おやすみ、ララバイ

yui-yui

序章:驚愕

 二〇一二年九月十日 月曜日


 驚愕きょうがく、という言葉がある。

 読んで字の如く、驚き、愕然とする様だ。


 驚愕して一瞬後、頭の中に浮かんだ言葉は「マジか」だった。

 このご時世に、喝上げなるものに遭遇するとは夢にも思わない。これは一体どうしたものか。貴重な経験と言えば言えなくもないが、どちらかと言えば冗談ではない、という気持ちの方が強い。ちなみに喝上げとは恐喝し金を巻き上げる行為の略語だという説がある。などと悠長に構えている場合ではない。

「やぁ、ちょっとでいんだよね。持ってるだけさ、ね」

 俺を囲んでいるのは総勢四人。三人はそっぽを向いている。いや、何者かの悪意としか思えないビルとビルの間に悪者を溜めこむために作られたような空間に、誰かが入ってこないかどうかを見張っているのだろう。

「生憎だが、金はない」

 暴力を振るわれるのもばかばかしいので俺は早々と財布を出して中身を見せた。中には千円札一枚と、百円玉が三枚。そして五十円玉が一枚に十円玉が八枚。更に五円玉が二枚と一円玉が四枚。〆て一四四四円だ。

「あぁ?シケてんな」

 財布の中身を見て破落戸ごろつきの顔が変わった。ちょっとで良い、持ってるだけ、という注文通りの現実は破落戸のお気に召さなかったようだ。つまりはスカを掴まされたという気持ちなのだろう。冗談ではない。こちとら一四四四円だって貴様らにくれてやる義理はない。ゲームセンターでなら十四回もゲームで遊べる。

「無いものはない」

 まさかちょっとジャンプしてみろだとか言わないだろうか。したとことろであると判るのは小銭だけで、しかもあったとしてもさしたる追加額にはならない。流石にそんなに馬鹿なことは言わないだろう。

「おまえ、ちょっとジャンプしてみろよ」

 驚愕だ。まぁ、こんなことも時にはあろう。本当にジャンプするのはかなり気が退ける。ポケットの裏地を出して見せては駄目だろうか、などと考えていたところで。

「やめろ!何やってんだ!」

 更にこの状況を止めに入る酔狂な輩まで現れる始末だ。蛇足かもしれないが、偉く良い声だ。いや、そうではなく正義の味方は実在するのだ。俺は今日、今、正にそれを学んだ。欲を言えば「待てぇい!」などと言って登場して欲しかったか。

「何だてめぇ」

「うおぉ!」

 良い声の正義の味方は学生服を着ているところを見ると、同年代なのだろう。だが顔には見覚えはない。そいつは俺を囲んでいる四人にダッシュして突っ込んできた。

「うぉあー!早く逃げろ!」

 こいつはかたじけない。何処の何方かは存じ上げぬが、三十六計逃げるに如かず。俺は正義の味方殿が両の腕を広げて見張っていた三人に突っ込んでできた隙間から、すい、と逃げ出した。

「ちっ、てんめえ待てよ!」

 背後でそんな声が聞こえたが、待てと言われて待つばかはない。それに正義の味方殿の厚意を無駄にする訳にはいかないではないか。俺はさっさとその路地から逃げ出した。


 まったく時代遅れな連中もいたものだ。俺の財産一四四四円は無事に守られたものの、正義の味方殿はどうしただろうか。目の前の湯飲みはすでに空になっている。お代わりを頂きたいところだが、それも中々気が退ける。それにしても退屈だ。携帯ゲーム機をバッグから取り出して、ゲームなんぞを始めたら流石に不謹慎だろうか。

「いやー、逃げられた」

 先ほど勢い込んで飛び出して行った若い巡査が戻ってきた。彼の脇には頬を腫らした正義の味方殿。

 あれから俺はすぐに交番に駆け込んで、警察官に助けを求めたのだ。俺の代わりに彼が暴力を振るわれたり、金を取られたりしては流石に可哀想ではないか。俺、新崎聡しんざきあきらは情に厚く義理堅い。決して薄情な人間ではないのだ。

「よぉ、無事か?」

 へへ、と右頬を腫らしたままなにがしは笑った。元気の良い奴だ。中々人好きのする笑顔をしているが、やはりこの顔には見覚えはなかった。制服からして同じ学校なのだろうが、クラスメートの顔もろくすっぽ覚えていない俺だ。同じ学年だという可能性も充分に有り得た。

「あぁ、お前のお陰で助かった。礼を言う」

「お前A組の新崎だろ?こういうこと良くあんのか?」

「何だって?」

 俺の名前を知っているとはやはり同じ学年なのか。しかもクラスまで覚えているとは驚きだ。正義の味方とはもしや学校中の人間の顔と名前が一致しなければ務まらないのかもしれない。

「お前A組の新崎だろ?こういうこと良くあんのか?」

「……二回言った」

 聞こえなくて何だって?と言ったと思ったのか。それにしても一字一句違えずに繰り返すとは中々面白い奴だ。

「言わせたんだろ」

「いや、済まない。こういうことはないな。というか喝上げなんて初めて遭遇した」

 喝上げという行為をしている人間がまだ、この平成の世にいたことの方が驚いた。

「そっか。運がなかったな」

「俺は一銭たりとも金を盗られていない上に一発も殴られてない。あんたのおかげだ」

 という訳で、今日の俺は幸運だったはずだ。おかしなことを言う奴だな。

「はは、そりゃ良かったぜ」

「時に俺を知っているようだが、お前は一体誰だ?」

 そうだ。名前くらいは訊いておこう。この正義の味方のことを何か思い出すかもしれない。

「なにぃ!知らねぇで喋ってたのかよ!失礼な野郎だな!」

「済まない」

 きっとストレートに会話を進められない男なのだろう。別に珍しくも何ともないことだが、今まで自己紹介のタイミングもなかったのだから仕方がなかろう。

「E組の渡樫わたがしだよ!」

 わたがし、か。

「随分と旨そうな名字だな」

 思わずストレートな感想を述べてしまった。そもそもあれは子供が食べるものだ。ここ数年食べてはいない。だがあれが旨いことくらいは覚えている。見かけたところで恐らく買いはしないだろうな。

「綿菓子じゃねぇよ!」

 シャウトで映えそうな、実に良い声音だ。いやそれよりも自分でわたがしだよ、と言っただろうが。それにしてもやはり同じ学年だったか。これは失礼をしたかもしれないが、俺は同じクラスのメンバーの顔でさえろくすっぽ覚えていないのだ。四つも離れたクラスの人間まで覚えておくのは無理があろう。

「そうか、E組か。覚えておく」

「遅ぇわ」

 綿菓子でなければ渡りに樫の木くらいなものだろうな。その渡樫は苦笑しつつもそう言った。

「良し、礼に茶でもご馳走しよう。一四四四円しか持っていないがな」

 二杯の茶くらいならまだおつりがくる。幸いなことに一四四四円は俺の全財産ではない。

「お、まじで!お前良い奴じゃん」

 奢ってくれるから良い奴とは安直な奴だ。騙されて喝上げなんぞに遭わないか心配になってくる。

「という訳で解放してもらえますか」

 頬が少々腫れるくらいの喧嘩では傷害事件にもできまい。それに犯人は逃げたし、証拠はない。そもそもあの手の連中は恐らく常習犯だろう。警察から逃げ果せることなどお茶の子さいさいに違いない。若い巡査も立場的には困ったところだろうが、ここは自ら厄介払いに準じた方が良さそうだ。

「あ、あぁ……。まぁこの辺はああいうの多いから気を付けるんだぞ」

「了解です」

 案の定巡査は俺たちをすぐに開放してくれた。自分が巻き込まれて言うことでもないかもしれないが、面倒なことは避けるに限る。これで傷害事件の参考人になどされてしまってはいつまでたっても部屋に帰れなくなってしまう。

「はぁー、タイマンだったら何とかなったのになぁ」

 交番を出た途端に渡樫がぼやいた。まぁ確かに四対一では分が悪かろう。一対一でも何とかなったかは聞かないでおいてやる。ちなみに俺なら勝てた。更にちなみに四対一では俺も負ける。だから一四四四円を払うつもりでいたのだ。

「三人寄れば文殊の知恵と言うからな」

 人が集まればいつもより強くなれるとか、いやこれは意味が違うか。

「なんか違くねぇか、それ」

「……違うな」

 意外とばかではないらしい。

「お前、いつも仏頂面で難しい奴かと思ってたけど、中々面白い奴なんだな」

 仏頂面。

 初めて言われた言葉だが、確かにあまりべらべらと喋る方ではない上に、いつもにこやかにしている訳でもない。どちらかと言えば愛想は悪いし、俺という人間に面白みなどあろうはずもない。

「お前は今日初めて知ったが、中々面白い奴だな」

「そいつぁどーも」

 あまり細かいことを気にしない性格なのだろう。一緒にいて疲れないのは実に良いことだ。俺は友達と呼べるような仲の人間がここ数年いないので、久しくこんな感覚を忘れていた。

「ファミリーレストランかファストフード店でいいか」

 実は俺はコーヒーを嗜む趣味が最近できた。缶コーヒーでもなければ、そこいらの安いコーヒーでもない。きちんとした製法を守っている喫茶店を巡るのは最近の趣味だ。

「行き付けの喫茶店があるんだけどさ、そこ行かないか?」

「お高くないだろうな。全財産は一四四四円だぞ」

 喫茶店は避けようかと思っていたところだ。全財産とは嘘をついたが、そこまで贅沢にご馳走しなくても良いだろう。むしろ許してくれ。

「二杯飲んでギリかもな」

「お高いな。そんな上等な喫茶店に行っているのか」

 高校生の分際でナマイキな。いや、実際はお高くなどない。都心の方に行けば、湯飲みのような小さなカップで一五〇〇円も取る喫茶店がある。

「値段は冗談だよ。ま、いい店だから行こうぜ」

 渡樫はそう言って二歩ほど俺の前に出た。

「そういやお前、中学はどこだったんだ?」

 まるで高校一年生になりたてのような会話だ。俺たちはもう二年生だ。二年生になり既に半年以上が過ぎている。来月末には中間試験のことで頭を悩まされる頃だ。余り考えたくないので、そのまま渡樫の言葉を返すことにした。

鷹野たかの中だ。うちの高校は大体そのまま瀬能せのうだった連中か、公立なら鷹野か前谷まえやか北中か南中だろう」

 この街には俺が通う私立の瀬能学園と、公立の七本槍ななほんやり高校がある。そして中学校は今俺が挙げた鷹野中学校、前谷中学校、北中学校、南中学校と四校の公立中学校に、瀬能学園中等部がある。瀬能学園は幼稚園から大学院までの一貫教育の学校で、幼稚園のいわゆるお受験にさえ受かってしまえば後は楽々大学生にまでなれる。中等部も高等部も一般受験を受け付けているため、中等部、高等部、とかなり生徒数が増えるようになっているそうだ。

「ま、そうだな。そういうお前は?」

「俺はずっと瀬能。小学校からだ」

 なるほど。だとすると瀬能学園の大ベテランということだな。聞いた話では瀬能学園は高等部から他の大学へと進む生徒も多いらしく、経営陣もかなり色々と頑張っているらしい。数年前から積極的にバリアフリー環境を取り入れたり、大きな学食などを造り、今風のキャンパスライフ演出に余念がないと聞く。

「ほう。じゃあ学内じゃ顔は広いんだな。道理で俺のことも知っている訳だ」

「まぁ高校んなると一気に知らない顔が増えるだろ。だからまぁ知らない顔だった奴の方が記憶に新しくて覚えてるっていうのはあるな」

「なるほどなぁ。一理有りそうな気はする」

 案外能天気なだけではないらしいな。田舎町の理屈だ。見慣れた顔以外の顔が入れば逆に目立って覚えられてしまうということだ。

「実体験だって」

「まぁそうだろうな」

 俺は一つ頷く。

「鷹野ならあんま駅周り知らなくても仕方ないか」

 頷いた途端に渡樫は唐突にそんなことを言い出した。こいつの話は腰が折れれば折れた方向へ進み、いきなりとんでもない場所へと移動することもあるようだ。一体お前の話の主題とは何だ、と問いたくなる。

「何のことだ?」

「あぁ、喫茶店。商店街あんじゃん、駅周り」

「北口と南口、両方にあるだろう」

 北口にはライブバー、南口に大きめの楽器店兼リハーサルスタジオがあるのを知っている程度だ。

「そうだけど、これから行く喫茶店は南口」

「有名な店なのか」

 なるほど、それで出身中学の話だったという訳か。確かに鷹野中出身の人間は、七本槍商店街にはあまり足は運ばないだろう。俺は個人的に何度も足は運んでいるが、それでも喫茶店の噂など聞いたことはなかった。

「ある意味って感じだから知らなくても無理はないな」

「ほう」

 どういう意味で有名なのか少し興味が湧いたが、行けば判るかもしれない。判らなければ後で渡樫に訊けば良いだけの話だ。

「ま、何飲んでも食っても旨いから安心しろ」

「期待はできそうだな」

 以外と旨いコーヒーに巡り会えることも有るかもしれないな。何しろ今日の俺はついている。

「まぁな!」

 俺の言葉ににこ、と笑顔になって渡樫は言った。

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