第三章
第一話 ベル・ストリート
ルーフェス旧市街、そのダンベルグ教会近くのベル・ストリート周辺は、貧民層の暮らす居住区である。アンドラ王の死後、王が交替するたびにベル・ストリートの住民の生活環境は大きく変化した。
中心部のランゲル地区が豊かになり、医療が進歩を遂げていくにつれて、ベル・ストリートとの貧富の差は拡大していった。
政治からもっとも軽視されている地域でありながら、政治の影響をもっとも受けているのである。行政の援助がゆき届いていないことから、閉鎖された壁の街ともいわれるベル・ストリートだが、一方でダンベルグ教会を中心とした独自の生活区が形成されていた。
ルーフェス旧市街、ベル・ストリート3番地の集合住宅。
ヴェーチルが学校を連続して休むのもこれが三日目だった。八歳の妹、シェリダの熱が下がらないことが理由だった。
シェリダは教会が運営する学校に籍を置いているものの、身体が弱いために休むことも多い。
唯一の救いは教会と家の距離が近いことであり、教会の人間は日常的に身体の弱いシェリダを気にかけてくれていた。
ベッドの上で横になっていたシェリダは、熱を帯びた瞳で兄ヴェーチルを見上げていた。
そんな妹を安心させるように、ヴェーチルが穏やかな笑みを見せる。
「いいかい、ゆっくり休むんだよ」
「……お兄ちゃんは、学校行かないの?」
「俺のことは気にしなくていいよ。休んでも平気さ。それよりも、シェリダが休まないとね」
ヴェーチルは妹の頭にそっと手を乗せて笑いかけると、妹ははにかむようにとろりとした笑みを浮かべながら目を瞑った。
餓死――それがインス兄妹の死因だった。
死の間際まで、二人は互いに飢えを耐え忍びながら、身を寄せ合っていた。母が生きていればこんなことにならなかっただろうと、ヴェーチルは今でも思うことがある。
父からの虐待に抵抗することもできず、部屋に閉じ込められたまま兄妹で身を寄せあうしかなかったのだ。
この事実に最初に気がついたのは、ダンベルグ教会の牧師だった。二人の子供の姿が見えないという近隣住民の違和感から事件の発見に至ったのである。
ヴェーチルとシェリダは幸いにも命を救われて、父は街の自警団に逮捕された――それが真実だと思っていた。
だが、救われた二つの命はこの時すでに息絶えていたことを、ヴェーチルとシェリダは気がついていなかった。
ウェリティからその真実を聞くまでは――。
ダンベルグ教会は二人が生活できるようにと多額な資金援助をしてくれている。
だが、死者であることを知った以上、いつまでも頼り続けるわけにはいかないこともヴェーチルは分かっていた。
時々勘違いしてしまいそうになるのだ。
自分は生きているのではないかと――。
「――お兄ちゃん、おはよう」
ベットから体を起こした妹が、兄をじっと見つめていた。
どうやら、うたた寝をしていたらしい。
「お、おはよう……? ちなみに、今は朝?」
時間感覚がなかった。覚えているのは学校を休んだ方がいいとか、そういう話をしていた記憶だけ。
状況から察するに、そのまま妹のベッドの縁に伏せて眠っていたのであろう。
「夕方だよ。さっきまで朝だったのにね」
そう言って妹は小さく笑った。
ヴェーチルは苦笑して頭をかく。
「……そっか、ごめん。お腹空いたよね?」
「ううん。でも、食べられるよ」
ヴェーチルは途端に後悔した。
何も考えずに発してしまった言葉は、自分自身にもっとも深く突き刺さった。
これもすべて父親のせいなのだ。もしも父親が何事もなかったかのようにのうのうと生きていたなら、きっと何があっても許すことはできないだろう。
自分が死者であることを知らない妹には、このまま何も知らずに生きていてほしい――兄として、ヴェーチルはそう願わずにはいられないのだ。
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