も呆れた。
「もしかして桜木の好きな男が俺だと判明して、その場で諦めたということか」
「あぁそうだ」
「話にならん。今すぐ桜木に告白して振られてこい。話はそれからだ」
その時に振られて、仮に例えば、今でも桜木八重が俺のことを諦めきれず、詠の気持ちの行き場はもはやどうしようもなくなってしまったということならば、詠の陰口も甘んじて受け入れよう。
「え、ちょ、だって」
しかし、だ。
「もう半年以上も前だぞ。桜木だって俺のことはすっぱり諦めているかもしれない。もしかしたらOKをもらえる可能性もあるかもしれないだろう」
もしもそれで巧く行ったとしたら俺は陰口の叩かれ噂だ。一発くらい殴っても許してほしい。
「何で判るんだよ」
「判っている訳じゃない。可能性の話をしているだけだ」
だからそれで告白しに行って振られても責任は取れない。結果桜木がまだ俺を好きで、諦めきれないというのならば、それからの話だ。
「何で桜木さんを振ったんだよ」
こいつは物事を自分に置き換えて考えることができないのだろうな。実に簡単なことだというのに。
「お前は好きでもない女と恋人同士になれるのか」
「桜木さんの何が不満なんだ」
「付き合えないことがイコール不満という訳ではない。桜木は嫌いじゃない。だが、俺がそんないい加減な気持ちで付き合って、結果傷つくのは桜木だぞ。そりゃあ少しは桜木だって嬉しい気持ちになるのかもしれないが、俺の気持ちが偽物なのはいずればれる。ばれれば傷はつく。多分俺だって桜木を騙して付き合ったことに傷つくし、何より俺の気持ちが続かんだろうが」
嘘でやったものが続くものか。何だって気持ちには限界が来るし、気持ちが限界になれば終わりはすぐにやって来る。
「……そ、そうか」
「素直に出たな。あまりにギャップがあって気持ち悪いぞ」
俺の気持ちがどうこうよりも、桜木八重が傷つくという点で得心がいっているのだろう。
「そういうところが新崎君の嫌なところだ」
確かに今の言い方は少し茶化したような言い方になってしまった。だが謝る気はない。お前は良く知りもしない俺のことを片思いの逆恨みという、一言で表すとなんとも訳の判らない事象で悪く言っていたのだ。このくらいの反撃はさせてもらう。
「無理に好かないでいい。それにしてもお前みたいなイケメンな顔面でも苦労することはあるんだな」
くく、と笑ってやる。選り好みさえしなければ女に不自由はするまい。お前を思う女はきっと多かろう。桜木八重にばかり気を取られずに視野を広く持てば良いのだ。
「ホントに嫌な奴だな君は。そういう新崎君は人を好きになったことはあるのか」
あるが。桜木に告白される前までは彼女もいたが。
「それをお前に話す義務はない」
「だろうね」
そう言ってやっと詠はモカに口をつけた。
「八重ちゃんは今好きな人はいないって言ってたよ」
カウンターテーブルに肘を突いてこちらを見ていた水沢がにこやかにそう言った。
「うわー!」
まさか聞こえていないとでも思っていたのか。全く周りが見えていない男だ。
「良かったな、詠よ。振られる可能性は百じゃあなくなったぞ」
但し好きな人がいないということは、詠は意識されてもいないということなのだろうが。
「ていうか水沢さんは何、桜木さんと仲良いの?」
「うん。中学一年生の時からずっと仲良しだよ」
なるほど。こちらも馴染みな訳か。
「八重ちゃん可愛いよね」
「うん」
涼子さんがカウンターテーブルの奥からそう声をかけた。水沢の親しい友達ならば何度もこの店には来ているのだろう。
「まぁ理由は判った。そういう訳なら仕方がない。このコーヒーをお前が奢るということで水に流そう」
俺には何も非がない。陰口の叩かれ損だ。話してみれば詠は嫌な奴ではないし、陰口を叩いていたのも恋愛絡みのことならば大目に見よう。やはり俺は情に厚く義を重んじる男。
「やっぱり奢るんじゃないか!」
き、と目を剥いて詠は大声を出した。大声を出したところで痛くも痒くもないぞ。いや、こいつの声は感情が高ぶると甲高くなるので少々うるさい。
「奢らんのか」
「判ったよ、奢るよ!その代わりもう言うなよな!」
何をだ。いや、判っている。察するに恐らく詠が嫌いだとか、こいつは俺の陰口を叩いていた奴だとか、そういうことを他人に言うな、口に出すな、ということだろう。
「約束しよう。言っておくが俺はお前のことが大嫌いって訳じゃない」
ここ数分での話だが。まぁ俺としても誰かの顔を見る度にむかっ腹を立てるのは精神衛生上よろしくない。つまりは物凄く前向きに考えて、詠の話を聞けて良かった。
「嘘だ!」
「嘘じゃない。そりゃあ良く知りもしない俺の陰口を叩くなんて、何だこいつはと思っていたが、訳をきちんと聞いたからな」
それが正当な訳ではなかったにしても、だ。それは言わないでおいてやろう。
「バンドは」
「やらん」
意外と粘り強いな。しかしそこだけは譲れない。
「新崎君、詠君からも勧誘されてるの?」
水沢は自分用のカップにコーヒーを注ぎながらそう言った。ということは水沢から詠には口コミはなかったようだ。渡樫と関谷が話したのだろう。大体にして俺の実力も知らない渡樫や詠が勧誘するのは随分とおかしな話だ。いとをかし、だ。
「更に言うなら昨日関谷にもされそうになった」
「
くすくすと楽しそうに水沢は笑った。実に美少女という言葉が似合うな、水沢みふゆは。
「俺にやる気と技術があれば良かったのにな」
「他人事だなぁ、新崎君は」
ふぅ、と嘆息して詠はコーヒーを飲む。やっと諦めてくれたか。おっとそうだ、詠のことはどうでも良いが、今回のこれで俺は一昨日の自分の言葉を反故にしてしまったことになる。
「涼子さん済みません、次は正当な代価を支払うと言ったんですが……。今日は詠の払いです」
涼子さん個人やこの店の収入としては何も変わらないが俺としては少々心苦しい。詠に対してではなく、もちろん涼子さんに対してだ。
「じゃあまた次回ね。なんて」
ぴん、と人差し指を立てて涼子さんは笑顔を返してくれた。
「はい。今日は詠のおかげで浮いたのでまたきます」
次こそはブルーマウンテンの誘惑に負けずに、他のコーヒーを飲もう。絶対に旨いに決まっている。
「詠君、諦めた方が良いよ。嫌いなことやらされるのは誰だって辛いでしょ?」
「そうだな……」
水沢の苦笑と共に発せられた言葉に、しゅんとして詠は応えた。しゅんとするのは関谷嬢の方が可愛らしい。
「そんなに落ち込まなくてもいいだろう。自分で言うのも癪だが俺程度の腕でもっと性格の良い奴なんぞ探せばいくらでもいる」
性格云々の話になれば詠だって納得はするだろう。散々俺を嫌な奴だとかなんだとか言っていたのだから。
「できれば学内の人間にしたかったんだ」
ということは文化祭のライブ狙いか。なるほど。だとしたら学外の人間を入れたがらないのは判る。よくよく考えてみればもう一人のギタリスト、一応知り合いでもある
「まぁ何かと都合は良さそうだからな」
「いやでも済まない。話だけでも聞いてくれてありがたかった」
す、と顔を上げて、どこか晴れやかな顔で詠は言った。
「……あぁ」
もしかしたらこいつは俺の陰口を叩いていた時も、どこか心苦しい気持ちになっていたのだろうか。だとするならば、想像の域は出ないが、嫌いな奴を減らしたいという詠の言葉も少しは理解できそうだ。
「本当に解かっているか?陰口の件も含め、謝ってるんだぞ」
「解かってるよ。認識は改めた」
謝ってるんだぞ、と大威張りで言われても。まぁそれを言ってしまうとまたこいつはきゃんきゃん喚きそうなので、一応納得はしておこう。
「俺もだ。新崎君は理屈っぽいけど結構イイヤツに昇格したよ」
「そりゃどうも。お前もばかだと思ったがそう思ったほど嫌なヤツじゃない」
全く気に食わない話だが、なんと言うか、こういった悪態をつきながらこいつと話すのを少し、楽しいと感じてしまった。
「……やっぱり新崎君は嫌な奴だ」
「好きに言え」
ふん、と軽く嘆息すると俺はゆっくりとブルーマウンテンの程良い苦味と酸味を楽しむことにした。
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