第五話 調査(2)
ルークスと名乗った男子生徒が軽く会釈した瞬間、彼の背後に漆黒の影がふわりと浮かんだ。
最初は人影のようにも見えたが、それはまるで意思を持っているかのように大きくなっていく。
――バタン。
開いていた扉が大きな音を立てて閉まった。
アルジントが急いで開けようと試みるが、施錠されていないにもかかわらず扉はびくともしない。
「……やられた」
アルジントはため息混じりに呟いた。
「や、やられたって、何……?」
ルーアも教室の扉を開けようとしてみるが、当然開くはずもなかった。
アルジントは男子生徒に向きなおると、眉をひそめた。
黒い影は視覚的に気体よりも液状に近く、それは少しずつ変形しながら男子生徒の背中へと吸収されていた。
まるで悪魔に取り憑かれている様を見ているかのようで、ルーアはこの世のものとは思えない光景に目を逸らした。
次にルーアが顔を上げたときには、ルークスの顔つきは全くの別人かと思うほどに変わっていた。
もはやそこに彼の意思はないと思われ、人ならざるものの気配のみ感じられた。
現状把握もできていないのに、この何者かに殺されるかもしれないという恐怖。
「――ここからは逃がさない。殺す」
ルークスの口から発せられたその言葉は、愉悦感を帯びていた。
どこか不自然で操られているかのような口調と表情。その言葉がルークスの本心ではないような気がした。
ヴェーチルが妙に安心した声で、アルジントに話しかける。
「……あ、あのさ、俺たちはもう殺されることはないんだよね?」
数秒の沈黙のあとに、アルジントは答えた。
「……分からない。だから、とにかく二人は後ろに下がっていろ。少なくともこの生徒は死者だ。同じ死者なのに僕たちを敵だと認識しているってわけだ。あの影の正体が分からない以上、僕たちは死なないという根拠もない」
アルジントは影から全く視線を逸らすことなく、腰に提げていた短剣を鞘から抜いた。
「今日は護身用の短剣しか持っていないってのに……」
アルジントはこの得体の知れない影に応戦するため、腰を低くして短剣を構える。
「待って、それなら逃げた方が……」
ルーアは心が恐怖に侵食されていくのを感じた。
「逃げると言っても教室の扉は開かないぞ。一か八かで窓から逃げるにしても、ここからは少し距離が遠い」
落ち着いた様子でアルジントは現状を分析していた。
その時、ルークスが気味悪く笑いだした。
「ははは! 君としたことが、そんな剣で俺を倒すのか?」
興味は完全にアルジントに向けられている。
「僕の剣術をなめると後悔するぞ。……お前の名前はなんだ? ルークス・ベンではないだろう?」
アルジントは剣を構えながら訊いた。
ルークスは高笑いを浮かべた顔から、瞬時に無表情へと変わった。
「……ああ、そうか。君も優秀なのか」
怒りと憎しみが入り交じった声で呟くと、影は生徒の背中から煙のように抜けていった。
それと同時に、男子生徒の身体が床へと大きな音を立てて崩れ落ちた。
すぐにルークスの元へ駆け寄った。
影が消えた途端、ルーアの中の恐怖の感情は既に消え失せていた。
「生きてる、よね……?」
アルジントとヴェーチルの反応を待つ。
アルジントは倒れ込んだ男子生徒の横に座り込むと、右手首の静脈に人差し指と中指を軽く当てた。
「大丈夫だ、脈はある。生きている証拠だろう」
その時、ヴェーチルが少し首を傾げながら訊いた。
「死者でも脈ってあるんだね」
ヴェーチルのこの言い方に悪意は感じられなかったが、アルジントはやや機嫌を損ねたように顔をしかめた。
「ああ。僕たちと同じようにな。脈や鼓動、呼吸などは生者だけの特権ではない。……それよりも、今は黒い影の正体を突き止めなければ」
男子生徒の無事を確認し終えたアルジントは、その場に立ち上がった。
「アルジント、あの影はこの生徒に取り憑いたってことだよね? 会話してたけど、何か知ってるの?」
ヴェーチルが訊いた。
「いいや。今は何とも言えない……」
そう言いながらも、アルジントの表情は何かの仮説を導き出しているかのように落ち着いていた。
「今はこの生徒が目を覚ます前に研究室に戻るぞ」
アルジントが発した言葉はそれだけだった。
「彼は本当に大丈夫かな?」
ヴェーチルは倒れたままの生徒を心配そうに見つめていた。
「問題ない。じきに目が覚めるはずだ。それに、今はこれ以上やっかいごとに首を突っ込むことは避けた方がいい」
ヴェーチルは渋々頷いた。
何事もなかったかのようにこの場を立ち去ることが、今は最も賢明な判断であった。
三人が研究室の中に入ると、真っ先にウェリティが明るい声で出迎えた。
「あら、お疲れ様。どう、楽しかった?」
ヴェーチルとルーアの視線はアルジントの顔へと向けられた。
椅子に腰を下ろして定位置につくと、アルジントは口を開いた。
「――結論から言う。死者に関する確定した情報は得られなかった」
その話し方は妙に控えめであった。
違和感を察したウェリティがやや追及するように訊く。
「そう。じゃあ、全く何もなかったということなのね?」
ウェリティの視線がルーアとヴェーチルに向けられて、アルジントが弁明するかのように再び口を開いた。
「いや。一応、死者は一人いた。僕の姿に気づいていたことが根拠だ。この学校の男子生徒だった」
「あら、そう。じゃあ、行った意味はあったのね」
アルジントは重々しく頷いた。
「――だが、途中でその生徒の様子が急変した。悪魔に取り憑かれたように……まるで人が変わったみたいに狂い始めた。最後は生徒も元に戻ったし、無事を把握することができたが……」
アルジントは正直に受け答えをしていたが、自分から話を掘り下げるつもりはないらしく、彼にしては説明の内容に具体性がない。
ウェリティは顎に手を当てて小さく唸っていた。
「……死者に取り憑く悪魔ねえ。そういえば、最近、騎士団学校近くで悪魔に取り憑かれた人が暴れていた、って話を聞いたわ」
ルーアはハッと顔を上げる。
それは聞き覚えのある話だった。取り憑かれた男性が剣を振り回して、結局何事もなく状況は落ち着いたとエマが言っていたはずだ。
「ねえ、アルジント。その話と何か関係あるのかもしれないし、今起きた話をもう少し詳しく教えてくれる?」
ウェリティが微笑みを携えながら訊くと、アルジントはあからさまに浮かない顔で頷いた。
「まず、取り憑かれた男子生徒の背後に黒い影が現れた。精神も、声も、表情も、別の誰かに変わっていて、まるで操られている様に感じた。――そして、殺すと脅された」
「黒い影……。殺すと言ったのね? 会話はできるのね?」
「ああ」
続けてヴェーチルが同調する。
「取り憑いたのは、口調からして男性だと思います。そして、ものすごく怖かった……」
「なるほどね。仮に、その影を悪魔と呼ぶとして、悪魔は生者も死者も殺せるのかしら?」
ウェリティが軽い声のトーンで訊ねると、アルジントが頷いた。
「絶対とは言い切れないが、僕はそう考える」
「生徒の名前は?」
「ルークス・ベン。本人の声で名乗っていた」
「……若い子だから『死亡者名簿』には載っている可能性は低いけど……念のため記録はしておきましょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます