第三話 兄心

 一晩明けて体調が良くなったシェリダは、兄ヴェーチルに教会に行きたいと頼み込んだ。


 普段からシェリダは好んで教会に行っている。ヴェーチルが牧師から聞いた話によると、妹はよく聖書などの本を読んでいるという。

 教会の心地よさは誰にとっても平等という意味で安心できる場所だ。

 だが、そう遠くないうちに身体が幽霊ゴーストと化することを考えると、シェリダが死を自覚してしまうのではないかと焦りを感じることもある。


 学校へ到着したヴェーチルは、いつもながらに遅刻であった。

「お前って羨ましい見た目してるのに、どこか空気薄いよな」

 同級生に言われて、ヴェーチルは苦笑する。

「いや、別に俺は元から目立つタイプじゃないし」

「それにしても、あれはねえよな。授業で名前呼ばれなかったのお前だけだぜ? 先生気づいてなかっただろ」

「……別にいいよ」


 最近では時々、生者のごく一部には認識されないことがある。ただ、姿が全く見えないのではなく、影が薄くて気づかれにくいという感覚に近い。



 授業が終わると、張りつめている気が抜けて、ヴェーチルはいつも不思議と安心する。

 地下研究室へ行けば、自分の正体を隠す必要のない仲間がいるということは、一体どれほど心強いことであろう。


「こんにちは、ウェリティ先生」


 中に入ると、アルジントとルーアの姿はなかった。

「こんにちは、ヴェーチル。ねえ、明日って用事ある?」

「あー、えっと。明日って休日ですよね。家に妹が一人なので、長時間はちょっと難しいかもしれません。教会に相談してみれば何とかなるかもしれませんが……」

「そうよねえ。無理しなくていいわ。来週の終業後はどう?」

「ええ、それなら。……何かありましたか?」

「単純なお誘いよ。アルジントの通っていた騎士団学校に行ってみない?」

 騎士団学校という言葉に、ヴェーチルは咄嗟に反応する。

「そこに死者がいる可能性があるんですか?」


 ウェリティは口元にやんわりと笑みを浮かべた。

 その一方で、ヴェーチルは次第に瞳に影を落としていくと、どこか侘びしく笑った。

「また何か事件が起こる可能もあるんでしょうか」

「そうね。……怖い?」

「いえ、怖いって感情とは少し違うんです。いや、でも怖いってことになるのかな? ……未来が分からないのが怖いのかも」


 じめりとした空気の中に、扉のノック音が響いた。

 ルーアである。

「お疲れ様です。あ、ヴェーチルはもう来ていたんですね」

 その様子はどこか揚々としていた。初めて会った頃に比べると、だいぶ印象が明るくなったように思う。


 その後、騎士団学校について会話が盛り上がり始めていたとき、カフェ側の扉がノックもなく開いた。

「何を話していたんだ?」

 アルジントは特に挨拶もなく、今の状況に疑問を呈した。

 ヴェーチルとルーアは顔を見合わせて、口を閉ざす。


 その反応を見た彼は状況を察し、小さく息を吐いた。

「……なるほど、僕のことか」

 どこか冷めた物言いはいつものことだが、ウェリティは念のためにフォローを入れる。

「別に、変なことを話していたわけじゃないのよ。騎士団学校にいつ行こうか、って話だから」

「ああ、別にそれは気にしていない。で、予定は立ったのか?」

「来週末の平日でどうかしら」

「……本当に行くのか?」

「ええ、情報収集しましょ。アルジントの予定は?」


 ウェリティの問いかけに、アルジントが若干顔をしかめたのをヴェーチルは見逃さなかった。


「……問題ない」

 アルジントは答えた。

 彼の表情がどうであれ、この回答が得られたならば決行である。

「それなら良かった。私たちも学校に入ることは可能ということで良いのよね?」

「できるが、関係者の紹介がないと入れない。校内に入る理由も考えておいた方が良いだろうな。僕は幽霊ゴーストだから手を貸すことは不可能だ。だから、そこに関しては検討が必要だろう」

「ええ、承知のうえよ」


 研究室での打ち合わせを終えると、ヴェーチルは妹の待つベル・ストリートの集合住宅へ帰るため、ひと足先に部屋を出た。

 カフェに続く通路を歩いていると、

「ヴェーチル、妹の体調は大丈夫なのか?」

 背後からアルジント声が聞こえた。

 こういう何気ない気遣いをしてくれるのが、実にアルジントらしいとヴェーチルは思う。

「ありがとう。今日は教会に行ってるんだ」

「まあ、身を置く場所としては安心だろう」

「うん」



 ***



 ヴェーチルが家に帰ると、シェリダが元気良く兄を出迎えた。

「お兄ちゃん、お帰り!」

「ただいま! シェリダもお帰り、今日はどうだった?」

「楽しかったよ、牧師さんもお話をたくさん聞かせてくれたの」

 そう言って、シェリダは駆け足で部屋の中に戻って行った。


 その背をゆっくり追うように歩きながら、ヴェーチルは不安を抱いた。彼女は牧師からどんな話を聞いたのだろう。

 教会で、この歳頃の少女に聞かせるような話といえば、神の国の話くらいしか思い浮かばない。


 だが、この話はひとまず置いておいて、帰り際にベル・ストリートの露店で購入したパンを妹に見せた。


「今日の夕食は白パンだ。柔らかいのが手に入ったんだよ」


 白パンはいつも食べているパンとは違って、ふわりと柔らかく、小麦の香りも感じられる。

 ベル・ストリートではこういった露店が不定期に出店し、貧民層向けに安価で提供されるのだ。教会や貴族による慈善事業ではなく、一部の商人たちによる自社の名売り活動の一環でもあるが、消費者にとってはこの際関係のないことである。


「高かった……?」

 シェリダが紙袋の中を覗いて訊ねる。

「大丈夫、これは俺たちみたいな人間が買えるように、安く売られているんだ」

 妹を見るヴェーチルの目は穏やかだった。

 純粋無垢な妹を苦しませず、何があっても守りたいと心の底から思うのは、普通の兄心であろう。


「さあ、夕飯の準備をしよう」

 

 

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