猫の糸

江良 壮

ネコニャンニャンニャン

 ある晴れた朝、僕は珍しく近所を散歩していた。青空は冬らしく澄んでいて太陽の光で少し汗ばんだ体に冷たい風が心地よかった。もうすぐ家に着くという路地で一匹の黒い猫に出会った。

 

 このあたりでは珍しく賢そうな猫で、じっとエメラルドグリーンの瞳でこちらを窺っている。距離が近づいたが逃げる事無くじっとしている。僕が通り過ぎるとその黒猫は安心したように歩き始めた。どこの猫だろう。ふと振り返ると黒猫のお尻の穴から白い何かが顔を出していた。

 

 以前飼っていた猫がビニールを飲み込んでお尻の穴からビニールの端が出てきた事があった。その時は母さんがそっと引き抜いてやったそうだ。同じように異物がはみ出しているのかな、と気になったのでちょっと近づいてみた。黒猫はこちらの気配に気付いたようだが、じっとそのままお尻を向けている。もしかしたらむずむずと気持ちが悪く、異物を取り除いてもらいたいのかもしれない。僕は黒猫の背後から驚かせないように気をつけながら手を伸ばした。白い何かを掴みゆっくり引っ張る。

 

 その何かはスルスルとお尻の穴から出てきたが糸のように長く、これは随分厄介な物を飲み込んだんだなと引っ張り続けた。ぐるぐると手を回して糸を巻きつけたが、手刀が見えなくなるほどに巻いたにも関らずまだ終わりは見えなかった。一度手刀から糸を外し、今度は肘まで使って糸を巻きながら引っ張った。相変わらず終わりは見えず糸の束がどんどん増えていった。

 

 ふと辺りを見回すと真っ白な糸の束が蚕の繭のようにそこら中に散乱していた。幸いちょっとした空き地の傍だったので足で糸の束を押し込んでいった。黒猫はくるりとこちらを向いて不思議そうに見ている。この人間は何をしているのだろう、そんな目で僕を見て首を傾げた。

 

 僕はこうなったら最後まで糸を引っ張り出してやろうと決意した。あまり勢いよく引っ張ると猫のお尻の穴が摩擦で傷ついてしまうかもしれない。なるべくゆっくり糸を引っ張り、再び肘まで使って上腕部分に巻きつけていく。束になったら空き地に向けて放り投げる。そんな作業が何度も繰り返された。

 

 あれからどれくらい経っただろうか。すでに空き地は雪が積もったようになっている。糸の束は膝の高さまで積もっていた。その光景は幼い頃に新品のティッシュペーパーを最後まで夢中で引っ張り出した時に似ていた。トイレットペーパーの時にもだ。

 

 僕はこの場を逃げ出したい衝動に駆られていた。もう何も見なかった事にして家に帰ろう。糸の束を放り出してその場を去ろうとしたその時、散歩していたおじさんに見付かってしまった。


「ん? なんだ、この白い綿みたいなのは。坊主、お前がやったのか?」


「違うよ、これは猫が」


 僕は黒猫の方を指差して言った。


「猫? お前、今何か白い束を空き地に投げてたじゃないか」

 

 おじさんは空き地に近づいて白い塊を触った。「これは……糸か?」


「黒猫のお尻から白い何かが出てたんだよ。それを引き抜いてやろうと思ったら……」


 僕は糸をさらに引っ張ってクルクルと手に巻きつけながら言った。


「どうなってるんだ、これ?」


 おじさんは目の前の光景を信じられないといった顔で見つめていた。そして、はっと我に返ると「よし、おじさんが交代しよう。君は誰か人を呼んできてくれ」


 そう言うとおじさんは僕の手から白い糸の束を掴んでそのまま手繰り始めた。そんな事がすぐ傍で起こっているというのに当の黒猫はきょとんとしてそのまま立って見ている。自分のお尻からその糸が出ているという自覚もないようである。


 僕はそのままその場を離れ、まずは自分の家に帰って母さんに話した。


「今はおじさんが代わってくれてるんだ。人を呼んで来いって言われて」


「猫のお尻から糸が? 何を言ってるの、訳が分からないわ」


 母さんは事情を理解してくれそうにない。僕は家を飛び出し、近所の交番に駆け込んだ。


「何かあったの?」


 お巡りさんは僕の話を聞いてくれた。「そう、今はおじさんがねぇ……」


 とにかく来てくれと僕はお巡りさんの手を引っ張った。


「分かった分かった。とりあえず現場に行ってみよう」


 お巡りさんは自転車に乗って僕に付いて来てくれた。


「おじさん、連れてきたよ」


 僕は先ほどの空き地にやってきた。さっきまで膝の高さだった糸の束はすでに腰の方まで積もっていた。


「おお、来たか坊主。見ろ、まだ出てくるぞ」


 おじさんは糸を手繰りながら言った。「えっ!? 警官呼んできたのか」


 お巡りさんはその光景を見て一瞬唖然としたがすぐに我に返って、


「ちょっと手を止めて下さい」


 と、おじさんに言った。おじさんはお巡りさんの指示に従っていったん手を止めた。お巡りさんはかがみ込んで空き地に積もった糸の束を調べた。


「ただの糸のようですが、それにしてもこの量はいったい……」


 お巡りさんは糸の束を手に取った。綿のような柔らかい感触だった。


「いやぁ、私も通りかかっただけなんだが」


 おじさんはばつが悪そうにお巡りさんに言った。


「これじゃきりが無い。猫のお尻のところで切ってみたらどうですか?」

お巡りさんが言う。


「あっ、そうか。最初からそうすれば良かったんだ。なんでこんなに引っ張り出すまで気が付かなかったんだろう」


 僕は思わず笑い出した。僕は家が近い事を告げ、ハサミを持ってくると伝えて家に帰った。そして家からハサミを持ってまた2人のところへ戻った。


「これで問題は解決だね。ああ、良かった」


 僕はハサミを黒猫のお尻の辺りに近づけた。一瞬びくっとしたが黒猫はじっとしている。「大丈夫だよ、傷付けないからね」


 僕はハサミで糸を切った……いや、切れていない。間違いなくハサミは糸を捕らえているのだが細すぎるのか全く切れる感覚がない。


「切れないとなると焼き切ってみるか?」おじさんがライターを取り出した。「猫に近づけちゃまずいだろうからこの辺で……」


 おじさんは僕がハサミで切ろうとした場所からちょっと離れた場所でライターに火をつけた。しかし糸に変化は無かった。


「火も着かないのか! おい坊主、そっちを押さえておけ」


 おじさんは僕に糸を持たせ、思い切り引っ張ると糸は何の抵抗もなくゴムのように伸びた。「うわっ!」


 おじさんはその場に尻餅をついた。僕とおじさんの間の糸は引っ張った分だけ伸びてしまったのだ。引きちぎろうというおじさんの目論見は崩れてしまった。切れない、燃えない、引きちぎれない。こりゃもうお手上げだ。三人の間に手詰まりの空気が流れた。


 その時、お巡りさんの乗ってきた自転車が空き地に倒れこんだ。ちゃんとスタンドがかかってなかったらしい。倒れた自転車の重みで糸の束はぐっと沈み込んだ。お巡りさんはすぐに自転車を起こしたが、糸の束はその部分だけ重みで潰れていた。


「あれ? ひょっとして……」


 僕は糸の束を手で地面の方へ押し込んでみた。「やっぱり、この糸簡単に潰れるよ!」


 まるで綿菓子のように圧縮するのである。これならこの糸の束もなんとか処理できそうだ。


「う~ん。根本的には何も解決しないが、とりあえず出来るだけ潰してみるか」


 おじさんとお巡りさんが協力して糸をかき集めながら圧縮していく。みるみるうちに糸の束は密度の高い一つの塊となった。


「まるで雪だるま作ってるみたいだね」


 僕が言うとおじさんたちは困ったように笑った。


「さて、小さくなったのは良いが、結局どうするかね?」

 おじさんはお巡りさんを見た。塊は大体バスケットボールくらいの大きさになっていた。


「そうですね。糸が切れないとなると猫と一緒にこの塊を移動させるしかないですね」


 お巡りさんは黒猫の方に目をやる。黒猫は不思議そうにこっちを見ている。おとなしそうな猫なのですぐに捕まえられそうである。僕はゆっくりと黒猫に近づいた。


 背中から両手で捕まえた瞬間「にゃ!」と声を出したがおとなしく抱え上げられた。


「おおっ、よく捕まえたな!」


 おじさんは僕を褒めてくれた。お巡りさんもにっこり微笑んだ。


 お巡りさんはちょっと目を上に向けて何かを思案していた。ぱっと何かを思いついたような顔をして、


「そうだ、私の知り合いでいつも暇してるおかしな博士がいるから相談してみましょう」


 と言った。僕達はお巡りさんと一緒に博士がいるという研究所に向かう事にした。

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