第三話 苦悩

「アル様。ダルラス様のお部屋からお戻りでしたら、ハーブティーでもいかがですか」


 部屋の扉を叩く声の主は使用人エリーであった。

 アルジントは横たわっていたベットの上から身体をガバッと起こす。


「――今は何時だ⁈ あの本は……⁈」


 慌てて周囲をぐるりと見回すと、ベットの上にダルラスの部屋から持ってきた本が置いてあった。

 それを見て安心するとともに、先ほどの件が夢ではないことを改めて認識する。

 じわりと冷や汗が浮かんでくる。


 ――さすがにまずい。とにかく誰か……そうだ、エリーに話そう……。



 アルジントが部屋の扉を開けると、エリーはティーカップを乗せたトレイを持ちながら、不安そうな顔でこちらを見上げていた。


「ダルラス様とチェスを楽しまれていたかと思ったのですが、もうお戻りに?」

 真っ直ぐな視線を向けられたが、アルジントは目を合わせることに躊躇いを感じた。

「ちょっと、色々とあって……。少しだけ、時間あれば話せないだろうか?」

 エリーが一瞬きょとんと目を丸くしたが、その表情はすぐに安定感のある微笑みへと変わった。

「構いませんよ」


 エリーを部屋に招いて、アルジントはどこか力なくベッドに腰掛ける。

 その姿をエリーが立って不思議そうに見下ろしていた。


「……珍しいこともあるものですね」

「何がだ?」

 エリーが柔らかな笑みを浮かべたのに対して、アルジントはしかめた顔をわずかに上方へ向ける。

「夜は扉付近でのティーカップの受け渡しだけで、頑なに私を部屋に入れようとしないのに」 

「当たり前だ。屋敷内とはいえ、変な噂が立っては困る」

「おや、それでは今日は噂が立ってもよろしいと?」


 小さく笑うエリーを見て、アルジントは言葉の選択肢を誤ってしまったことに気がつく。

 今の自分の精神状態では、言い返してもただ墓穴を掘るだけになりそうで、あえて不服そうな顔で無言を貫くことにした。


 だが、次第に俯いていくアルジントに、エリーが小さく息をついた。

「……本当に何か事情がおありなのですね? お話をお聞きしますよ。他言もしません」


 言わずとも事情を察してくれるあたり、リーグルス家におけるエリーの存在は非常にありがたい。


「その言葉を信じる。……実は、兄上の部屋に行ったら、兄上が部屋にいなかった。行ったら、部屋の窓が開いていて、そこに姿がなかったんだ」

 エリーの目の色が一瞬で変わった。

「アル様、それは大変なことですよ! まさかダルラス様は窓から外に⁈  それなら早くラジェリー様に知らせに行かないと……!」


 一目散に扉へ向かおうとするエリーを、アルジントは咄嗟に腕を引っ張って止めた。


「ま、待て! 話を聞いてくれ! 僕は窓の下を見たが、別に遺体とかも見当たらなかった……! だから……原因はわからない!」


 真剣かつ緊迫したエリーの顔が、アルジントを振り返る。


「アル様! それでも事件性があるなら、一刻も早く連絡を――」


「だめなんだ‼︎ 本当は、ある程度察しがついているんだよ、自分の中では……! でもそれは、今は言えないことだから――……!」


 そこまで言うと、アルジントはエリーの腕をゆっくりと開放した。

 ぎゅっと唇を結んだまま、力なくベッドに腰を下ろす。


「これからどうすれば良いのか分からなくて、僕もまだ混乱しているんだ……。冷静に考えようとすればするほど、焦っていく……。この状態のままで、姉たちに何か話せるわけがない」


 エリーがその場に屈むと、下から穏やかにアルジントを見上げた。

 アルジントは視線を逃がす場所もなく、諦めてエリーの双眼を真っ直ぐ見る。


「分かりました。この件が屋敷の違和感と関係することなら、私たち使用人らが何か言えるものでもないのでしょう。ラジェリー様であっても、ダルラス様が急に出かけて行ったと聞けば、きっと納得してくださるはずです。屋敷内のことはリーグルス家使用人歴の長いわたくし、エリーに全てお任せください」


 エリーはどんと胸を張り、にこりと笑顔を見せた。


「本当に……できるのか?」

 アルジントは意表を突かれたように目を丸くしてエリーを見る。

「ええ、もちろんです」


 口には出さなくとも、リーグルス家の人々にまで目を向ける余裕など、アルジントはすでに持ち合わせていなかった。

 どれだけ自分の頭脳や作戦能力が誰かに褒められようとも、どうにもならない限界というものが存在する。


 これが苦しいという感情なのか、とアルジントは心臓を鷲掴むように押さえた。

 大きく深呼吸して、気が抜けたようにベッドに仰向けに倒れ込んだ。


「……恩に着る」


 見えている世界がほんの少しだけじわりと滲んで、両眼を強く閉じた。

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