第五話 生者から死者へ
「――また会おう。リーグルス家の人間」
イルバ・マルサスの声が余韻のように空気中で聞こえたが、アルジントはこの状況をまったく理解できずにいた。
すぐ目の前には床に倒れた騎士、アルフレッドの姿がある。あまりにも一瞬のことで、なぜこうなったのか思考が追いつかない。
背後からジェインの悲痛な声が聞こえて、アルジントは咄嗟に身を翻した。
「レーンさん‼︎ レーンさん……っ‼︎」
アルジントが見たものは、脇腹から多量の血を流して倒れているレーンの姿だった。
震えながらレーンを見つめているジェインの様子は、強烈なほどに死を彷彿とさせる。
ウェリティの冷たい目がアルジントへ向けられた。
「……アル。彼は死んだのよ」
その短い言葉には感情がまるで乗っていなかった。
「なぜ……こうなった?」
「悪魔が彼を殺したの。ただそれだけよ」
武器庫の扉がゆっくりと開いて、ルーアとヴェーチルが望んでもいない光景を目の当たりにすることになった。
二人の反応はウェリティの冷淡さとも異なり、声も出せないまま恐怖に顔を引きつらせていた。
生者であるジェインはどうにもならない目の前の現実を、恐怖と悲哀の涙を浮かべながら見つめている。
アルジントはレーンの傍に片膝をついて、遺体の状況を確認した。
「……これは失血死だろうな」
じわじわと自らの足元まで広がっていく血溜まりを、睨むように見つめた。
「生きている人間の生を奪うことなど禁忌だ。到底許されるものじゃない。……レーンは死ぬべき人間じゃなかった」
アルジントは吐き捨てるように言い、やり切れなさにぐっと目を瞑った。
「う、うわっ……!? ち、血が……!?」
レーンの死体を見つめていたジェインが喫驚の声を上げた。
それを見た全員が、目の前で起こっている光景を呆然と見つめる。
「血が、身体の中に戻っているのか……?」
まるで時計の針が過去に巻き戻っているかのように、床に流れ出た多量の血液が、レーンの脇腹の傷口へとずるずると蛇のように動いて戻っていく。
床に広がった鮮血が一滴も残すことなく吸収されると、それからレーンが身体を起こすまでに一分もかからなかった。
「うーん……?」
深い眠りから覚めたかのごとく、レーンが小さく唸った。
死んだはずのレーンが、ゆっくりと目を開ける。
「ん? あれ? ……ア、アルジント?」
名前を呼ばれたアルジントは、おぞましいものでも見たかのように身体が硬直して、何も反応することができなかった。
死者というものに最も抵抗のないであろうウェリティですら、他人が死者になる瞬間を見て言葉を発することができずにいる。
レーンは片腕を支柱にして身体をゆっくりと起こすと、重そうな頭を左右に大きく振った。
「……何だろう、ものすごく長い夢でも見ていたみたいだ。だいぶ昔にリーグルス家の事件を聞いて、てっきりアルジントも死んだんじゃないかって嫌な想像をずっとしてた。……でも、無事だったんだな。ああ、俺、なんで泣きそうなんだろ――」
レーンは人目も憚らずに涙を拭い、笑顔を見せた。
だが、アルジントは到底笑顔になどなれそうになかった。今はただ心臓が締め付けられるように苦しかった。
本人の顔をまともに見ることすらできず、そっと俯く。
「すまない……」
ウェリティが扉の方を見る。
「……私は外を見てくるわね。この事件を聞きつけて、誰かがやって来るかもしれないから」
そう言い残してウェリティが武器庫を出ると、数十秒ほど経って武器庫の扉が再び開いた。
そこには見知らぬ騎士らが数名。
彼らは早急に事件を察知して駆けつけてきたのだ。
「……事件だぞ!! 救護班も呼べ!!」
彼らはレーンが倒れていた辺りを確認しながら、もう一人倒れている騎士、アルフレッドの方にも目を向ける。
「これはアルフレッドの犯行か?」
「いや、決めつけは早い。彼も気を失っているぞ」
アルジントは彼らのことが異様に恐ろしくなり、ルーアとヴェーチルの反応を確認しようと二人を見た。だが、騎士らの姿がどうにも見えていないようなのだ。
同様に、レーンは不思議そうに周囲を見回しながら、ジェインに寄り添おうとしていた。
ただ一人、様子が違ったのはジェインである。彼はその場で頭を抱えて泣き崩れていた。
「おい! しっかりしろ、ジェイン。お前は大丈夫だったか? 何があった?」
生者である騎士らに訊ねられ、ジェインはボロボロと涙をこぼしながら首を横に振り続けた。
「……分から、ない。僕には、分からないです……」
「犯人は見ていないか?」
「みっ、見て……いません……」
この生者同士の空間に、死者であり
だが、アルジントの中では一つだけ普段とは違うことが起こっていた。
普段なら優勢になるはずの死者側の視覚が、生者側の視覚と同じ割合で見えているのである。
その証拠に、死者であるルーアやヴェーチルに生者である騎士らの姿が全く見えていないのだ。
アルジントはこの場所にいると気分が悪くなりそうだった。周りを何も見ないようにしようと、彼らに背を向けようとしたところで、レーンがジェインの肩に手を添えようとしたことに気がつく。
咄嗟に、アルジントがレーンの腕を引っ張って止めた。
「……今は何もするな」
「ど、どうして? だって、ジェインは泣いて――」
「どうしてもだ。頼むから、今は何もしないでくれ。話しかけないで、黙って僕の指示に従ってくれ……」
騎士の一人がやっとのことでジェインの肩を支え、立ち上がらせた。
「さあ、ジェイン。まずは休め。大変だったな。レーンのことは後で正式に調査が入るだろうから、お前は目を瞑れ。遺体を見るな」
騎士に介助されながら、ジェインは武器庫から出ようとしていた。その視線はアルジントとレーンの方に向けられている。
「レーンさん、アルジントさん……」
ジェインはかすれた声でつぶやいた。
騎士の一人がその言葉に反応する。
「……ん? 今、アルジントって言ったか? ずいぶん昔に死んだ少年だな。飛び級で入学して、頭脳の方も飛び抜けて優秀だったんだよなあ……」
騎士の言葉に揺らぎそうになる感情を、アルジントはぐっと抑えた。
そしてジェインに向けて声を張った。
「……状況が落ち着いたら、ラザーニ校近くのアムール・デ・ロワに来い! 僕たちはそこの地下にいる!」
「……!」
返事はなかったが、ジェインの表情に反応があった。
――きっとジェインはやって来る。
騎士がジェインを連れて武器庫を出て行くとき、入れ違いで救護班がやって来て二人の騎士を担架で運んでいった。
アルジントは考えることを一度放棄して、ルーアとヴェーチル、レーンを連れて武器庫を出た。
そこには、不安そうに立つウェリティの姿があった。
「ああ、アルジント! 今、ジェインが一人で泣きながら出てきたのよ。また何かあったの?」
何も見えていないゆえの不安は当然であろうと思いつつ、全て見えているからこそのやり切れない感情が、アルジントの中に矛盾を生んでいた。
同じ死者であっても、生者の見え方がこれほどまでに異なるとは思いもよらなかったのだ。
「この件はレーン本人にも話そうと思う」
「……そう。アルはどうするつもり?」
ウェリティに訊かれて、アルジントは顔に暗い影を落とした。だが、その瞳の中には強い光が灯っていた。
「……イルバ・マルサスを殺す」
アルジントはレーンと後日会う約束を取り交わして、ひと足先に一人で騎士団学校を出た。
歩きながら先ほどの事件の一連を冷静に振り返ってみるが、身震いしてしまうほどに恐ろしいと思った。
数分前まで普通に生きていた人間が、あんなふうに死者として蘇るのだ。
死者とは、言葉で話すよりもずっと残酷で苦しいものだった。
夕闇を一人で歩きながら、アルジントはリーグルス家の屋敷へ帰っていった。
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