第三話 約束
昼食を終えたルーアは、中庭に面した通路を友人エマと歩いていた。話好きのエマはやや押しが強く、ルーアにとっては案外気楽でもあるのだが、今日のルーアはいつもと違っていた。
「――それで、ルーアは今の話を聞いてどう思った?」
「えっと……」
ルーアは上の空だった。
エマが不安そうに顔を覗き込んでくるが、いったい今何の話をしているのか思い出すことができない。
だからといって、適当な言葉を返すわけにもいかず、ルーアは意見に迷ったふりをして小さく唸った。
「――ほら、悪魔の話! 私には霊感なんて縁遠いけど、騎士団学校の近くで見た人がいるんだって」
「悪魔を見たの? 夢じゃなくて?」
「そう。正確には、悪魔に取り憑かれた人を見たらしいんだけど。頭おかしくなった騎士が剣を振り回してたって話」
「怪我した人はいなかったの?」
「それが、祓われる前に消えたらしいのよ。怪我人はいないって。八年前に暗殺された公爵家の呪いじゃないかって噂もあるらしいけどね」
「どうして?」
「公爵家の子息がその学校に通ってたんだって」
「そう……」
公爵家暗殺の話はこの街では有名らしいが、ネルソン村出身のルーアにはあまり聞き馴染みのない話だった。
ふと中庭に視線を向けた。
木漏れ日の下、三人がけベンチに見覚えのある人物が腰かけている。
――ヴェーチルだ。
ルーアは確信した。
数時間前に出会った人の顔を忘れるほど、記憶力は落ちていないはずである。
「エ、エマ! ちょっとごめん! 用事思い出した……!」
ルーアはエマの返事を聞かずに中庭へと飛び出した。この感情がどこから沸いてくるものなのかは分からない。
ただ、彼に何か言葉をかけなければならないような気がした。今このタイミングを逃してはならないという、そんな使命感に駆られたのだ。
ヴェーチルはベンチの上で目を瞑りながら休んでいた。
「あ、あの!」
ルーアは緊張しながらも、勇気を振り絞って声をかけた。
ヴェーチルは、ゆっくりと目を開けてルーアをじっと見据えた。今朝出会ったばかりのヴェーチル本人で間違いないだろう。
「あの……!」
ルーアが再び声をかけると、ヴェーチルは口を真一文字に結び、あからさまに浮かない顔を見せた。そしてルーアから完全に目を逸らしたのである。
ルーアは驚くより先に頭の中が混乱した。
今朝とは別人かと思うほどにヴェーチルの様子があまりにも違って見えた。そんなはずはないと思いながらも、同じ顔をした全くの別人に話しかけてしまったのではないかと思わずにはいられなかった。
瓜二つの双子の兄弟がいるなら話は別だが、こんな至近距離で人の顔を見間違えるはずがないのだ。
「隣、座って」
彼が発した言葉はほんの二秒足らずだった。
ルーアは緊張のせいで汗ばんだ手のひらを握りしめ、何も言わずにヴェーチルの隣に腰かけた。顔は正面を向いたまま、首も一切動かさない。
「君、また今度あの研究室に来れる?」
彼はルーアの方を一切振り向くことなく、まるで独り言のように訊いた。
ルーアは思わず「え?」と声を漏らし、勢いまかせでヴェーチルの方に首をぐるりと回してしまった。
だが、ヴェーチルの目はどこか遠くを見つめているようで、ルーアの方を振り向くことはなかった。
その頑なともいえる様相から、ヴェーチルが何らかの焦燥感に囚われているようにも見えた。
「急で申し訳ないけど、君に時間を作って欲しい」
「ちょっと待って……」
「……ごめん。詳細はまた後日話すから。いつなら大丈夫?」
ヴェーチルは相変わらず淡々と話を進めるが、言葉の語尾が少しだけやわらいだ。今できる最大限の気遣いだとでもいうように。
「明日以降なら、放課後もあいてますけど……」
「分かった。じゃあ明日の放課後、今朝の研究室に来てほしい。場所は分かる?」
ヴェーチルはさりげなくルーアの方に首を傾けた。
その拍子に前髪がさらりと両目を遮り、ルーアはその表情をはっきりと読み取ることはできなかったが、どこかもの悲しげに見えた。
「問題なければ、俺はもう行くよ。君も授業が始まる前に戻るように。それじゃ、また明日ね」
ヴェーチルはベンチから立ち上がると、その場から去っていった。
その背中を茫然と見送りながら、ルーアはその場にただ一人取り残された。
心ここにあらず状態で、ここが中庭であることを忘れて、吹き抜けの青空を見上げる。
ルーアがゆっくりとした足取りで校内の通路に戻ると、そこにはエマの姿があった。
休み時間も終わりに近づいて生徒たちが教室へと戻り始める中、エマはたった一人で待っていた。
「遅くなってごめんね。待っていてくれて、ありがとう」
エマは顔面蒼白だった。
何かに怯えているようにも見えた。
視線の先には、今は誰もいない中庭に向けられている。
「ねえ、エマ……?」
「ルーア。誰と話してたの?」
この言葉の意味がルーアには分からなかった。まるで「そこには誰もいなかった」とでも付け足しかねない言い方だ。
エマが立っているこの場所からは、ヴェーチルの姿が確実に見えていたはずなのだ。
ルーアは動揺を隠して、笑みを引きつらせた。
「私、ベンチに座ってる人に話しかけに行ったんだよ? ほら、ここから見えてたよね?」
なんとかエマに頷いてもらえるよう、説明を試みるが、エマはいっそう不安げに眉を寄せるだけだった。
そして、エマは全身が凍りついたように、首から上だけをルーアに向けた。
ただ、二人の目が合うことはなかった。
「……ルーア、ごめん。私、幽霊でも見たのかと思っちゃったの。あの人、最初からあそこに座ってたよね?」
ルーアは口もとを除いて一切の顔の動きが停止した。
「え……?」
ルーアは初めて不気味という感情を抱いた。
だが、つい先ほどまでヴェーチルと話をしていた事実に嘘はない。
エマは両手をパチンと顔の前で合わせると、ルーアに向けて軽く頭を下げた。
「ごめん、ルーア! 私、余計なこと言ったよね。たぶん私の気のせいだから。……とりあえず、教室戻ろう!」
エマが恐怖心を抱いていることは明らかだった。
もうこの件には触れたくないとでも言わんばかりの態度に、ルーアは教室に戻ろうという言葉に頷くことしかできなかった。
ルーアは自席についた後、先ほどの出来事を頭の中で冷静に振り返った。
エマの言葉を受けて、恐怖心が先行してしまった自覚がある。
真実はさておき、明日の放課後に研究室へ行く約束をしたのだ――ヴェーチルと。
それはルーアにとって、疑いのない事実なのである。
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