第九話 アルジント・リーグルス

 ベッドの縁に腰掛けながらアルジントは考えていた。


 ――今この感覚は誰にも憑依されていないよな? 思考にも影響はないし、恐らく問題ない……。


 あの日、珍しくダルラスが部屋に招こうとした理由について、アルジントは今になって理解できた。

 自分が悪魔に取り憑かれた状態であることを知りながら、その打開策を伝えようとしていたのだ。

 あのときはまだ完全に精神まで操られていなかった。人によって時間的差があり、それが遅かったのはダルラスの精神的強さによるものだったのかもしれない。

 それでも、最終的にダルラスは負けたのだ。もっと早く状況に気がついていれば良かったと思うが、こうなってしまった今、時すでに遅い。


 アルジントはレーンが眠っている衝立の方を見た。その姿は見えないが、彼が本当のところどう思っているのかが分からない。

 本当に自分がいなくなれば、その後を否応なしにレーンに任せることになる。ヴェーチルやルーアがそれを知ってどう思うだろうか。考えても仕方のないことばかりが頭に思い浮かぶ。


 ――いい、やめだ。今日はもう寝てしまおう。


 枕元に剣が置いてあることを再度確認して、アルジントは普段着のまま浅い眠りについた。




 物音が聞こえる。人の足音、人の声――。



「……なんだ? 廊下がうるさいな……」


 今が何時かも分からぬまま、アルジントは身体を起こした。

 ランプに明かりを灯したあと、剣を手に取って腰に収める。

 レーンの眠りの妨げにならないように、そっと歩きながら部屋の扉に耳を寄せた。

 人の足音――それも一人ではない。


 なぜこんなに騒がしいのか。


「助け――……!!」


 突然、扉を隔てた向こう側から聞こえた女性の叫び声。

 アルジントは咄嗟に扉を開けて、剣を抜く。


「アル……様……」

 

 足元に倒れている人物を見下ろした。背中から血を流して倒れ込んだ女性の姿――。


「エリー!! どうした?! 何があった?!」


 膝をついて大声で呼びかけるが、反応がない。彼女の瞳孔が大きく広がっていることを確認して、アルジントは呆然としたまま動くことができなかった。

 数十秒を経て、エリーの身体は次第に薄くなり、透明に変わっていく。


「……これが、二度目の死?」


 エリーの姿が消えて、アルジントは一度ぎゅっと目を瞑ると、気を引き締めてその場に立ち上がった。


「レーン! いるか?!」


 自室全体にランプを灯して、アルジントは衝立の向こうへと歩いていく。


「起きろ、レーン! レ――」


 その衝立の向こうを目にした瞬間、アルジントの身体はガタガタと震えだした。

 エリーの死は己のミスが招いたものだった。


「なぜ、いない……!?」


 レーンの姿がないということは、部屋の外に出たということだ。


 エリーの背中の深い傷を思い出して、アルジントは剣を抜いた状態で部屋から飛び出した。


「レーン! どこだ?!」


 廊下を走っていると、また別の場所から叫び声が聞こえてきた。助けてと泣き叫ぶ声に、聞き覚えのある人間の断末魔。


 次から次へと人を殺すことのできるのは、悪魔という理由だけではない。その手際の良さ――つまり騎士だからだ。


「うわっ……!」


 廊下に転がっていた死体に足を引っ掛けて、危うく転倒しそうになる。アルジントが見下ろすと、その人物は姉ラジェリーだった。少しだけ姿が消え始めているが、まだ仰向けのまま胸から大量の血を流している。


 アルジントは悔しさに顔を歪ませた。

「くそ! 誰か無事な者はいないのか……!」


 屋敷内を走り回るうちに、叫び声はまた一つ、また一つと減っていく。


 ――また僕は一人取り残されるのか!?


 屋敷の一階ホールに降りて、アルジントはその場で立ち竦んだ。剣の柄を再び強く握りしめる。


「――君を一人にするのはかわいそうだ。君も殺してあげなければ」


 階段上からゆっくりと歩いて降りてきたのはレーンだった。だが、その声は別の人間――イルバ・マルサスのものだ。


「レーンの身体を使うな! 離れろ!」


「離れてもいいが、そうすると俺は君の身体に入ることができる。そしたら、君はこの青年騎士を殺すことになるだろう」


「……構わない。ただし、教えてほしいことがある」


「なんだ? 質問は一つだけだ」


 アルジントは一瞬沈黙した。

 今ここで何を聞いたとしても、ヴェーチルやルーア、ジェインにその答えを伝えることは恐らくできない。ならば、最後の質問は――。


「フロール・ヴァレンヌの死体を掘り起こしたのはマルサス家だろう。王族と親密な関係を築いてやりたかったことは何だ? 答えられないならば質問は取り下げる」


「それが死ぬ前に知りたいことか?」


「……そうだ」


「なるほど。死ぬ前に知りたいことが、死者と一切無関係とは、ウェリティ・ローグもさぞ残念がるだろうな。……でもまあ、構わない。

 答えよう。『平等な社会とは、常に不公平である』――これがアンドラ王の死後、次期王が掲げた言葉だ。リーグルス家の人間は知らないだろう? そりゃあ今でもこの街はアンドラ王一色だからな。だが、その言葉に胸を打たれた者も多くいた。我らがマルサス家もその一つだ――」

 そう言って、イルバ・マルサスは両手を広げて天井を仰いだ。

「アンドラ王がもたらした不公平な世の中を、真に公平な世の中へと変えたのだ……!!」


 アルジントの背筋に緊張感が走った。イルバ・マルサスの狂気の沙汰を真正面から受けて、身体がふらつきそうになる。


「いいか、リーグルス家? マルサス家は、王族に忠誠を誓ったのだ! そして王族もそれを認めた! ……それなのに、世の中はアンドラ王、アンドラ王ばかり! なあ、腹が立つだろう? 我々は当たり前のことをしただけなのに……!」

 怒りを込めて叫んだ後、イルバは笑い声を上げた。

「禁忌を犯すのは気分がいい! 神は怒り、秩序がすべて崩れ落ち、選ばれた人間は死んでも生き返った!! 望んだ世界だ、これで平等になる!」

 アルジントは咄嗟に訊く。

「なぜお前が選ばれた?」

 イルバ・マルサスは即刻その質問を振り切った。

「……却下だ! 質問は一つだと言ったはずだ! さあ話は終わった。さて、俺は君を――」

「はあ、頭がどうかしている。完全にいかれているな?」

 アルジントは溜息をついて首を横に振った。

「どうした? 人生二度目ともなると、さすがに一人残されても泣きわめかないか?」


 戯言をベラベラと喋るイルバ・マルサスに、アルジントはまともに取り合うだけ無駄だと思った。


 ――チャンスは一度きり、成功するかわからない。でも、これしか方法はない。



「……すまない、レーン」


 詫びの言葉を呟いて、アルジントは剣を勢いよく振り上げる。


 全力で向かっていき、剣を振り下ろす瞬間、アルジントは全身に電撃が走ったかのような痺れる感覚に陥った。

 レーンを避けるように空中で剣を外側に振り下ろす。同時に、レーンは目の前で意識を失って倒れた。悪魔イルバ・マルサスが憑依の的をアルジントに変えたのだ。


 意識が操られるまでには多少の時間的余裕がある。それならば、チャンスは今しかない。


 剣を握る手の震えが止まらず、アルジントは三回深呼吸する。

 だが、それだけでは治まらず、心臓までドクンドクンと音を立て始めた。


 これほどまでに死を怖いと思ったことはない。だが、あれこれ考えている時間もないのだ。

 レーンが意識を取り戻してしまわぬうちに――また、自分の意識が完全に乗っ取られる前に、全てを終わらせなければならない。


 イルバ・マルサスに乗っ取られる前に、自らの命を絶つことがイルバを殺すたった一つの手段だ。



 両腕を上げて剣を高く掲げた。

 よく研がれた長い剣刃を自身の頸動脈にぴたりと当てる。


 ――こんなに怖いと思わなかった。……でも、皆も怖かったよな。レーンにも辛い思いをさせてしまったよな。



「父上や兄上のように、僕も少しは役に立つことができたでしょうか。――あとのことは頼んだぞ」



 力いっぱいに切りつけた首から、大量の血が吹き出すのが分かった。

 気を失いそうなほどに痛くて痛くて仕方がない。歯を食いしばり、手に込める力をさらに強くする。


「――死を恐れるな!! 切れ!!」


 失神しそうなほどの痛みで意識が遠退きそうになる。

 それを気力で振り切って、二度目の死を迎えるその瞬間まで手に力を込める。

 ふらつく身体を、やっとのことで保つ。



「最期まで、アルジント・リーグルスとして死ぬ――!!」

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