第八話 幽霊屋敷(1)

「ルーア、まだ帰らないの? 今日調子悪そうだったし、体調不良なら私が途中まで送っていこうか?」

 終業の鐘が鳴った後、エマが帰り支度をしながら訊いた。

 座席についたままのルーアは、困ったような笑みを浮かべながら、静かに首を横に振る。

「ありがとう、エマ。でも、本当に大丈夫なの。……少し休めば大丈夫だから」

「そう? ……じゃあ、私は帰るね」

「うん、またね」


 いつも通りに授業を受けていたはずが、自分でも無意識のうちに話しかけづらい雰囲気を作っていたのだろう。

 それもやむを得まい、と思った。この気持ちはおそらく話しても誰にも分かるはずがないのだから。


 エマを教室で見送った後、ルーアは無機質な天井を仰ぎ見た。


 何も考えずに過ごしていた、昨日までの平凡な日々が懐かしい。

 あの朝の登校時、ヴェーチルに会わなければこんな事にはならなかったのだろうか。

 ――そう思うと少しだけ悔しい。


 母親には帰りが遅くなることを伝えたが、あの研究室での出来事だけは話すことができなかった。

 全て夢で、実はこれらの話は嘘だったのではないか――そう思えてならない。




 ルーアは研究室に続く階段を降りていくと、研究室の中からは人の声が漏れ聞こえていた。


 扉の前で一度深呼吸する。


「……失礼します」


 ルーアが中に入ると、三人の視線が一斉に自分の方へ向けられた。

 やはり、この感覚はしばらく慣れそうにない。


「こんにちは、ルーア。……全員揃ったことだし、行きましょうか」


 ウェリティの声に反応して、アルジントが最初に椅子から立ち上がった。


「……じゃあ、これから案内する」



 アルジントを先頭にして、四人は研究室を出た。

 地上のカフェ、アムール・デ・ロワへ続く暗い道を、ゆっくりと進んでいく。

 到着した民家は相変わらず店主不在であった。だが、先日飾られていた棚上の赤い花は、今日は黄色い別の花に変わっている。

 誰かがここで生活していることは間違いないが、ウェリティやアルジントも何ら抵抗感を持っていない様子だった。



 ランゲル地区に続くメインストリートを歩きながら、ルーアが目にしたのは行商人や下級貴族と思しき人々の姿だった。ネルソン村出身のルーアがここを歩くことは滅多になく、珍しさのあまり視線をどこか一つに留めることができない。


「そんなに珍しいか?」

 落ち着いた声でアルジントが訊いた。

「もちろん。普段はここまで来る必要も、理由もないから。……あの、少し気になってたんだけど、アルジントは学校って――」

「僕の八年間の記憶の中では、騎士団学校に通っていたことになっている」


 記憶の中――それはつまり、生者と共有された過去ではないということだ。アルジントの記憶にしか残っていない過去ということになる。


 ルーフェス旧市街では、騎士になる者は騎士団学校へ通う必要がある。入学するために筆記と実技の試験に合格しなければならず、一〇歳以上の男性には学校への入学資格が皆平等に与えられている。

 だが、努力では補えない勉学に励むための資金や環境を手に入れることは容易ではない。それゆえ、一般庶民には限りなく狭き門なのだ。

 

 ウェリティが悲しそうな笑みを浮かべた。

「私たちには将来なんてないの。だって、もう死んでるんだもの」


 将来がない――その言葉がルーアの胸にも深く突き刺さった。


 自分が思い描いていた将来はそんなに立派ではなくとも、せめて母親に親孝行をして、普通に生きて、死にたかった。

 まだ自らが死者であると根拠を持って認めたわけではないのに、それを否定できないことが何より悔しい。



 ヴェーチルがルーアの肩にそっと手を置いた。振り返ると、彼の目は真っ直ぐに前だけを見つめていた。


「君だけじゃないよ、みんな同じだ。全てはこれから始まるんだから」




 ランゲル地区にほど近い場所に、目的の屋敷は建っていた。

 白一色の外壁に、華やかな外観が目を引き、光沢のある薔薇の彫刻が門の両側を彩っている。


「ここはリーグルス公爵家の屋敷だったのよ」

 ウェリティは哀愁を漂わせた瞳で荘厳な屋敷を見上げていた。


 門は開いたままでルーアが屋敷の敷地内に足を踏み入れた瞬間、先頭を歩いていたアルジントが身を翻して立ち止まった。


「ルーア。君の目にはこの屋敷がどう映っている?」


 アルジントに無表情でじっと見つめられたルーアは、石化したように身体を硬直させた。


 質問の意味がよく分からないが、ウェリティとヴェーチルも黙ってルーアの回答を待っていた。


 だから、嘘偽りなく本当のことを言った。


「素敵です。薔薇園も綺麗に手入れされていて、屋敷全体が華やかで、とても美しいお屋敷だと……」


 小さな子供でも言えそうな感想だったが、ルーアの本心がそれだった。


「……そうか」


 アルジントは表情を変えずにそれだけ言うと、くるりと正面に向き直って再び歩き出した。


「今からお茶でもご馳走しよう」

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