第二話 地下

 街中に人の姿が増え始める中、二人がたどり着いた場所は、レンガ造りの小さな建物だった。

 外壁には木彫りの看板がひとつ。カップと王冠の横に、アムール・デ・ロワと文字が記されている。


 落ち着かない様子でルーアが店の外観を眺めていると、店の裏口からヴェーチルが手招きしていた。

 どうやら関係者専用の出入口にも見える。

 表口から堂々と入ることができないことを知ると、罪悪感による躊躇いがルーアの足をすくませた。

 

 一方で、裏口から平然と中に入っていくヴェーチル。

 店主に怒られやしないだろうかと、ルーアの心には不安が渦巻いていた。


「心配しなくていいよ。ここの店主は知り合いだから大丈夫。実は学校への近道なんだ」

 ヴェーチルは透きとおるような曇りのない笑顔を見せた。


 彼を信用して裏口から店内に入ると、そこは生活感あふれる庶民の家だった。中央部分には正方形のテーブルを囲む四脚の椅子。遠目で見ても、家具には傷跡が目立っていた。壁の側面を埋めるように配置された棚、その上には咲いたばかりのような生き生きとした一輪の赤い花が飾られている。


「ここから地下に降りるんだ」


 ヴェーチルが発した地下という言葉に、ルーアは耳を疑った。


 だが、部屋の床に何かを塞いでいる取っ手の付いた板を見つけて、すぐに納得した。ヴェーチルがそれを上方に上げると、一平方メートルほどの穴があった。

 ここから地下へ続いているのだろうということは想像に難くない。


 ルーアはおそるおそる床穴を見下ろした。ひんやりとした冷風が地下から吹き上げている。

 ここまで来たからには、もう後戻りはできないだろう。


 ルーアはヴェーチルの後ろに続いて長い階段を降り始めた。足元が闇に吸い込まれていくようで、心細く感じた。明かりは一切なく、前を歩くヴェーチルの姿を見失わないようにすることが精一杯である。


 周囲の距離感やこの通路がどれほどの広さなのかなど、全く検討がつかない。冷気が漂い、悪寒がする。

 不気味とは、まさにこのような状況のことを言うのだろう。


「真っ直ぐ行けば、あと少しだよ」


 ヴェーチルの優しい声に救われて、ルーアは少しだけ緊張がほぐれた。

 暗闇に浮かぶヴェーチルの輪郭だけを追って、ルーアはただ真っ直ぐに歩いた。


「――着いたよ」


 その声に反応して顔を上げる。

 眼前には、二メートルを悠に超えるであろう鉄製扉が威圧感を放っていた。だが、若干設計が甘いようで、扉の隙間から光がわずかにもれている。


 その扉を、ヴェーチルが拳で三回叩いた。

 返事がないまま、彼は平然とした様子でドアノブを握り、扉を引き開ける。


「おはようございます」


 緊張を微塵も感じさせないヴェーチルの声に、少しだけ安堵した。

 促されるまま、ルーアも入室する。

 身を縮こませながら全体をぐるりと見回すと、窓のない無機質な密閉空間に、女性が一人で机に向かっていた。

 室内には分厚い書物が異質なほど充実しており、扉は前後に二箇所、向かい合うように設計されている。


 女性は椅子に腰掛けたまま身体をひねり、二人の訪問者を振り返った。頭の後方で一本に束ねた長髪が、さらりと輪を描くように宙を泳ぐ。

 ルーアはその容姿に息をのんだ。どこか儚げで、雪化粧のような白肌。同性ですらつい見入ってしまう端麗さである。


「あら。また遅刻したの?」

 女性は少しいたずらな笑みを浮かべた。

 ヴェーチルは困ったように笑い、肩をすくめる。

「はい、ウェリティ先生。どうしても間に合わなくて」


 ――学校の先生? でも、こんな先生いたっけ?


「今日は可愛らしい女の子も一緒なのね」

 ルーアは、「可愛らしい女の子」が自分を指した言葉であることに、女性に笑みを向けられるまで気が付かなかった。同時に、隣からヴェーチルの視線も感じる。

「この子とは、偶然道で会ったんです」

「そう……。でも、その子はまだしも君は少し遅刻しすぎじゃない?」


 女性は笑みを絶やすことなく、柔らかに注意した。

 それに対して、ヴェーチルは腕を組んで何か考える素振りを見せる。

「そうだったかな? 俺、そこまで遅刻してないと思うんですけど……」

「まあいいわ。さあ、二人とも早く教室に行かないとね」

「そうですね。では、また」

 ヴェーチルが女性に対して軽く会釈したため、それにならってルーアも頭を軽く下げた。

 

 ヴェーチルは入った扉とは異なる前方の扉のドアノブに右手をかけた。

 小部屋を出ると、そこ相変わらずはの薄暗い空間だった。ただ来た時と少し様子が異なり、前方から光が差し込み、上りの階段が続いている。


「あの、さっきの女の人は……?」


 気になっていたことを、ルーアは聞かずにはいられなかった。

「ああ。あの人は研究員だよ。部屋に本がたくさん置いてあったでしょ?」

 ルーアはわずかに首をひねりながらも、それ以上訊くことはやめた。


 前方から差し込む強い光に目が眩み、ルーアは思わず手をかざした。

 暗闇を抜けきり、階段の踊り場に到着したところで、ヴェーチルが足を止めた。ルーアの方へ身を翻すと、無自覚らしい爽やかな微笑みを向けた。


「さあ、着いたよ。俺は三年だから、教室は一階なんだ。ここでお別れだけど、また見かけたらよろしくね」


 ヴェーチルはくるりと背を向けると、ゆっくりと前に歩みを進めた。

 ルーアは目をしばたたかせた。今立っているこの場所が既に校舎内ということは、地下の研究室を含めて全て学校に併設された施設だったということだ。


 ルーアは緊張染みた声でヴェーチルに呼びかけた。

「あ、あの……!」

 ヴェーチルは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

「俺のことはヴェーチルでいいよ。年齢とか気にしないから」

 嫌な顔をせずに振り向いてくれたその姿は、彼の人柄を示しているかのようだった。


 ルーアは感謝の意を込めて頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 

 ***


 ルーアが教室に足を踏み入れると、予想どおり授業が始まっていた。生徒の数名からは興味本位の視線が向けられたが、ルーアは気にせず一番後ろの席につく。


 嫌がらせなのかどうかは分からなかったが、教師はルーアに一切の目もくれず、まるでいない者のように扱った。多少の叱責を受ける覚悟でいたため、何も言われなかったことに対して、若干気を落としていた。


 ふと先生の低い声が途切れると、学校の鐘が昼休みの開始を告げた。

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