第四章
第一話 リーグルス家
一八八九年八月下旬。
黒い服を纏ったまま、その青年は純白の天井をベッドの上から虚ろに見上げていた。そのまま顔だけを右に向けると、大きな窓を覆う花柄刺繍のカーテンが目に入る。
大層立派な、嘘だらけの屋敷に反吐が出そうになる。
「アル様、ご朝食の準備が整いました!」
部屋の外から、今日も毎朝おなじみの声が聞こえてくる。望んでもいないお世話係を自ら買って出る使用人、エリーだ。
アルジントとは年齢が近いうえに、リーグルス家の屋敷に長く働いているということもあり、ある意味で子供の頃から互いのことを知っている関係性である。
「分かってる、今行く……」
アルジントはため息のような呟きを漏らした。
既に朝の支度は済ませており、いつでも外に出られる準備を整えているが、気持ちが上がらずに再びベッドに寝転んでいた。
このまま部屋の外に出たいと思わないほどには気分が下がっていた。
これほど気が重い日は、最近ではそう滅多にないように思う。
アルジントは重い足取りで階段を下り、食事の間へと向かった。
「おはようございます、アルジント様。皆様お揃いでございます。ダルラス様、ラジェリー様、レンディー様、リース様が中でお待ちです」
その言葉を聞き、アルジントは顔をしかめずにはいられなかった。
「また父上はいないのか」
「はい、ファルコス様はお出掛けになられておりますので」
今この屋敷にいる者は全員が死者である。
だが、誰に暗殺されたのかも、死者であることを自覚している者がどれだけいるかも分からない。
ただアルジントに分かることは、八年の時を経てもなお死者の呪いにより神の国に召されることのなかった外れ者ということだけだった。
そして、彼らはファルコスによって外出禁止令が出されている。だが、それに文句なく従っていることから、彼らも何かしらの違和感を自覚していると考える方が妥当だった。
外出が許可されているのは、その禁止令を出した張本人、リーグルス家当主のファルコスと長兄ダルラス、末弟アルジントだけなのだ。さらに三人ともに外出することはなく、互いの行動を干渉することも禁止されている。
ファルコスの思惑は誰も知ることがないうえに、このような禁止令が出されているがために、父と子らの関係は修復不可能なほどに壊れていた。
「アル! おはよう!」
同じ食卓を囲んでいるにもかかわらず、底抜けに明るい笑顔で手を振るのはリーグルス家長女のラジェリーである。
「……おはよう」
アルジントはさらりと流すように挨拶を返すと、決められた末席に着いた。
「どうした? 元気がないな?」
今度は末弟を気にかける穏やかな低い声が響く。
「いえ、そんなことは……」
アルジントの態度はがらりと変わり、少し焦ったように否定する。
「本当か? 困ったことがあったら、何でも話すんだぞ? 私は父上に告げ口なんてしないから安心していい」
彼の父上絶対主義のついて、アルジントはいつも気に食わないと思っているが、唯一の救いがあるとすればこの状況下においても兄弟姉妹の仲が良いことであった。
「アルは今日も外出するの?」
長女ラジェリーが訊いたため、アルジントは無言で頷いた。
「そう。それなら気をつけてね。私は最近の外の事情は知らないけど、今度お父様のいないところで色々教えてよ」
「……それは、僕には判断できないと思うが」
父の禁止令に批判的な考えを持っているアルジントだが、それを破る勇気はなかった。
ダルラスがひと言、長兄として声をかけた。
「私からは特段言うこともない。……だが、ラジェリーに同じく、外出する時は気をつけるように」
自室に戻ったアルジントは、箒を持って床を掃除するエリーの姿を見つけた。
実にタイミングも悪く、彼女の行動はいつもどこか非効率で目に余るが、余計な気を遣わなくて良いのは幾分楽であった。
「お疲れさまです、アル様。もう出発されますか?」
エリーが振り返って訊いた。
「……もう少ししたらな」
アルジントは部屋のソファーに崩れるように身体を委ねた。
「あら、どうかされました? 今日はいつも以上にご機嫌がよろしくありませんね?」
エリーはふわりとした笑みを浮かべながら言う。
「今日の外出はあまり気乗りしないんだ。……こう言ったら怒るかもしれないが、僕も父上に行動制限されたら良かったのにって思う」
アルジントが言うと、エリーは真顔で首を傾げた。
「それでも外に行かなければならないのですか? 嫌なら、やめればいいのに?」
言われてやめられるものなら、とうにやめている。
アルジントはため息を漏らした。自分にはやめるという選択肢はないのだ、これも死者の解放のためなのだから。
「……エリーは外に出たいと思わないのか? どうして真っ直ぐに父の指示を受け止められる? こんな屋敷、出て行きたいと思わないのか?」
「まさか! 思いませんよ、そんなこと。私のように子供の頃からここで働かせてもらっている身としては、帰る場所もありませんしね。それに、アル様のお母上が消息を絶った約一〇年前、複数の使用人が同時に消息を絶ちましたよね? お父上が変わったのもその頃でしょう? ……私、思ったんですよ。今、何かものすごく大変なことが起きているんじゃないかって」
まさにその感覚こそが死者である証拠なのだ、とアルジントは心のなかで呟く。
「……本当にお人よしだな。僕なら耐えられる気がしない、どちらの立場であっても。父上が理由もなく僕を野放しにしているとも到底思えないんだよ。……つまり、僕を自由に動き回らせるのも、父上に何かの思惑があるからなんだろう。結局、どこにいても僕は籠の鳥ってわけだ」
卑屈になるアルジントの方へ、エリーが箒を持って歩いてくる。
「最近は少し明るくなったと思っていましたが、そんなこともありませんでしたか。……まあ、いつか誰かが取り籠を開けてくれること願うしかありませんね。私にそれができる力があれば良かったのですが、申し訳ありません」
アルジントの灰色の瞳がエリーを静かに見上げた。
「……いいや、いいんだ」
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