第二話 友人
玄関の扉を叩く音が聞こえて、ヴェーチルは急いで向かった。
夕方のこの時間、ベル・ストリートにやって来る人物といえば、おそらく考えられるのは教会の人間か、母方の親戚か。
だが、親戚はこの地区に足を運ぶことを嫌っているため、その可能性は限りなく低いと思われた。
歪んだ扉の取手を軽くひねり、訪問者の姿を見たヴェーチルは途端に明るい声を上げた。
「アルジント! 来てくれたの?!」
たまに訪れてくれる友人のことを、ヴェーチルはすっかり忘れていた。
「いや、物を持ってきただけだが」
アルジントは視線を逸らしながら言うと、玄関から一歩も動くことなく手に持った紙袋を差し出した。
「何言ってるんだよ、来てくれたんじゃないか。……これは?」
紙袋を受け取ったヴェーチルは中を覗き込む。
「うちのシェフが作ったパンや菓子、惣菜だ」
それらは布や紙に包まれていて、紙袋を覗くだけでは分からなかったが、中から漂う料理の香りが味を既に保証していた。
以前持ってきてくれた時もそうだったが、リーグルス家の料理はお世辞抜きに美味しいのだ。
シェリダの喜ぶ顔が見られると思うと、ヴェーチルも今から楽しみで仕方がなかった。
「ありがとう、恩に着るよ。アルジント」
ヴェーチルは純朴な笑みを見せた。
「いや、別に。……できるだけ早めに食べるように。焼き菓子は多少日持ちするが、数日以内には食べてくれ」
「分かった。少し中に入らない? こんな家だけど」
「いや、僕は別に……」
すると、話し声が聞こえたのか、妹のシェリダがゆっくりとやって来た。
「お兄ちゃん、お客さん?」
兄の背に隠れるようにして、シェリダが訪問者を観察するように見る。
「……あ、アルさんだ! こんばんは!」
よく知る人物の訪問だと知り、シェリダは喜んで挨拶した。
「ああ、こんばんは」
夜分の挨拶を簡単に交わしたところで、ヴェーチルが紙袋を妹の前で揺らしてみせた。
「これ、アルジントからもらったんだよ。美味しいものだって」
「本当⁈」
「うん。美味しくいただこうね」
ふわりとした兄妹の会話に、アルジントが居心地悪そうに顔をしかめていた。
「おい、ヴェーチル。この子は体調が良くないようだが、ベッドで休ませた方がいいんじゃないのか?」
アルジントが火照ったシェリダの顔色をさり気なく見る。
「ああ、そうなんだけど……。でも、アルジントが来たから気になっちゃったんだよ。ね?」
兄に反応を求められて、シェリダは大きく頷いた。
やれやれと腰を屈めながら、アルジントがシェリダに向き直る。
「君は少し休んでいた方がいいんじゃないか?」
「でも、アルさん帰っちゃうでしょ?」
シェリダの悲しそうな顔が兄ヴェーチルの心を痛めた。
だが、このままアルジントを引き止めるわけにもいかないことも承知している。
妹に言い聞かせようとヴェーチルが口を開いた時、アルジントが先に言葉を発した。
「そうだな、ならばもう少しお邪魔させてもらおう。帰る時は声をかけるから、もう少し休んでおいで」
「……!」
シェリダはどこか恥ずかしそうに笑みを浮かべて頷いた。
「良い子だ」
アルジントに言われた通りにシェリダは部屋へと戻って行った。
「本当に帰らなくて大丈夫?」
二人残された後、ヴェーチルが訊いた。
「まあ大丈夫だろうさ。帰っても特にすることはない」
「……そっか。あのさ、アルジント」
「何だ?」
彼は怠そうに目を向ける。
「いや、その……。何でシェリダに対して優しいのかな。あ、いや別に普段が優しくないって訳じゃないんだけどさ」
「僕は普通の対応だ。余計な違和感を持たせたくないとは思っているがな。……あの子はまだ自分が死者であることを知らないんだろう? もちろん僕は知らせるべきではないと思うが」
「アルジントも大変だったんだよね?」
「……否定はしない。だが、やっぱり幼くしてその事実を知るのは残酷だ。ウェリティは違ったようだが、僕ならずっと知らないままでいてほしいと思う」
自分にその経験があるからこそ、アルジントはシェリダの気持ちが分かるのだ。
「俺は二人に比べたら死者歴も浅いし、アルジントの全部を知っているわけじゃないけど、ウェリティ先生はアルジントのこと、ちゃんと知っているんだよね?」
「……随分と世話になったからな」
「それなら良かった」
ヴェーチルはふっと笑みを浮かべた。
その言葉に、アルジントは顔をしかめる。
「何がだ?」
「いや、アルジントのこと知ってくれてる人がいて良かったなあって」
「……ふん。おかしなやつだな」
「――あ、もし帰るなら、シェリダを呼んでくるよ」
しばらく会話を交わしたあと、ヴェーチルは椅子から立ち上がった。
「いや。体調が良くないというのに、わざわざ来てもらうのは申し訳ない。部屋の中に入って構わなければ、こちらから挨拶しに行く」
「それは構わないけど……」
普段は非常に分かりづらいが、このさり気ない優しさがアルジントの長所であることをヴェーチルは知っている。
「……あ、アルさん!」
ベッドで横になっていたシェリダは、ぱっちりと目を開けて身体を起こした。
アルジントは近くに行って腰を屈める。
「そろそろ帰ろうかと思う。また体調が良くなったら一緒に話そう、シェリダ」
「うん、分かった。約束だよ」
アルジントは頷いて立ち上がると、そのまま振り返ってヴェーチルを見た。
「長居して悪かったな、ヴェーチル」
「いや、こちらこそありがとう」
アルジントの見送りに玄関まで向かったヴェーチルが口を開いた。
「――あ、あのさ、一つ聞いてみたいことがあったんだ。もし仮に生きていたら、俺たちは身分も違うけど……今みたいに出会ってたと思う?」
突然の質問に、アルジントは一瞬目を見開いたかと思うと、軽く上を向いて顎に手を添えた。
「さあどうだろうな。だが、全てのことに絶対はない。それなら、出会っていたと思う――そう考えたほうが、前向きでいいと思わないか?」
その言葉に、ヴェーチルは少しだけ救われたような気がした。
「やっぱり、アルジントが友人で良かったよ」
裏のない笑顔を浮かべるヴェーチルに、アルジントもあえて否定することはしなかった。
「……まあ、好きにしろ」
「うん、じゃあ気をつけて」
ヴェーチルは手を振りながら、友人の背中を見送った。
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