第一話:伏兵

 二〇一二年九月十日 月曜日


 伏兵ふくへい、という言葉がある。

 読んで字の如く、潜伏する兵士。

 潜伏しているからには、こちらからは何処に、誰が潜伏しているのかは判らない。思わぬ伏兵がいたものだ、などという言葉も良く耳にする。


 つまり渡樫慧太わたがしけいたは、俺がコーヒーを楽しむという趣味を持っている状況下に於いて、立派な伏兵だった。

「お前、こんな店に通っているのか?」

 案内された店は駅からほど良く離れた南商店街の外れにある、小ぢんまりとした、瀟洒な雰囲気漂う喫茶店だった。店内はペパーミントグリーンを基調に水色等の色素の薄い寒色系で彩られていて、静謐感もある。

「通ってるってほどじゃねぇけど、結構来るかな。学割もあるしさ」

「ほぅ」

「この辺りって高校も大学もあんじゃん。だから大学生までは学割効くんだよ」

 確かにこの街には高校だけで瀬能学園と七本槍高校、大学は七本槍大学と瀬能学園があるから、高校も大学も二校ずつだ。中学校や隣駅の学校も含めればもっと多いが、わざわざ隣町にまでコーヒーを飲みに行くというのは余程のコーヒー好きでなければしないだろう。

「親切な店だな」

 薄利多売という訳でもないのだろうが、利用者が多ければ多少安くしてもしっかりと利益は残るという訳か。

「だろ」

「あらあらけいちゃん、いらっしゃい。お友達?」

 そう言って出迎えてくれたウェイトレスは我々より幾分年上の、恐らくはアルバイトだろう。ウェイトレスに顔を覚えられている程度には、渡樫はこの店に訪れているという訳か。

「このお店の店長さんで涼子りようこさん」

 店主とは驚いた。俺よりもたかだか三つ四つ上なだけだろうに。服装さえ変えればまだまだ高校生でも通用しそうな若さだというのに、大したものだ。

新崎聡しんざきあきらです」

水沢みずさわ涼子です。宜しくね」

 にっこり。彼女の顔を改めて見てみるといやぁ驚いた。何という可愛さだろうか。若さと美貌を兼ね備えているとなれば、世の男どもが放ってはおくまい。だがしかし、これほど可愛らしい人が働いているというのに客はそれほど多くはない。俺としては落ち着いてコーヒーを飲めるのでその方が好ましいのだが。

「今日はこいつの奢りなんだ。涼子さん、おれコロンビアで」

「あらあらそうなの?じゃあ今日は私が奢っちゃおうかしら。聡君は初めて来てくれたんだものね」

「え、えぇまぁそうですが……」

 店主である水沢涼子女史はとんでもないことを言い出した。初対面の俺を名前呼びした上に、ただでコーヒーを飲ませてくれるというのか。客から金を取らず、逆に奢る喫茶店がこの世のどこにある。

「初めて来てくれた人にはね、何かしらのサービスするって決めてるの」

 おや?その笑顔、見覚えがある。いやそれよりもなるほど、いや、まったくなるほどではないのだが、そこは置いておくとして、だとするならば渡樫はコーヒー一杯分の代金が浮くと踏んで俺をこの店に連れてきたのだろうか。抜けている奴かもしれないと思ったが、中々気遣いが光るじゃないか。

「それにうちの子がお世話になってるんでしょ?」

「?」

 何?

「世話んなってるっつーか面倒見てもらってる方が殆ど……」

 うちの子。

 聞き違いか?とても子供がいるような年齢には見えない。しかし渡樫の応対はまるでその水沢涼子女史の娘を知っているかのような応対だ。

「待て渡樫」

 俺は話を止めた。

「何だよ」

「お前は水沢さんの娘さんを知っているのか?」

 それも水沢さんはまるで俺も娘さんのことを当然知っているような口ぶりだ。

「まぁ同じ部活だし」

「同じ部活?同級生、か?」

 一瞬言い淀んでしまったのは、目の前の現実と渡樫が言う事実の折り合いがついていないからだ。同級生の娘がこの水沢さんにいると言うのか。高校生の娘がいるような年ではないぞ。

 いやそうか、つまり何か複雑な家庭の事情があり、きっと水沢さんは実の母親ではないのかもしれない。

「何言ってんだよ。水沢みふゆ、知ってんだろ?」

「何だって?」

 水沢みふゆと言えば我が瀬能学園のアイドルとも言うべき存在だ。瀬能学園の男子は誰でも一度は水沢みふゆに恋をするだとか、とんでもない噂まである。その水沢みふゆの母親がこの人だって?これはいよいよもってフクザツな家庭の事情という訳だな。俺は水沢みふゆを良く知らないが、温厚篤実であるらしいことは聞き及んでいる。まったくもって余計なお世話の下世話様だが、この水沢さんと水沢みふゆの関係は恐らく良好なのだろう。

「何言ってんだよ。水沢みふゆ、知ってんだろ?」

「確かに名前だけは知っている」

 また同じことを二度言う。これはこいつの癖なのか?いやそれよりも何よりも。水沢みふゆは有名人だが、俺は一般人だ。水沢さんの口ぶりのように、水沢みふゆが俺のことを知っているなどということはないはずだ。

「その水沢みふゆの、母です。これでも今年四〇歳になるのよ」

 いや、そうでなく。え、何だって?

 俺は今何か、とんでもない言葉を聞き逃したか?それも何か、どうやら夢であってくれと思いたくなるような言葉だったか。

「渡樫よ、俺の頬を一発張ってみてはくれないか」

「遠慮なく」

 俺が言い終えるや否や、渡樫はかなり強烈なびんたを俺の左頬に炸裂させた。

 もの凄く痛い。

「少しくらい加減したらどうだ」

 左頬がじんじんと痛む。きっと赤く手形がついていることだろう。

「やる前に加減してくれって言えよ」

 間髪入れずにひっぱたいたくせに良く言う。しかしこれで目の前の水沢涼子女史が四〇歳であることも、その水沢涼子女史が水沢みふゆの母親であることも理解はできた。複雑な家庭の事情も何もない訳だ。それは平和で良いことだ。

 しかし、もしも俺の母親が水沢涼子だったのならば断言しても良い、俺は絶対にマザコンになる自信がある。見た目だけで判断するならば、涼子さんは女の子と言っても過言ではない。女の子と母親、それに妻という三面性を何の矛盾もなく持っている女性など中々いるものではない。

「落ち着いた。世にも不思議なこともあるものだ。つまり涼子さんはこんなに若いのに実年齢は俺の親とそう変わらないという訳か」

 俺の母親にも見習ってもらいたいものだ。何をどう見習えば良いのか皆目見当もつかないのが困ったところだが。それにしても頬が痛む。

「そういうこと。ま、おれも最初は驚いたけどさ」

「ふふ、ありがと」

 そうして微笑む姿はまるで女の子だ。なるほどこの店の常連はみな水沢さんが既婚者であることを知っているのだろう。故に水沢さん目当てで客足が増えるなどということはないのかもしれない。

「涼子さん若いよねぇ。で、注文早くしろよ。涼子さんの奢りだぞ。ありがたく頂けよ」

 そうだ。今は客が少ないとはいえ、従業員は水沢さん一人だ。あまり長くこの席に留まらせておいても悪い。

「そうさせてもらう」

 そうして俺は即座にブルーマウンテンを注文した。


 ほどなくして注文したコーヒーが運ばれてきた。芳しい香りを少し楽しんだ後に、俺は一口、ブルーマウンテンを飲む。

「旨い……」

 俺は去年の秋あたりからコーヒーにハマりはじめ、月に一度、きちんとした製法を守っている喫茶店のコーヒーを飲みに行くようになったのだが、これほど上手いブルーマウンテンを飲んだのは久しぶりだった。

「だろ。今日は涼子さんの親切で奢りだけどさ、普通に払ったって四五〇円だぞ」

「安いな」

 大体の店ではブルーマウンテンは七〇〇円から八〇〇円ほどする。半額とまでは行かないが、この味で四五〇円とは正気の沙汰ではない。学割が効くと言う話だが、学生に格安でブルーマウンテンを飲ませても味が判るような高校生は中々いないだろう。俺自身この趣味は大人から見たら生意気な趣味だと思われるだろうことは理解しているし、本物のコーヒー通からしてみれば俺の味覚などまだまだ未熟なはずだ。

「それよりも渡樫、水沢みふゆと同じ部活だと言っていたな」

 流石に母親の前で堂々と呼び捨てる勇気がなかったので、少し声を低くする。

「あぁ、軽音部」

「軽音楽部か。バンドでもやっているのか?」

 だとしたら渡樫はボーカルだろうか。渡樫はロックボーカリスト向きの良い声をしている。

「あぁやってるぜ。今はベースがいなくなっちゃったから活動休止つーか、部内でテキトーに遊んでるだけなんだけどさ」

「部内で?」

 メンバーがいなければライブができないのも道理だ。ライブができないから部室でチョコチョコと音を出して遊んでいるレベルということか。

「おー。バンドが組めてるのは八人なんだけど、女子は女子でもうバンドとして成立しちゃって、おれらはおれらで成立してたんだけど、ベース辞めちったからさ、女子が気ぃ遣ってシャッフルバンドしてくれたりしてんだよね」

「それで世話になっている、ということか」

「まぁな。誰かベース弾ける奴、いねぇかな」

 バンドこそやってはいないが、ベースを弾ける人間ならばお前の目の前にいる。が、言わない。俺はもうベースは、いや、バンドは辞めたんだ。

「いないこともないが、フリーではないし、学外の人間だ」

「……じゃあ駄目だな」

 本当にやりたければ学外の人間でもフリーではない人間でも充分だろう。スタジオ代はかかるが、多くのバンド者は軽音楽部に所属している訳ではないし、普通にスタジオで練習をしている。それをやらないということは、よほどバンドの結束が固いか、それほど真剣に取り組んではいないのか、それとも真剣にやりはしたいが何らかの事情があるかのどれかだろう。どのみち俺には関係のない話だ。

「ちなみに他の男子は誰だ」

 恐らく一人は知っている奴だ。以前何度かは対バンしたことがある。一つ年上の三年生だ。彼は誰かと癒着するような性格ではないと思っていた。

「え、女子じゃなくて?」

「あ、じゃあ女子も」

 要らぬ誤解を生むような発言をするのでそちらも訊いて置くことにした。妙な噂を立てられては叶わない。

「お、お前!」

「辞めろ人聞きの悪い。俺は至ってノーマルだ」

 少し腰を浮かせて声を高くする。他の客が何名かこちらを見る気配があったが、それほど注目されるようなことは言っていない。俺は腰を落ち着かせると、渡樫の言葉を待った。

「ならいいけど……。うちはボーカルに俺。ギターが詠慎ながみしんと三年の藤崎尭矢ふじさきたかや先輩で、ドラムが瀬野口一也せのぐちかずや

 なるほど。詠とは話したことはないが、良い印象は持っていない。何のことだったかさっぱり覚えがないのだが、奴はどうも俺のことを悪く言っていた、つまり陰口を叩いていたことがあったらしい。まともに話したこともないのにだ。しかしイケメンで有名だったこともあり、顔はすぐに思い浮かんだが、まともに話したこともない人間を悪く言うのだからきっとろくな奴ではない。

 俺が軽音楽部員だろうと踏んでいたのは藤崎尭矢だ。彼は俺がバンドをやっていたことを勿論知っている。今も時折話すこともあるが、特別仲が良いという訳ではない。

 瀬野口は確か中学が一緒だったはずだが、クラスは一緒になったことがないので話したことはない。姉にうちの高校の生徒会長を持つ身だ。ベースが抜けた穴は二人いるギターのどちらかがベースを弾けば良いだけの話だ。さして深刻な問題ではないだろう。

「なるほどな。女子は?」

 聞いたところで知らない人間ばかりだろうが、俺のメンツのためにも訊いておくことにした。

「まずはギターボーカルに伊関至春いぜきしはる先輩。三年だな。んで同じく三年の瀬野口早香はやか先輩がドラム。ウチの瀬野口の姉ちゃんだな。そんでお前と同じクラスの関谷香織せきたにかおりがベース。んでキーボードに水沢」

 何と、瀬野口姉弟で軽音楽部所属か。それと関谷香織か。大人しくて何も発言できないような女子だと認識していたがバンドのベーシストだったとは恐れ入った。

 伊関至春という上級生のことは判らない。水沢みふゆのことは言わずもがなだ。去年の文化祭、彼女が出演したステージは大いに盛り上がりを見せていたが、そのバンドに関谷香織はいただろうか。全く覚えがない。

「なるほど。一年はいないんだな」

「いるけどまだバンドって形にはなってないし、外バン組んでるヤツも多い」

 外バン、つまり学外の仲間とバンドを組んでいるということだ。

「だが一年の中には探せばフリーのベーシストだって一人くらいはいるだろう」

 高校生バンドならば二年生も一年生もさして技術力など変わらない。かく言う俺だって別段腕に自信がある訳ではない。それができないとなるとやはり、自分達の中にあまり知らない誰かを入れたくないということなのか。

 いや、そうではないか。先ほど渡樫は誰かいないかと言っていた。新しくメンバーが入ることには抵抗はないのだろう。

「それがだめなんだって」

「何故だ?」

 それこそがメンバーが決まらない理由なのか?

「ベーシスト一人もいねーの。部内でやってる間は関谷にすげぇ世話んなってんだよ」

「なるほどな。……うまい」

 これで四五〇円とは驚きだ。また今度来よう。別のコーヒーも飲んでみたくなった。

 それにしても部員がいてもベーシストがいないとは。これは以前組んでいたバンドのメンバーに聞いた話だが、一九九〇年代後半、バンドブームも去り、しょうもない連中がロックを語り始めた頃、バンドブームの頃とは違い、バンド小僧の殆どがギタリストだったらしい。ベーシストやドラマーはあまりいなくて、きちんとリズム隊の仕事ができるべーシストやドラマーはいくつものバンドを掛け持っていたという。今もそれはさして変わらない。やはりバンド者の中ではギタリストが一番多いし、ドラマーが一番少ない。某巨大掲示板ではベーシストなどはじゃんけんで負けた奴がやるパートとまで書かれていたことがある。

「ただいまぁ」

 そんなことをぼんやりと考えていたら可愛らしい声が店内に響いた。

「お帰り、みふゆ」

「うん、手伝うね」

 ここで水沢みふゆか。水沢みふゆ嬢は颯爽とカウンターテーブルの内側へ入るとペパーミントグリーンのエプロンをさっと身に着けた。セーラー服にエプロンとはなんと映える衣装だろうか。思わず見とれてしまった。

「や、水沢」

 水沢みふゆ嬢がこちらを向いたときに渡樫が気軽そうに手を上げた。

「あ、渡樫君いらっしゃい。あれ新崎君?二人って友達だったの?」

「あぁ」

「違う」

 待て、水沢みふゆ嬢は何故俺の名を知っている。それを言うなら渡樫もそうなのだが、離れたクラスの人間の名前を覚えるのは当たり前のことなのか?

「お前……」

 じろりと渡樫は俺を見たが友達というのは尚早だろう。何しろ俺は渡樫のことは知らなかった訳だし、渡樫にしたって俺とまともに話したのは今日が初めてのはずだ。それなのに友達とはなんと気の早い奴だ。俺は別に何とも思わないが、今日会ったばかりのろくすっぽ中身も知らない人間に友達です、と言っては気分を害する人間もいるだろう。

「というか、水沢は、さんは俺のことを知っているのか?」

 いかんいかん。俺はあまり人に君やさんをつけて呼ぶことに慣れていないので、つい呼び捨てにしてしまった。

「ふふ、知ってるよー。去年尭矢先輩のバンドと対バンしてたじゃない」

「……伏兵」

 まさか水沢が知っていたとは。とんだ伏兵がいたものだ。というか見に来ていたとは全く知らなかった。水沢の言う通り、俺は確かに藤崎尭矢が所属するバンドと同じライブハウスのイベントに出演し、藤崎尭矢のバンドとは対バンした。しかし今そのことを渡樫に知られるのはかなり不本意だ。

「えー!お前バンドやってんの!」

「やってない」

 ほら見ろ。つい先ほどの渡樫の話を巧いこと水に流したと思っていたのに渡樫が色めきだってしまった。どことなくわざとらしさも付きまとっている気がしないでもないが、ともかく渡樫の目は期待に輝いてしまっている。

「や、だって今水沢が……」

「水沢が、さんが見ていた時はやっていた。今はやっていない」

 嘘ではない。事実だ。

「あ、そうなんだ。無理にさん付けしなくていいよ、新崎君」

「む、す、済まない」

 見抜かれたか。しかし寛大な性格だ。学園のアイドルと呼ばれるのも頷ける。可愛い上にこの性格の良さ。彼氏もいるというのに、それでも水沢みふゆの人気はうなぎ登りの天井知らずだ。得てしてアイドルなどという存在はそういうものなのだろう。彼氏がいようが、CGだろうが、実は男の娘だろうが、ファンの連中はそんなことなど関係ないのだろう。

「パートは!」

「ベースだよね。でもそっか、やめちゃったんだね」

「……伏兵」

 隠すためにがっちりコンクリートで固めたはずの壁が、予想外の雨で見る間に溶けて行くようだ。暴露したのが水沢みふゆでなければ乱暴な手段で封じていたかもしれない。本当に、とんだ伏兵だ。

「お前……」

 言いたいことは判りそうなものだが、判ってやる義理はない。逆に言えば、今俺がバンドをしていたことを渡樫に黙っていたことで、きっと新崎はバンドに良い思い出がなくて辞めたのだろうな、気の毒だからそこは触らないでおこう、と思っても良いくらいだ。

 いや、そこまで望むのは贅沢だ。ともかく、それはそれとして、俺のコーヒーは涼子さんが奢ってくれているが、お前が飲んでいるコロンビアは俺が奢ってやるのだ。喝上げから救ってくれた謝礼はこれで充分だろう。

「渡樫、俺はお前に対して何も苦労をしてはいない。だがしかし、水沢のおかげでその苦労が水の泡だ」

 しかしだからと言って水沢に非がある訳ではない。水沢は俺がバンドを辞めていたことは知らなかったのだから、責めようもない事柄だ。

「何言ってんだかさっぱり判んねぇよ」

「だろうな」

 言っている俺も混乱しそうだ。苦労という言葉を使うからまずい。とにかく色々と隠していたことが水の泡だ。いやこの言い回しは何かが違うな。ともかくそう、水の泡なのだ。水泡に帰したという訳だ。

「で!」

「だが断る」

 冗談ではない。俺はもうベースもバンドもやる気はない。あんな思いはもうたくさんだ。

「まだ何も言ってねぇだろ!」

「俺はベースは弾かないし、軽音楽部にも入部はしない」

「何でだよ!」

 まったく。人の話を聞かない男だな。

「お前には本人の意思を尊重する気はないのか?」

「や、だって折角バンドやってたんだったらさ……」

 バンドが楽しいことくらいは俺だって判っている。しかしそれ以上に辛い思いも嫌な思いもすることだってある。それを全てこいつに話す気にはなれない。俺はこいつのことは何も知らないに等しいし、それはこいつも同じだろう。そんな間柄で俺の身の上話を聞かせる気には到底なれない。

「じゃあお前は俺が今すぐ軽音楽部もバンドも辞めろと言ったらそうするか?今お前が言っているのはそういうレベルの話だぞ」

 本人の意思を無視するという点に限っては、だが。

「ちっげぇだろ!何かを始めることと辞めることは全く別の話だ!」

「諦めろ」

 話が通じない相手ではない。きっと渡樫も俺が言わんとしていることの意味は判っているのだろう。だから俺が絞った焦点とは違う焦点に絞って返してくる。しかし俺はそれに応じる気はない。

「何でだよ!好きなモンを辞めさせられるのと、好きでもないものをやらされんのは違う!終わるのと始まるのは絶対的に何かが違う!」

「何かって何だ」

 答えなどないことを判っていながら俺はそこを突く。卑怯な言い方だと自覚はしている。しかし俺は渡樫のために、いや渡樫以外の誰であっても他人のためにバンドをする気になどなれない。

「それは、判んないけどよ」

「俺だってバンドをやっていたから判る。どれほどの労力と時間を消費するかをな」

「てんめぇ」

 渡樫がぎょろりと俺を睨んだ。いくら睨んだところで痛くも痒くもない。それに俺はそれが悪いことだなどとは一言も言っていない。

「浪費だとは一言も言ってない。早とちるな。その時間の消費をお前は俺に無理強いする気か?俺がやる気になっているのならそれも良いだろうが、俺はやりたくないと言っている。そう言う人間に、お前の意志だけを押し通して、無理やり付き合わせてやるバンドがお前は楽しいか?無理矢理人に言うことを聞かせるのが好きか?」

 まずは人の話を聞いて、吟味してから反論しないからこうして足元を掬われる。

「楽器を始めるのも辞めるのも、バンドを組むのも抜けるのも、みんな人それぞれの理由や意思があるんだよ、渡樫君」

 水沢みふゆ嬢もそう言って苦笑した。彼女もバンドをしているということは、バンドの良い面も悪い面も知っているということなのだろう。そして、こいつらのバンドのべーシストが抜けた理由も、知っているのかもしれない。

「……判ったよ。もう言わねぇ」

 思ったよりもあっさりと渡樫は引き下がってくれたが、ここで引き下がらなければ俺は渡樫の評価を変えていただろう。一緒にいて疲れない人間は好きだが、話が通じない人間とは一緒にはいたくない。だが渡樫は俺が言っていることを全く理解していない訳ではないのだ。渡樫だってバンドを続けていれば嫌なことの一つや二つ、発生することは判っている。きっとこいつらのバンドのベーシストが抜けた理由もそこに帰結してくるのではないだろうか。

「判ってくれれば良いんだ」

 俺はそう言うと席を立った。

「水……涼子さん、コーヒーご馳走さまでした。旨かったです。渡樫の分は俺が出します。次は正当な代価を支払って飲みにきます」

「ふふ、ありがと。絶対きてよね」

 にこやかに、実に可愛らしい笑顔で涼子さんはそう言ってくれた。話は恐らく聞こえていただろうが、干渉しないでいてくれたのは有り難かった。

「はい。水沢もまたな」

「うん、今日はきてくれてありがと。またね」

 なるほど、この笑顔は確かにこの二人が親子なのだと思わせる。道理で涼子さんの笑顔を見た時に見覚えがあると思った訳だ。

「あ、おい待てよ、悪かったって」

「別に気分を害した訳じゃない。気にするな。コーヒーは飲んだだろう」

 俺は言って渡樫に笑顔を見せた。別段渡樫は俺に対して失礼なことを言った訳ではないし、事実俺は気分を害した訳でもない。そして俺はこいつのことが嫌いではない。バンドで関わるのは御免蒙るが、たまにはこうしてコーヒーを飲んで話すのも楽しいかもしれない。俺は自分がバンドというものに巻き込まれなければ、バンドの話も音楽の話もするのは好きだ。

「でもよ」

「悪いとでも思っているのか?律儀というかばか正直な奴だな」

 俺は苦笑してそう言った。元来こいつは人が好いのだろう。でなければ同じ学校とはいえ話したこともない人間が喝上げされているからといって助けたりはしない。今回はきっとその人の好さが俺に対しては空回ってしまっただけだ。

「う、うるせぇな」

「他人なんだから意見が違うのは当たり前だ。持っているものも、一本筋を通す理由も違って当たり前だろう」

「だけどさ……」

 自分ばかりが大声を張り上げたから、そう思っているのだ。単純な奴め。俺はそもそもそれほど大声を出したりはしない。だが大声を出さないだけで、言葉に温度はこもっている。だから、俺は今日、渡樫と対等に話せたのではないかとさえ思っている。

「お前は俺に自分の感情をぶつけたと思っているかもしれないが、それは俺だって同じだ。お互い様だし、当たり前だろう」

 お前が俺を友達だ、と言い張るのならば。

「新崎君と渡樫君がこんなに仲良しだったなんて知らなかったよ」

 仲良しとはこそばゆい言葉を使う。しかし、だ。水沢みふゆ。

「まともに話したのは今日が初めてだ」

「えっ!そうなの?」

 そうなのです。

「まともどころか初めて喋っただろ、多分」

 渡樫の言う通りだ。

「そうだな。ま、お前が引け目を感じてるのなら、たまにはこの店にくるのに付き合ってもらおう」

「お、おう、望むところだ」

 俺の言葉に渡樫は照れくさそうに笑った。

 まったく、キモイ奴め。言っておくが俺はノン気だぞ。

「じゃあ二人ともまた来てね」

「はぁい」

 学園のアイドルにだらしのない笑顔で渡樫は答えた。そうか、お前は水沢みふゆ狙いか。彼氏がいようがなんだろうが、そこに突っ走る気概がありそうなのは確かだが、分の悪い賭けになること受け合いだ。

「し、新崎……」

 店を出る時に鳴らしたカウベルの音の後、渡樫は後ろからそう言った。

「何だ?」

「別にもうバンドに無理に誘ったりしねぇからその、何でお前がそんなバンド嫌になったのか、そのうち聞かせろよな」

 確かに今渡樫が好きで夢中になっていることを俺は嫌だと言った。それは渡樫としても気になるところだろう。だが、俺としては楽しくも何ともない話だ。それを渡樫が聞いても同じことだ。

 いや。

 楽しい楽しくないの話ではなく、単純に、何故バンドが嫌になって、楽器まで辞めてしまったのか、その理由を知りたいだけなのだろうな。しかし俺はまだ渡樫のことを良く知らない。どんな理由でそれを知りたがるのか、それが判らなければ話す気にはなれない。

「考えとく」

 それだけ言って俺は歩き出した。

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