第八話 ヴェーチル・インス
アンドラ王の姿が靄のように消えて、しばらく放心状態のまま立ち尽くしていた。そこから最初に危機感を口に出したのはジェインだった。
「た、大変だよ……!! アンドラ王が消えたってことは、皆にも順番が回ってくるってことだよね⁈」
それは、この世界から魂もろとも消えるということだろう。
レーンが落ち着いた様子で腕を組みながら顎に手を当てる。
「すぐにアンドラ王が姿を消したということは、おそらく死者になった順番……。つまり、実際の死亡年月順ということかな。どうやら、俺たちもそれぞれの場所に帰った方が良さそうだな」
レーンの視線が順番に三人へ向けられて、ルーアを見たところで止まった。
「あの……。じゃあ、ここで本当にお別れってことですか?」
ルーアが言うと、全員の空気が一瞬で重くなった。
何と返せばよいのか分からないまま、ヴェーチルは目を泳がせる。
「そういうことに……なるよね」
長年の目的が今まさに叶おうとしている中で、思った以上に心は晴れやかにはなれなかった。何がそうさせているのか、ヴェーチルは黙って思考を巡らせた。
「ルーアは死ぬ前に知りたいこと、何かある?」
その意味が分からないとでも言うように、ルーアは不安そうに首を傾げた。続けてヴェーチルは踏み込んだ質問をした。
「……死因を知りたいと思う?」
ルーアの顔から瞬時に表情筋が失われて、じっとヴェーチルを見つめた。
「知っているの? 私の死因を……?」
「アルジントが言ってたんだ。ルーアに話すタイミングがなかったから、俺が言葉だけ聞いた」
「……教えて。今ここで、すぐに」
縋るほどに真剣な眼差しだった。レーンやジェインに聞かれたとしても、それも今さらだろう。
「火事だよ。教会で、火事があったんだ」
「レネッサベル教会?」
「うん。アルジントは、昨年の十一月だって言ってた」
後ろめたそうに話すヴェーチルに、ルーアは微笑を向けた。
「そっか。ありがとう、ヴェーチル。それなら、私はきっと火事から逃げようとしていたのね……」
「思い当たることがある?」
「なんとなくだけど……ある。私だけ分からないまま死ぬのかなって、ちょっと思ってたから。……ありがとう」
「これはアルジントのおかげだよ。どこまで先を予測していたのか、本当に分からない」
弱々しく困り笑いを浮かべるヴェーチルが、居心地悪そうに頭を掻いた。
「うん。……でも、私の死者としての人生はヴェーチルに救ってもらった。だから、本当にありがとう。ヴェーチルに会えて、本当に良かった」
ルーアは満面の笑みを浮かべた。それは心の底からの笑顔ではないと思ったが、それでもヴェーチルの心を軽くさせるには十分すぎるほど柔らかな笑みだった。
「……俺もだよ。もっと幸せな道だったら良かったんだけど、こんな結果でごめんね。……俺たちについてきてくれて、本当にありがとう」
アマリウスの丘の下でルーアと離別したヴェーチルは、ジェインとレーンと共に村道に停めていた馬車に戻った。
「レーンさん、お手数ですが、また教会までお願いします」
ヴェーチルは次第に焦りに駆られていた。
自分が消える時は妹シェリダもほぼ同じタイミングで消えることになるだろう。それを思うと、最後の瞬間に妹を一人にしたくないのだ。
レーンは御者席に上がり、穏やかな眼差しでヴェーチルを見た。
「大丈夫だよ、ヴェーチルくん。安心して。ちゃんと俺が送り届けるから」
「はい……。ありがとうございます」
馬車の中で、ヴェーチルは落ち着かないまま両手を開いた。まだ透明になっていないことを確認して、安堵する。
向かい合わせで座るジェインが、ぽろりと呟くように言った。
「僕、いよいよ一人になるんだね……。僕は生きるから、ちゃんと見ていてよね」
死者がいなくなれば、生者という概念もなくなる。つまり、人々は死者に囚われることなく生きていくことができる。
だが、死者と深く接してきたジェインにとっては、取り巻く環境が相当変わるであろうこともまた想像に難くなかった。
「みんなが見てるよ、ジェインのこと。立派な騎士になって、立派な牧師さんになれるよ。ジェインならね」
教会に到着したヴェーチルは、リード牧師にアマリウスの丘で起きた出来事を説明しようと向かった。
そこでレーンが慌てて呼び止める。
「ヴェーチルくん。後は俺たちに任せて、早く妹さんのところへ……!」
その気遣いが何よりもありがたく、ヴェーチルは深く一礼して教会の翼廊に向かった。
シェリダが他の同じ年頃の少年少女たちと楽しそうに会話する姿を見て、ヴェーチルは申し訳ないと思いつつも割って入る。
「シェリダ、一緒に家に帰ろう」
驚いたように目を丸くして、シェリダがゆっくりと歩いてくる。
「お兄ちゃん、今日は学校も行かなくていいの?」
「うん。もういいんだ……。どうしてもシェリダと一緒に過ごしたくて……」
「分かった。一緒に帰る」
シェリダはふわりと笑った。
「――ねえ、シェリダ。白パン買って帰ろうか」
教会を出て、ヴェーチルは言った。
「今日は安い日?」
「いいや。でも、今日ぐらいはいいかなって」
不思議そうに兄を見つめるシェリダだったが、特に何も言うことなく従った。
購入した食材は、白パンにチーズ、卵、ベーコン――これらを一度にまとめて買い占めたのは初めてだった。
「お兄ちゃん、今日はお金持ち?」
「……うん。最初で最後のね」
リード牧師からの支援金については、すべてジェインに託した書物らとともに鞄に入れて返却済みである。
だから、これは自分が働いた分のお金だ。
「食材がこんなに豊かだと、何から食べればいいのか迷っちゃうよね」
苦笑を浮かべるヴェーチルに、シェリダが楽しそうに笑う。
「ベーコンと卵は一緒に焼く?」
「うん、そうしようか」
慣れない手つきで目玉焼きベーコンを作るヴェーチルの横で、シェリダが白パンを皿に盛り付けていた。最初で最後の料理になるであろうが、それなら少しでも美味しいものを食べさせたいと思う。
「はい、二人分できたよ。……少し早いけど、食事にしようか」
「うん! お兄ちゃん、今日はいつもと少し違うね」
「え? どうしてそう思うの?」
「すごく自由みたいだから」
「自由? いつもとは違う?」
「うん……。でも、今のお兄ちゃんの方が好き。なんだか昔みたい」
自由の意味は、死の不安が解消されることへの安堵によるものなのかもしれない。
自分では気がついていないつもりでも、身近な相手から見れば案外分かりやすかったりするのだろうか。
「味はどう?」
「うん。すっごく美味しい!」
シェリダは黄身がとろけ出した目玉焼きを嬉しそうに食べている。
「良かった、喜んでもらえて」
食事の途中で、ヴェーチルの耳にダンベルグ教会の鐘の音が届いた。午後六時を知らせる鐘だ。
――フロールの棺を埋葬してからもう三時間は経過している。もうそろそろ覚悟を決めたほうがいいかもしれない。
「ねえ、シェリダ。今さらだけど、俺と一緒にここまで過ごしてくれてありがとう」
「どうしたの、突然?」
「ううん。……ただ言いたかっただけ」
「ふふふ、お兄ちゃん今日は本当にちょっと違うね」
その時、シェリダの身体に異変があった。自分より先に透明になり始める妹を見て、いよいよ順番が巡ってきたことを悟った。
だが本人はそのことに気がついていない。
「そうだ、お兄ちゃん」
シェリダが純粋な笑顔で口を開く。
「……うん?」
「今日のリード牧師の話なんだけどね、実はもう何度も聞いていて、私すごく――……」
「……うん。それで……? それで、どうしたの……?」
もう目の前にシェリダの姿はなかった。つい先ほどの妹の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
食べかけの料理がまだほんの少しだけ残っていた。
「シェリダ……」
ヴェーチルはたった一人、小さく嗚咽を漏らしながら料理を食べ続けた。
途中で二度目の死期を悟り、手を止めて室内の低い天井を見上げた。祈るように右掌を胸に当てる。
――俺も今から、そっちへ行くからね……。
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