Crazy Doctor

 研究所は山の麓にあった。二階建ての頑丈そうな建物で、窓は厚いカーテンで覆われていた。公民館のようなその建物は入り口が両開きのガラス扉だった。木で出来た看板がどーんと大きく扉の上に掲げてあった。

 

 『日本科学技術研究所○○出張所』筆文字で書かれた横書きの看板だった。しかし真新しい、まるで歴史を感じさせない看板だ。


「名前だけはご立派だがやってる事は暇つぶしみたいな研究ばっかりだ。変な爺さんだが一応科学者だし何か分かるだろう」


 お巡りさんは僕らにそう話していた。


 玄関から入ると床はタイル張りで正面に階段、左右に廊下が伸びていた。お巡りさんは右に曲がって奥に進んだ。


「こんにちは、お忙しいところ申し訳ありません。いつもお世話になっております」


 お巡りさんは鉄扉を開けながら言った。どうして大人というのはこうも裏表があるんだろう。僕はそんな疑問を持ちつつも黙って後ろについて入った。先ほどお巡りさんが言っていた通りの変な爺さんが何かの装置を弄りながらこちらを見た。


「おお、君か。またおかしな物を持ってきたんじゃないだろうね?」


「いやぁ、今回は博士の好奇心をくすぐるような不思議な物をお持ちしました。お忙しいとは存じますがぜひご覧下さい」


 お巡りさんの慇懃無礼さが鼻に付く。しかし博士はその言葉をそのまま受け取っている。ちょうど良いコンビだ。


「ほう、どれだね?」


 博士は分厚い眼鏡のつるを指で挟んでこちらをじっと見た。「ただの黒猫のようだが」


 博士は僕が抱いていた黒猫を見ながらそう言った。そりゃそうだ、これは黒猫だ。ただの黒猫かどうかは分からないが。


「いえいえ、まぁそちらも関係なくはないんですが、見て頂きたいのはこちらの方で」


 お巡りさんはおじさんの持っている糸の塊を手のひらで指した。


「ん? ボールではないのか? 何か一本糸が伸びておるな」


 博士はちょっと近づきながら糸の塊を見た。


「実はこの塊なんですが、その猫のお尻から出てるんです」


 お巡りさんが言うと博士は馬鹿にしたように、


「何を言っておるんだ。バスケットボールくらいあるこの塊を猫が出せるわけないじゃろうが」


 と言って笑った。


「そうなんです。実際には猫のお尻から糸が出てきているんです。それがこんな量に」


 お巡りさんが塊を博士に持たせた。


「思ったより軽いな。と言うかほとんど質量は感じられん。こいつが猫に繋がっているのじゃな?」


 博士は塊から伸びた一本の糸を辿った。その糸は間違いなく猫の肛門から出てきていた。


「糸を切ろうと思ったんですが、ハサミでも切れず、ライターでも焼き切れず、引きちぎろうとするといくらでも伸びるんですよ」


 おじさんが困ったように言う。


「それで猫と一緒に持ってきたのか。しかし困ったな。これを分析しろと言われても」


 博士が困ったのはこの黒猫である。この糸が何なのか分析してみたいのはやまやまだが黒猫とセットではいろいろと支障が生じる。この研究所は出張所なのでそれほど専門的な機器は取り揃えられていない。そのため分析は別の機関に依頼することになるのである。おとなしそうな猫だがさすがに色んな場所をたらい回しにされてはストレスも溜まるだろう。そのうち暴れだすかもしれない。


「まぁええ。確かにこの糸が何なのか興味はあるからな。坊主、その猫をこっちに貸しなさい」


 博士は僕にそう言った。なんとなく嫌な予感がしたので聞いてみる。


「いいけど、この猫をどうしようって言うの?」


「なぁに、ちょっと解剖してみるのさ。お腹の中がどうなっているのか調べてみれば何か分かるかもしれん」


「え? 解剖ってそんな事したらこの猫死んじゃうんじゃないの?」


 僕は恐る恐る言った。博士はその言葉を聞いて大声で笑い始めた。


「がははははっ、坊主。そりゃ猫は死ぬさ。それしか方法がないんだからしょうがないじゃろ?」


 僕はびっくりして猫を引っ込めた。黒猫も急に博士が大きな声で笑い出したので驚いたような顔をしている。


「駄目だよ! そんな方法しかないんなら任せられないよ」


「聞き分けのない坊主だな。おいお前、猫を取り上げろ!」


 博士はお巡りさんに命じた。


「いや、いくらなんでもそんな……」


 お巡りさんは戸惑っている。


「何を言うか! お前がお願いしに来たんじゃろうが。さっさとせんか!」


 博士が大声を出すと、お巡りさんはすっと冷静になって博士の頭をコツンと軽く叩いた。


「こっちを調べるのが先でしょう」


 お巡りさんは再び糸の塊を博士に手渡した。


「おお、いかんいかん。うっかりマッドサイエンティストになるところじゃったわい」


 博士は顔を左右に振って正気に返った。「坊主、すまんすまん。ほんのジョークじゃ」


 先ほどの血走った目は本気だった。しかし今の博士は最初に見たただの変な爺さんだ。僕はほっとしながらも警戒を解かずに猫を小脇に抱えたまま博士の動向を窺った。


「おいおい、この爺さんジキルとハイドみたいだな」


 おじさんは一部始終を見てそう言った。


「いやいや、そんな良いもんじゃないですよ」


 お巡りさんがフォロー(?)する。


 博士は糸の塊をしげしげと見つめながら机の上でコロコロ転がしたり持ち上げたり手毬のようについてみたりした。もちろんそんな事で糸の正体が分かるはずもない。段々イライラしてきたお巡りさんが咳払いをする。博士は糸の玉をぐっと押さえてみた。


「む? こいつはまだまだ圧縮できそうじゃな。大きな力を加えればもっと小さく出来そうじゃ」


「そうなんですか? もともとこれは空き地一杯に腰の高さまで積もってた糸の束なんです」


 お巡りさんはその状況を思い返しながら博士に言った。


「なんじゃと? そんな体積があった糸の束がこれほど小さな塊になったというのか!?」


 博士は目を見開いて再び糸の塊を見た。「いくらでも膨らみ、いくらでも縮む……なんとも不思議な物質じゃな」


「ただ、糸としての使い道は皆無です。引っ張れば引っ張るだけ伸びてしまいますので」


「うむ、イメージとしては納豆の糸のような感じじゃな」


 博士は急に僕の抱いている猫を見た。「坊主、その猫を見せてくれ。いや、もう解剖とか言わんから」


 僕はちょっと警戒しつつ、猫を差し出した。手は離さず猫の両脇を支えている。変な動きをしたらすぐに奪い返せるように準備する。


「ふむ、顔の方には糸は出てきていないようじゃな」


 博士はまじまじと猫の顔を見た。目、鼻、口、耳のどこからもお尻から出ているような糸は出てきていない。あまりに博士がまじまじと見るので猫の方は不愉快そうに顔を横に向けた。用が済んだようなので僕は猫を再び元のように抱きかかえた。


「やはりその黒猫の体の中に糸の根源があるという事じゃな」


 博士が結論に達したように言う。「今、体外に出てきておる糸は猫の体内の根源からどんどん伸びてこの塊になっておる」


「と言う事は今までどおり引っ張り続ければ体内から全部出せると言う事でしょうか?」


 お巡りさんが訪ねる。しかし博士は首を横に振った。


「いや、それは無理じゃろう。おそらく根源部分は全く減っていないはずだ。はみ出た部分が納豆の糸のように伸びているだけじゃからな」


 結局また振り出しに戻ってしまった。いやゴールを目指して引っ張り続けるという行為さえ封じられた今となっては事態はさらに悪くなったと言わざるを得ない。


「それじゃ、どうすればいいんですか!」


 黙って聞いていたおじさんがついに痺れを切らして言った。「引っ張ってもダメ、切ろうとしてもダメ。お手上げじゃないですか!」


「落ち着きたまえ。わしはすでに解決方法を思いついておる」

 博士はにやりと笑って言った。いったいどうやって解決すると言うんだろう?


「本当ですか? また猫を解剖するとか言ったらぶっ飛ばしますよ?」


 お巡りさんは先ほどの突っ込みからちょっと乱暴になっている。先ほどまでの慇懃だった態度が嘘のようだ。


「まぁそれが一番……、いや待て拳を下ろさんか! 要は外の部分をどうするかと言う話じゃ」


 博士はお巡りさんが振り上げた拳を制しながら話を続けた。「つまりこの糸の塊を限界まで圧縮して猫の体内に戻すのじゃよ」


 なるほど、体内に根源があるならばそこまで押し込めば全て元通りという事である。しかし黒猫が素直に異物を体内に納めるだろうか。今バスケットボールほどもあるこの糸の塊が果たしてどのくらい小さくなるというのだろう。せめてどんぐりくらいの大きさにならなければ……。


「この糸束は一旦縮んだら膨らんでこない。なので綿などと違って元に戻る心配はない」


 博士はそう言いながらなにやら取り出した。「なので布団圧縮機で十分じゃ。あとは衣類用の圧縮袋を使えば……」


「なんで研究所に布団圧縮機なんて置いてあるんです?」


 お巡りさんはいぶかしげに布団圧縮機を見た。


「ん? 結構使い道はあるもんじゃよ。こないだ通販で買ったばかりの代物じゃ」


 博士は得意満面にその装置をポンポンと叩いた。「さぁ、やってみよう」


 糸の塊を圧縮袋に入れて装置のスイッチを押す。徐々に中の空気が抜けてみるみるうちに塊は小さくなっていった。


「おお! 良い感じですね。かなり縮まってきましたよ!」


 おじさんが興奮して見ている。黒猫はモーター音を嫌がって手足をばたばたと動かして逃げようとした。僕は安心させるためにちょっと装置から離れた。


「それ、随分と小さくなったぞ。ピンポン玉くらいじゃ」


 博士はさらに圧縮を加え、ついには直径一cmほどの小さな塊となった。「さて、これを黒猫に戻そう」


 圧縮袋を開封したが、予想通り塊は膨らんだりせずそのままの大きさを保っている。博士はそれをピンセットでつまみ、僕の方を見た。僕は机の上に黒猫を置いて動かないように押さえた。


「大丈夫だよ、元に戻すだけだからね」


 僕は怖がらせないように黒猫に声を掛けた。黒猫はおとなしくしている。博士はそっと黒猫の背後に近づいた。


「よしよし、おとなしくしておるのじゃぞ」


 博士は黒猫の肛門に糸の塊を押し込もうとした。


「ぎゃーーっ!!」


 黒猫はもの凄い声を出して抵抗した。暴れまわったせいで僕はびっくりして手を離してしまった。


「あっ! 逃げちゃ駄目だよ」


 僕は声を掛けたが黒猫は今までのおとなしさが嘘のように俊敏に、脱兎のごとく逃げ出した。逃げている黒猫のお尻からは糸がずっと伸びている。博士のピンセットに摘まれた玉から黒猫まで繋がった糸はどんどん長くなっていく。


 幸い、部屋の窓も扉も閉まっていたので外に出る事はなかった。しかし壁際のガラス棚の上に飛び乗って黒猫はこちらを威嚇し始めた。毛を逆立てて背中を丸めて、


「フーーッ!」


 と敵意をむき出しにしている。


「ごめんよ、もう無茶な事はしないから降りておいで」


 僕は優しく声を掛ける。しかし黒猫は落ち着く様子を見せない。


「困ったな、このままあちこちに逃げ回られるとそのたびにまた糸が伸びていく」


 おじさんがおろおろしながら間を取る。「これ以上刺激しないように気を付けないと」


「参ったぞ、せっかくここまで上手くいってたのに」


 お巡りさんも弱った様子で見守っている。博士の方にどうするのか? と尋ねるような視線を送る。


「じゃから最初からあの黒猫を解剖すれば良かったんじゃ!」


 博士が興奮してまた目を血走しらせ始めた。「聞いておるのか、さっさと捕まえんか!」


「あんたが一緒になって興奮してどうするんだ!」


 お巡りさんが博士を諌めた。「まずは黒猫を落ち着かせないと事態は悪くなるばかりですよ」


 どうもこの博士は逆上しやすいタイプらしい。しかしお巡りさんが冷静なのでなんとか助かっている。暴走を始めたらとんでもない事をやらかしそうだがこのお巡りさんが上手に手綱を引いているようにも見える。もしかしたらこの博士が暴走しないように普段からこまめに通っているのかもしれない。


 思えば慇懃無礼な低姿勢も、暴走した時の捌き方も博士の性格を熟知しているからこその手法である。あまりぱっとしないお巡りさんに見えたが際限なく糸を引っ張り出していたおじさんの手を止めたり、博士の暴走を止めたりと実は思ったより冷静でしっかりした人なのかもしれない。


「あっ! なんだか様子がおかしいよ?」


 僕は黒猫がゴロゴロと喉を鳴らし始めたのに気が付いた。目を細めて鼻をヒクヒクさせている。突然、黒猫はクワッと目を見開き、小刻みに体を震わせ始めた。一体何が起ころうとしているのか!?


 次の瞬間、ポトリと黒猫のお尻からビー玉のような白い塊が落ちた。黒猫はくるりと向きを変えてその塊を前足で棚の下に落とした。


「何だろう? もしかして……」


 僕はおそるおそるその塊に近づいた。その塊からは糸が伸びている。糸を辿ると博士のピンセットにつままれた塊に繋がっている。


 その場は静寂に包まれた。誰も喋ろうとはせず、ゆっくりと時間が流れた。


「にゃー」


 静寂を破ったのは黒猫であった。お前ら何を静まり返ってるんだと言わんばかりに一声鳴くとすっきりした顔で棚の上から飛び降りた。


 博士は黒猫の鳴き声に反応するように我に返った。


「どうやらわしがあの猫のお尻を刺激した事によって異物が出せたようじゃな」


 博士が僕から塊を受け取り、ピンセットの塊と合わせて2つの塊を手に並べた。「これでさらに詳しく分析が出来そうじゃ」


「そうですね。それじゃ我々はこの辺で。何か分かりましたらまたご連絡下さい」


 お巡りさんが頭を下げ、僕とおじさんも研究所を後にする事にした。落ち着きを取り戻した黒猫はおとなしく僕に抱きかかえられた。

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