この道
増田朋美
この道
その日も寒い日だった。この時期だから、仕方ないことでもあるのだが、とにかく風が冷たくて寒い。
その日も、山路鮎子は、こたつの中で寝そべっていた。なぜか知らないけど、こたつの中にずっといた。もう疲れてしまってかったるくて何もやる気がしない。冬休みの宿題も溜まっていることはわかるが、疲れてしまってやる気にならない。
「何をしているの?こたつの中にずっと寝そべって。」
母も最近は彼女のことを叱るどころか、心配している様子だった。
「朝起きてから、ずっとこたつの中にいるじゃない。何か具合でも悪いの?」
「知らないわ。」
鮎子本人は、そのようなことしか言えなかった。
「宿題もやらないでどうしたの?」
「知らないわ。」
何度言ってもこの言葉しか出さない鮎子に、母は、心配になってしまったようだ。
「ちょっと病院にいってみようか。どこか具合が悪いのかもしれないから。悪いようにはしないわよ。」
母の提案により、鮎子は、総合病院に行くことになった。総合病院は、内科、外科ばかりではなく、泌尿科とか、精神科とか、様々な科があった。鮎子はとりあえず、血液検査をしてもらったが、検査では異常はなかった。医者は、鮎子に精神科にかかるようにといった。母と一緒に鮎子は、精神科と書かれているフロアに行った。
他の科では、結構医者が怒鳴ったり、看護師が態度が大きい人もいたが、精神科のフロアでは、オルゴールが鳴ったりして、とても静かだった。患者の数は多くなかったので、さほど長時間待たないでも済んだ。
「山路鮎子さん、おはいりください。」
看護師に言われて鮎子は、すぐに診察室へ入った。影浦とかいう、50前後の医師に、いくつか質問をされて、鮎子は、言われたとおりにこたえると、
「うつ病ですね。」
と、影浦先生はいった。
「それはどういうことでしょうか?」
鮎子が、聞くと
「気分が極端に落ち込みすぎてしまう症状が、繰り返されてしまう病気です。でも、きちんと治療をすれば、数年で治りますよ。」
と、影浦先生は言った。
「数年もかかるんですか?」
「残念ながら、療養は長丁場です。精神疾患というのはみんなそうです。何十年かかってしまう例もあります。」
影浦先生に言われて、鮎子は落胆した。なんでそんなこと、これから高校受験にむけて、頑張れと言われていたところだったのに。
「何か、病気にかかったきっかけはあるのでしょうか?この子は学校で問題を起こしたわけでもないし、学校から呼び出されたこともありません。全く普通の子です。それなのにどうして。」
母が、驚いた様子でそういうのであるが、
「いえ、学校や家庭で問題はなかったとしても、うつ病にかかる例はあります。幸せそうにみえても、心のうちでは大問題を抱えている人はたくさんいますよね。それに、うつ病は、ありふれた病気なので、あまり悲観しなくても良いです。薬をだしますから、飲んでみてください。副作用がきついなど、つらいことがありましたら、お気軽に連絡をくださいね。」
影浦先生はにこやかにいった。そして、処方箋をかき、看護師に渡した。
「それでは、2週間したら、来てください。」
「わかりました、ありがとうございます。」
鮎子も母も、驚きを隠せない様子で、診察室をでていった。その後も、鮎子は会計のため、病院で待たなければならなかったが、なんだか、えらく絶望的な気分になった。なんで自分が、こんな目に会わなければならないんだろうか。寄りに寄って、なんで私だけ療養しなければ、ならないのだろう。私だって、みんなと、同じように高校へ行こうと思ってたのに。でも、鮎子は、そんな気持ちになったのはほんの一瞬で、もうつかれはててしまって、何もしたくないというのが本音だった。とにかく、何もしたくない。ただ横になって、やすみたい。鮎子の頭の中には、それだけが渦巻いていた。
もう疲れ果ててしまって、鮎子は、会計を待っているのも大変だったほどだ。
会計を待ちながら鮎子がウトウトしていると、病院の別の部屋から、一人のよく太った女性と、標準体型の女性があらわれた。太った女性が誰かを背負っている。背負っているのは人で、しかも男性だった。でも、小柄な人で、鮎子より身長は低いと思われた。何よりも不思議なのは、彼が、紺色に、大きな紅葉をいれた着物をきていたことだ。どうも今どきにしてみれば珍しい服装だ。今どき着物を着るなんてあり得る話だろうか。太った女性の背中に乗っている人は、そこだけ異様なところがあったが、それを除けばかなりの美男子だ。
「ふーん、結構良い顔してるじゃん。」
鮎子はその人を見つめた。
「あの、すみませんが、その座席を譲っていただけないでしょうか。」
いきなり、太った女性にそう言われて鮎子は、びっくりした。
「ちょっと彼を横にならせてあげたいものですから。」
「は、は、はあ。わかりました。」
鮎子が急いでその椅子から立ち上がると、
「ごめんなさいね、他に、横にならせて上げる場所がなくて。」
と、もうひとりの女性が、鮎子に言った。そして、太った女性が、その男性を、長椅子の上に寝かせてあげた。
「眠ってる、んですか?」
鮎子が思わずいうと、
「ええ。今点滴してもらって、やっと楽になってくれたのよ。危ないところだったわ。ここで見てもらえないって受付に言われたから、それなら、床柱でもぶっ壊してやるって言おうと思ったわ。」
と、太った女性が言った。
「そうなんですか。じゃあ、この人は、重い病気で?」
鮎子がまたいうと、
「ええ。まあ、そうなるのかな。最も、今だったら、平気で治ってしまうと思うけど、でも、それは、恵まれた人だけ。それを、できない人もいるから、できることに感謝しなくちゃね。」
と、太った女性が言った。
「市子さん、そういう事は言わなくて良いのよ。そういう事は、理解できる人でなければ、わからないって、理事長さんも言ってたじゃないの。よほど福祉に詳しい人か、慈悲心のある人でない限り、だめだって。だから、むやみに人に言わないほうが良いのよ。」
標準体型の女性が太った女性に言ったため、太った女性が市子さんという女性であることがわかった。その発言をした女性は、岳南鉄道の駅員の制服を着て、駅員坊を被っているので、今西由紀子とわかる。
「あら、由紀子さん良いじゃないの。こういう事は、口にしたほうが、より理解を得られるというものよ。人種差別とか、そういうものは、ちゃんと話さないとわかってくれないことが多いわ。」
市子さんと言われた女性は、そういうことを言った。
「磯野水穂さん。」
と、受付係がぶっきらぼうに名前を呼んだ。その言い方がとても嫌そうな言い方だったので、なるほどと鮎子は思った。そういう言い方をされるのであれば、なにか社会的に不利である男性に間違いなかった。眠っている男性は、磯野水穂さんということもわかる。由紀子さんと呼ばれた標準体型の女性が、受付と話をしている間、市子さんと呼ばれた女性は、じっと、水穂さんのことを見つめていた。
「山路鮎子さん。」
と、彼女を呼ぶ受付の声がした。このときは母が受付でお金を払ったので、鮎子は、市子さんと水穂さんを眺めていた。それにしても、着物を着ている水穂さんは、本当に、きれいな人でもあった。ずっと見つめていたいくらい、きれいな男性である。
「鮎子、帰るわよ。」
母に言われて、鮎子は、座席を立ち上がった。それと同時に、由紀子さんが、薬をもらって戻ってきた。市子さんが、水穂さんをまた背負った。鮎子は、もしよければお送りしましょうか、といいたかったが、市子さんたちは、もうタクシーを予約してしまっているらしく、タクシー乗り場に歩いて行ってしまった。
「再来週に、また病院行きますからね。その時は薬が効いて少しだけでも、楽になってくれるといいわね。」
と、母が言った。とりあえず、中学校には話しておいておくからねと母が言ってくれた。それはちょっと、悲しいことではあるけれど、鮎子は、あのきれいな水穂さんに会えるということで、嬉しく思った。
二週間は、あっという間だった。病気を持っていても、何をしていても、時間のたつのは速いものなのだ。鮎子はその間、勉強もしないで、学校にも行かないで過ごした。あの様に気持が盛り上がったのは、一瞬のことで、家に帰ればまたいつもと同じ様にやる気が出ない女性に戻ってしまうのだった。それが病気の症状であるから、そうなってしまうのであるが、誰も、彼女を責めたりすることはなかった。しばらく、環境を変えて休めばいいとでも思ったのだろうか。
ところが、二週間過ぎても鮎子がこたつの中で寝そべったままなので、母は、鮎子を、変な顔で見るようになった。二週間休養すれば、鮎子も戻ってくれるとしか考えていなかったらしい。それでも鮎子が何もやる気がしなくて、疲れてしまった顔をしているのを見て、母が、こんなことをいい出した。
「この後どうする?」
母に言われて鮎子は困ってしまった。鬱になると、将来のことも考えられなくなるほど、つらい気持ちが続いてしまうのである。
「この後って、何?」
鮎子はオウム返しに聞き返す。
「決まってるじゃないの。高校の受験のことよ。二週間も学校休んだんだから、早く勉強の遅れを取り戻さなければ。もしよければ、進学塾でも行こうか?もう二週間たって、薬だって効いてきているんじゃないの?」
「そんな急かさないでよ。あたしはまだ良くなって無いわよ。もう疲れてしまって、学校なんか行くだけでも疲れてしまうわ。」
鮎子は母にそう言い返した。
「でも、高校には行かないと、将来が全部ためになるわ。学歴がなくて苦労するよりも、学校へ行って、少しでも楽に生きられるようになれば、そのほうがいいじゃないの。人間誰でも楽に生きたいって望んでいるでしょ。それをするためには、学歴を作らなければだめよ。」
鮎子は、そう言われても、その様なことを考えられる様な気分ではなかった。それよりも鮎子がしてほしいことは、このつらい気持ちから開放されて、自由になりたいということであった。
「そんな事、どうでもいいわ。あたしは、それより、この辛い気持ちを取って、楽になりたいのよ。」
と鮎子は母に正直な気持ちを言うと、
「まだそういうことを言っているの?だって薬を飲めば楽になれるってお医者さんも言っていたじゃないの。それが終わったんだから、もういいじゃないの?」
母は、そういうことを言うのだった。
「とても、そんなことができる気分じゃないわ。」
鮎子がそう言うと、
「もう15歳なのよ。ちゃんとやることを、しっかりやって、お母さんたちから離れることを考えなくちゃ。そんなときに、そんなことができる気分じゃないって事を言わないで頂戴。鮎子だっていずれは一人になるんだし。それをちゃんと考えて将来のことをちゃんと決めなきゃ。」
母は、大人らしく言った。それでも鮎子は、その様なことを考えられるような気分ではなかった。
「将来の事はまた後で言うわ。あたしは今、疲れてしまって大変なの。とても将来のことを考えられるような事はできないわ。お母さん、もうちょっとまって。」
鮎子は、そう言うしかできなかった。日本では、この様な事で学校に行くのがストップした時点でその時点で負けである。それがもう一度やり直そうとか、そういう事は二度とできない。犯罪者では無いけれど、学校で失敗すれば、社会には二度と帰れないのである。
鮎子は重い体を動かして、こたつから出て、自分の部屋へ戻り、布団に寝転がった。鮎子は横になれば少しは楽なのだ。
その翌日、鮎子はまた母に連れられて病院に行った。そのときも、影浦先生にあって、体の具合とか、どんな気分なのかを聞かれた。相変わらず、何もできないで、何もやる気がしないということを述べると、影浦先生は、鮎子の言い方や、態度を見て、別の病気を疑ったらしい。影浦先生は、鮎子の顔を見て、カルテになにか書き込み、
「じゃあ、こちらの薬を使ってみますか。どうも抗うつ薬では、あまり効き目が無かったようですね。じゃあ、こちらの薬を試してみてください。そして、二週間後に、また、教えて下さい。」
とにこやかに笑って言った。
「良くなったのでは無いのですか?」
母が聞くと、
「これは本人にはなかなか言えないのですが、鮎子さんは、暴れる可能性は少ないので、お話しますけど、別の病気が隠れている可能性があるんです。だから、抗精神病薬を使ってみて、それで、効果が得られるかどうか、見てみたいのです。」
と、影浦先生は答えた。
「そうですか。それはどんな薬なんでしょうか?」
鮎子が思わず聞くと、
「ええ、別名を強力精神安定剤という、一群の精神安定剤です。それを飲めば強い不安や、恐怖心が和らぐことができます。鮎子さんは、このつらい気持ちを取ってもらいたいというので、はじめは抗うつ薬で試してみましたが、そうではなかったので、次は、抗精神病薬を使って見ようと言うわけです。」
と、影浦先生は言った。
「どうして、二週間でもう治ったのでは無いのですか?」
母がそう言うと、
「ええ、二週間なんてありえない話ですよ。短くても数年、長い人では一生かかってしまう可能性もあります。それに、こういう病気は、本人の証言以外に症状を把握することができませんから、こちらの医療従事者も、手探りでやるしかありませんよ。だって、画像で腫瘍などを把握することができるわけじゃないですから。それは仕方ないことです。どうか、ご理解ください。」
と、影浦先生は言った。
「じゃあ、高校進学は、、、。」
「いえ、それは無理なことです。まずは、療養することに専念してください。高校受験を希望されるのであれば、通信制の高校に行かれるとか、そういうふうに工夫をしなければなりません。もう普通の人という生き方は捨てたほうがいい。本当に辛いこともあると思いますけど、そうしなければ鮎子さんの辛い症状は、続いてしまうと思います。」
母はわっと涙をこぼした。
「でもね、普通の人生から切り離されることは、決して悪いことじゃないです。だってそれで普通に生きることの幸せを伝えることができるじゃないですか。今の人達は、恵まれすぎていますからね。それは、誰のおかげなのか、警告することができるはずですよ。だから今は耐えることです。辛い症状もあるかもしれないけど、いつかきっとまた晴れる日が来るって信じてください。そういう気持ちになって、生きてください。」
影浦先生にそう言われて、母も、鮎子も落胆の表情を見せた。
「大丈夫ですよ。いつかどこかで、帳尻を合わせることはできますから。時間が解決してくれることもあるかもしれない。大事なことは絶望しすぎず、命まで落とさないことです。」
「先生、今のままで高校受験したらどうなりますか?」
鮎子は恐る恐る言った。
「ええ、まずはじめに、鮎子さんの状態では、高校受験というストレスに耐えられない状態であることを申し上げておきます。そのまま強いストレスにさらされていたら、鮎子さんは、更に精神的に追い詰められることになり、自分はこの様な辛い思いをしたくないという自己防衛の法則から、妄想を口にしたり、幻聴が聞こえてきたりするなどの、症状が更に出るでしょう。そうなりますと、幻聴に命じられて、事件を起こしてしまう可能性もあります。そうなる前に、ちゃんと療養して、休むことが必要なんです。」
と、影浦先生は、できるだけ優しく言った。それは優しく言ってくれているけれど、とても強烈なセリフであることに、鮎子は気がついていた。
「そうですか。事件を起こしたりするようになっては、困りますよね。あたし、完全にいらない人になってしまったんですね。」
鮎子は、小さい声で、影浦先生に言った。
「でも、今はそうかも知れませんが、それ以外の時間では、また社会に戻れるかもしれません。やり方を変えれば社会に馴染める可能性もあります。だから、落ち込まないでください。それしか、医療従事者は言うことができません。」
影浦先生は、鮎子にそういうことを言った。
「まあ、落ち込むことはなく、そんな時代もあるんだなくらいの軽い気持ちで生きることが何よりも大事です。じゃあ、抗精神病薬を出しておきますから、それを使ってみて、また様子を見ましょう。」
「はい、、、わかりました。」
鮎子は、小さな声で言った。それで今日の診察はお開きになった。鮎子は、母と一緒に診察室を出た。鮎子が、お会計を待つため、また待合室に座っていると、
「ありがとうございました。」
と、先日聞いた声と同じ声が聞こえてきた。鮎子が、声がしたほうを見ると、市子さんが、水穂さんを背負って、診察室から出てきた。その時は、由紀子さんの姿はなかった。市子さんは、また会計を待つために待合室にやってきて、
「あのすみません。水穂さんをここで寝かせていただけないでしょうか?」
と、鮎子に声をかけた。
「ええ、大丈夫です。またこの前と同じ様に、水穂さんを寝かせてやってください。」
鮎子は、急いで椅子から立ち上がると、市子さんは眠っている水穂さんを、長椅子の上に寝かせた。
「大変ですね。わざわざ背負って、こちらに来られるなんて。」
鮎子は、市子さんに言った。
「いえいえ私は、こう見えても、相撲取りですから、力持ちであることは、間違いないんです。介護というか、水穂さんの世話をするには、力持ちでなければなりません。だから、本場所でも無い限り、お手伝いしてます。」
と、市子さんはにこやかに言った。
「そうなんですか。つまり、女相撲に出てたんだ。そんな力士がどうして水穂さんの世話をしているんですか。誰か専門家を雇えばそれでいいはずなのに。」
と、鮎子が言うと、
「はい。水穂さんは、そういうことができるお金が無いし、そういうことができる社会的身分でもないから、私が手伝ってあげるんです。」
市子さんはにこやかに答えた。
「そうか、社会的身分が無いんですか。」
鮎子は少し考え込む。その様な人が今でも居るんだろうか。その様なことが今でもあるのか、もう昔の話ではないのと言おうと思ったとき、
「この銘仙の着物が何よりの証拠よ。」
市子さんは小さな声で言った。
「鮎子、帰るわよ。」
と、母が鮎子に声をかけてきた。鮎子は、わかったわと言って、その場をあとにした。
この道 増田朋美 @masubuchi4996
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