知る
インターホンが鳴ったのは、ちょうど両親のいない、夕食時だった。
足音を立てないように玄関に近付いて、のぞき穴から外を見る。最初に目に入ったのは大きな胸だった。二つある丸いふくらみがセーターの記事を伸ばしている。それから、その下に抱えた鍋。最後に顔を見て、隣に住んでいる大学生のお姉さんだとわかった。
この時間に鍋をもって隣人を訪問といったらご飯のお裾分けしかない。しかもお姉さんは俺の両親が滅多に帰ってこないことを知っている。廊下で挨拶をするたびに目で追っていた彼女が、俺の家の前にいる。そんな非日常感に狼狽えながらも声を絞り出す。
「はい……」
「あ、やっぱり少年一人? ご両親いつもいないねえ」
玄関を開けると、お姉さんはホッとした顔をして俺を見下ろした。成長期の遅れている俺の視線は、胸と鍋に吸い寄せられている。
「まあ、仕事なんで。あと、少年じゃなくて、シュウです」
「そういえば挨拶はするけど、自己紹介とかしなかったね。私はユウコ。で、物は相談なんだけど」
ユウコさんは手にした鍋を少しだけ持ち上げて言葉を続けた。
「これさあ、よかったら一緒に埋めてくれない?」
「え?」
彼女の分厚い唇は、俺の考えていたようには動かなかった。
「ちょっと、一人じゃ心細くて」
「あの、中身は……?」
「ああ、見たい? でもそっか、そりゃあ見たいよね。お邪魔していい?」
「え、ちょっと……っ」
ユウコさんは、俺が頷く前に玄関に体を滑り込ませた。ダイニングテーブルの上に鍋を置くと、遅れてついてきた俺を手招きする。
「一つだけ約束してくれる?」
「え、なんですか?」
「大きな声を出さないこと」
小さな子供じゃあるまいし。そんな大声で喜ぶわけがないだろ。
少し不機嫌になったのを隠して静かに頷く。ユウコさんは、それを見てから鍋の蓋に手をかけた。
「っ……!」
今したばかりの約束を、早速破りそうになった。慌てて両手を口で塞ぐ。かなり大げさな仕草になってしまったので、ユウコさんがビクリと肩を震わせた。けれど、そうでもしなければ声が出てしまいそうだった。それも、甲高い悲鳴が。
「な、これ、こ」
「言葉になってないね」
鍋の蓋を閉めたユウコさんがクスクス笑う。場違いだ。この状況に似つかわしくない。彼女のそんな様子を見ていると少し落ち着いてきた。
「もう一度、見ていいですか?」
鍋の蓋に手をかけて、恐る恐る持ち上げる。
肌色、というよりは白に近い色をしていた。申し分程度に鼻と口があって、目はしっかり閉じている。かろうじて五本あるとわかる指は、俺の知っているものよりもはるかに小さかった。
「あの、これは、人間ですか……?」
「人間になろうとしてたんじゃないかな、多分。なりきれなかっただけで」
ユウコさんは他人事みたいにそう言って俺の手から蓋を奪うと鍋に戻した。
「子供……あの、ユウコさんの……」
「じゃなかったら誰が産むのよ」
「旦那さん、いたんですね」
「いないよ」
「え、じゃあ、彼氏……」
言っていて、胸がチクリと痛んだ。今まで彼女が男の人といるところを見たことがない。たまたまタイミングが良かっただけかも知れないけれど、話し声が聞こえてきたこともない。
「いないよ。私が一人で作って、一人で産んだの。一人で。一人でね」
ユウコさんはそう答えると、鍋を持って立ち上がった。
「そんなことより、一緒に埋めてくれるの? どうなの?」
「埋め、ます」
考える前に言葉が出ていた。俺の口は勝手に動いて、彼女を肯定する。
少しでもいい格好をしたいという気持ちがこんな形で働くなんて。
「そう、助かるわ。穴を掘るって大変そうで」
「今から行くんですか?」
「ううん、三日後にしましょ。また来るわ、少年」
彼女はそう言い残して部屋を出て行く。残された俺の呟きは、きっと聞こえないだろう。
「……シュウです」
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