第八章
ルーア・イージェル
「こんばんは、ルーアさん。こんな時間に突然ごめんね」
夕食前にイージェル家を訪問しに来たのは、ヴァレンヌ家の気さくな主人だった。
ルーアは驚きながらも、笑顔で応じる。
「こんばんは。ちょっと待っててくださいね、母なら家の中にいるので。今呼んできます」
「ああー……、いや。いいんだ、急がないんだ。また明日にするよ」
目を泳がせるその様子に、ルーアは首を傾げた。今日執り行ったフロールの埋葬の件もあり、眼前の相手がヴァレンヌ家の人間ともなれば、気掛かりなこともないわけではない。
「あの……、何かあったんですか?」
訝しげな聞き方をしたせいか、ヴァレンヌ家の主人は慌てて苦笑を浮かべた。
「ああ、いや、別に急ぐことじゃないんだよ。ただ、ちょっと自分の記憶に自信がなくて、よく分からなくなってしまってね。隣家のイージェルさんなら何か覚えているかなあって。……明日、念のためにアマリウスの丘に行こうと思っているんだけど」
これはフロールの件だ、とルーアは心の中で確信を持った。
ただ、現実の出来事が生者と死者の中で共通の認識になっていることに、慣れない感覚があった。
「よければ教えてもらえませんか? アマリウスの丘に行くのは、何のためですか?」
想定外の質問を受けたかのように、主人は目を泳がせる。
「えっと、それは……。私の先祖――いや、正しくは先祖の姉に当たる人なんだが、その人の墓がアマリウスの丘にあったような気がするんだ。でも、なぜか突然思い出して、それが自分でも不思議でよく分からなくてね……。あはは、ごめんね。ルーアさんにこんな話しても仕方がないのに」
「いえ、すみません。こちらこそ無理に聞いてしまって。……念のために話すと、アマリウスの丘には確かにお墓があります。フロール・ヴァレンヌさんの、ですよね?」
それを今ここで伝えることに、ルーアは一切の迷いがなかった。残りあと少しの死者人生を考えれば、未来に影響を及ぼすとは到底思えない。
ルーアの俯瞰したような表情に対して、主人は感嘆とともに大きく目を見開いた。
「おお! そうそう、フロールだよ! ルーアさん、よく知っているね。そうかあ、私の記憶はやっぱり夢ではなかったってことか。……うん、それが分かればいいんだ。ルーアさん、ありがとう」
安堵した顔で帰っていくヴァレンヌ家の主人を見送り、ルーアは家の中に入った。
「ルーア出てくれてありがとう。誰だったの?」
台所から母親の声が聞こえた。
「隣のヴァレンヌさん。旦那さんの方。でも、私と話したら何だか用事は片付いたみたいで」
「あらそうなの? それならいいんだけど。……あ、ルーア。もうすぐご飯できるからね」
母親との夕食もこれが本当に最後になるかもしれない、とルーアは思った。
今ごろヴェーチルはどうしているだろうか。一足先に、もう神の国へ向かっただろうか。
この先どうなるかは、何も分からない。分からない中で、ただひとつ知っていること――それは母親がこの先一人残されてしまうことだ。ルーアにとっては、ただそれたけが何よりも心残りだった。
「ねえ、お母さん。もしも、私が先に死んだらどうする?」
夕食の席でルーアは親不孝な質問をした。
「そんなこと、嘘でも言うものじゃないわよ。あなたには長く生きてもらわないと」
母は困ったように笑っていた。それが真実だということを知らないからだ。
「……うん。でも、万が一にも、そういうことがあったら?」
こんなこと、できることなら質問したくない。母親にそんなことを考えさせたくもなかった。
それでも、その答えを聞くことが今のルーアには必要だった。
母親は野菜スープをスプーンですくうと、影を落とした瞳でそれを憂うように見つめながら口を開く。
「……悲しいわ。悲しすぎてどうすればよいのか、分からないでしょうね」
その言葉に、ルーアの心は締め付けられるように痛んだ。
「お母さん、ごめ――」
「でもね……。もし万が一のことがあったら、あなたの分までお母さんは生きるわよ。だって、あなたは私が死ぬことを望まないでしょう? 私が逆の立ち場だとしても、絶対に望まないもの」
母の表情が穏やかに和らいで、ルーアを見つめた。すくったスープを口に運ばずにそっと戻す。
ルーアは自然と涙が出てきて、目頭を拭った。
「お母さん、ありがとう……」
震える声で、言葉を伝えた。
「あら、どうしたの、ルーア? 大丈夫? ほら、何も心配しないで。さあ、一緒に食べましょう。スープが冷めてしまうわよ」
いつもの無邪気な母の笑顔を見て、ルーアは泣き笑いを浮かべた。
ベッドに入る直前、ルーアは窓から外の景色を見つめた。
ネルソン村の夜の原風景だ。無数の星が、大小まばらに光り輝いている。
広がる大地。なだらかな丘陵。穏やかな風が吹き抜ける牧草地。
「――ネルソン村に生まれて良かった。本当にありがとう。大好きだよ、お母さん……」
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