第七話 アンドラ王

「――私が心配する必要は、もうなさそうですね」

 アンドラ王が寂しそうでありながらも安堵した表情を浮かべた。

 会話に一区切りつきそうなところで、レーンが口を開く。

「あ、あの、実は私も聞きたいことが一つあります。悪魔について……」

 言葉の終わりが弱々しく消えかけていた。だが、態度で誠意を示すように、レーンは王の面前で片膝をつく。

 アルジントの二度目の最期をともにしたレーンにとって、悪魔の存在を無かったことにはできないのだ。

 アンドラ王は跪く騎士と視線を合わせるように、地面に膝をついた。

「悪魔とは、人間の負の感情や呪いが具現化したもの、ですね」

 レーンはわずかに視線を上げて王を見ると、ゆっくりと頷いた。

「死者がいなくなれば、今後悪魔が生まれることもないと思いますか?」

「残念ながら、それは分かりません。悪魔になり得るほどの負の感情は、誰にもコントロールすることはできませんから」

 その言葉を聞いたレーンが大きく肩を落とした。

「では、悪魔に取り憑かれた人間が、自らの意思で死んだ場合、意味はないと……そう思いますか?」

「それは思いませんよ。全てに意味のないことなどありませんから。ただ、自らが犠牲になることを選択をする人間は、滅多にいないでしょう」


 レーンはぐっと顔を歪めて、唇を強く結んだ。アルジントがその滅多にない究極の選択をしたのなら、考えれば考えるほどに胸が苦しくなる。レーンの表情がその時の状況を物語っていた。


「マルサス家の人間は死者の解放を望んでいませんでした。……なぜだと思いますか?」

「それはおそらく、死者がいる均衡が崩れたこの国で、彼らは私の望む世界を否定したかったからではないでしょうか。……それほどまでに、私は憎まれていたんです」

 アンドラ王はそこまで言うと、大きな溜息をついてフロールの青白い顔を見つめた。

「別に嫌われても構わないし、私がすべて正しかったとも思わない。ただそこに人々が置き去りにされ、結果的に生活まで蔑ろにされたという事実が残った。……マルサス家と王が結託してやったことは、決して許されないことです」


 アンドラ王の外見からは王たる威厳こそ見えないものの、後世に語り継がれるだけの理由が、その言葉の節々から垣間見えていた。アンドラ王の口から真実を聞くことができるというのは、何よりも説得力がある。

 この日を迎えることができたのはウェリティが研究を行っていたからであって、アルジントがイルバ・マルサスという悪魔の呪いに勝ったからに他ならない。

 ヴェーチルはそっと胸に右手を当てた。心臓が動いているのが分かる。自分は死者としてここまで生き残ったのだ。それを噛み締めながら、あとは果たすべき使命をやり遂げる。



 アンドラ王は改めてフロールの棺の前に両膝をつくと、胸の前で両手を組んで祈りを捧げた。

「私は神に祈ります。死後に人々が神の国へ行くことができるように、決してこの世に魂が残されることのないように……。きっと、神は私の心を汲み取り、願いを叶えてくださるでしょう」


 まるで神聖な儀式のようで、その様子をただ見ているだけで、呼吸一つすら憚られるような空気が漂っていた。

 

「……最後の仕事をしなければなりませんね。フロールをここに埋葬しなければ」

 ルーアが持っていたスコップを求めるように、アンドラ王が手を差し出す。

「……あの、それは私たちが」

 ルーアが緊張じみた声で言うと、王は首を横に振った。

「いえ。……これは私にやらせてください」


 その真剣な眼差しと強い意志に、その場にいた誰もが口を挟むことができなかった。

 草が邪魔をして、土を掘り起こすには大変であろうことは見ていて分かる。それでも、スコップを手にしたアンドラ王は黙々と墓標横を掘り進めた。


「一部の土が脆くなっている……。やはり、掘り起こされた形跡が土の中には残っているようですね。棺が納められる深さになるまでは、あともう少しか……」


 アンドラ王が土を掘り起こす様子をただ無言で見つめるだけというのは後ろめたさがあった。だが、その様子こそがアンドラ王の人間性を表しているようで、性格穏やかな一般庶民の青年にしか見えなかった。

 

「……さあ、準備できた。……思ったより体力が落ちていなくて良かったです。見た目だけが八年で止まってしまったのかと思っていましたが、体力も変わらずで安心しました」

 ほっと安堵した表情を浮かべながら、アンドラ王はその場に腰を下ろした。


 ヴェーチルとルーアが顔を見合わせた。一〇〇年以上前に死者になったアンドラ王は、そのまま年数が経過しているのならば一三〇歳を超えていることになる。だが、その外見はまるでニ、三〇代の若者だ。

「そっか……。そこまではウェリティ先生やアルジントも判断しようがなかったんだ」

 ヴェーチルの呟くような言葉に、ルーアが苦笑しながら頷いた。

「今になって初めて知ることがあるなんて……。ウェリティ先生がここにいたら、色々と記録していたかも」

「きっと、そうに違いないよ」


 アンドラ王が白い布で覆ったばかりの棺の前に腰を下ろした。

「……やはり、最後にもう一度顔だけ拝見してもよろしいでしょうか」

 アンドラ王の頼みどおり、レーンが布をめくり上げた。

 教会から外に持ち出したことが要因なのか、フロールの顔色は少しだけくすみ始めているように見えた。

 埋葬までの時間はあまり残されていないことを悟ったアンドラ王は、寂しそうに表情を歪めて、棺の上にそっと手を乗せる。

「……フロール。次は神の国で、きっとまた巡り逢おう」

 アンドラ王は自らの手で棺の上に白い布を被せると、呼吸を整えてその場に立ち上がった。


「さて、皆さん、本当にありがとうございました。最期に図々しい頼みかと思いますが……。埋葬を手伝っていただけますか」


 もちろん断る理由などなかった。流石にこればかりは一人で行うのは困難である。全員で棺の端を抱えて、アンドラ王により掘られた穴に丁寧に下ろしていく。

 墓標がはっきりと見えるようにと、レーンが自らの剣を使って草を刈った。これで誰が見てもフロール・ヴァレンヌの墓がここにあることが分かる。


 誰も何も会話を交わさぬまま、土を被せ終えた。

「……ありがとう、皆さん。本当に、ありがとうございます」

 腰から深く礼をするアンドラ王の姿に、ヴェーチルは違和感を覚えた。

 その姿は次第に透けて見えて、身体を起こしながらアンドラ王自身もそれに気がつく。

「身体が……消える……」

 それが死を意味していることを、この場にいる全員が感じ取っていた。

「……そうか。こんな私でさえも死ぬことが赦されるのか。神は、願いを叶えてくださった……」

 アンドラ王は天を仰ぎ見ると、ほろりと涙を零した。そのまま正面に向き直り、再び深く頭を下げる。

「皆さん、本当にありがとう。本当に、ありがとうございました。皆さんとまた……どうか巡り逢うことができますように」


 それからアンドラ王がこの場から姿を完全に消すまでの時間は、ほんの一分にも満たない一瞬のことだった。

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