第六話 死者
ルーアは緊張して両手を膝の上で握りしめていた。
気のせいとは思えないほどに、この研究室内はひんやりとしている。根拠はないが、おそらく地下の冷気が漂っていることだけが理由ではないだろう。
「まず、あなたに質問をさせてね。『死者』ってこの世に存在すると思う?」
唐突な質問に、ルーアは目を泳がせた。
「ししゃって、使いの者ですか? それとも――」
「死んでいる人のことよ。率直に答えて欲しいの。私はあなたの考えを聞きたいだけなのよ」
率直に言えるほど簡単ではないであろう死の概念。
柔らかに微笑むウェリティの表情がルーアをより恐怖に掻き立てていた。
ウェリティの視線は一瞬たりともルーアから逸れることがない。
「……二択で答えるのなら、私は存在しないと思います。聞いたこともないので」
自信なく発したルーアの言葉に、ヴェーチルが頷きながら同意を示した。
「うん、普通はそう答えるよね」
ルーアは少しほっとしたように息をつく。
だが、安心したのもつかの間で、次のアルジントの一言で感情は不安へと逆戻りした。
「ならば、もしも『死者』が存在していたらどうする?」
そんなはずはない――とルーアは思った。
たった今、「存在しない」とヴェーチルから同調を得られたばかりなのだ。
「死者は、この世界で生活できませんよね? 生きている人と死んでいる人が同じ世界にいるわけない……ですよね?」
「ふうむ。これは手こずるな……」
アルジントは動じることなく、溜め息混じりに呟いた。
ヴェーチルですら、何も言わず寂しそうに笑みを含ませているだけである。
ウェリティは軽く咳払いをすると、ルーアに澄んだ瞳を向けた。
「ルーア、あなたの考えを教えてくれてありがとう」
そう言うと、わずかに目を細めて話を続けた。
「私たちも、あなたの今日までの価値観や生活を崩したくはないんだけど、この先あなた自身がつらくなる前に知っておいてほしいことがあるの。これを伝えることが私たちの役目だから。……私たちは『死者』なのよ」
ルーアは頭の中の整理が追い付かず、彼女の言葉をすぐに理解することができなかった。
――死者? この人たち、何言ってるの?
突然、自分たちが「死者」だと告白されても、ルーアは当然信じられるはずがなかった。
彼らが死んでいるならば、なぜ会話をすることができるのか、全くもって理解が及ばない。
ヴェーチルなら何か言ってくれるのではないだろうかと少しだけ期待したが、彼の顔にはそんな余裕がないとはっきり示されていた。
唇を真一文字に結んだヴェーチルは、喉の奥から震える声をしぼり出した。
「ルーア、ごめん。今はまだ、信じてもらえないと思う。本当に、ごめん……」
ルーアは全身から血の気が引いていくのが分かった。
怖いという感情を通り越して、おぞましさに鳥肌が立つ。
ここにいては頭がおかしくなるような気がして、首を何度も横に振った。
目の前にいる三人が既に死んだ人ならば、早くここから逃げ出さなければならない。こんな場所に長居なんてできない。
勢いよく立ち上がった瞬間、椅子がガタリと大きな物音を立てて背後に倒れた。
座っていた椅子に触れることすら嫌だった。
倒した椅子を無視したまま、ルーアは三人に背を向けて研究室を出ようと扉に手をかける。
「ルーア、お願い。お、お願いだから、まだ行かないで……」
ルーアを呼ぶウェリティの声は、まるで泣いているかのように震えていた。
人間が持つ生々しい感情が込められた声が、ルーアの胸に深く刺さった。
身を翻してウェリティの姿を見ると、彼女は椅子を立ち、灰色の瞳をルーアにまっすぐ向けていた。
ヴェーチルは歪めた顔を虚ろに俯かせ、アルジントは腕組みをしながら、長いまつ毛を物憂げに伏せている。
「だって、私は――!」
――死んでいないから。あなたたち三人とは住む世界が違う。
そう言いたかった。だが、言葉にできなかった。
今、ルーアが見ている三人の姿は、どう見ても生きている人間と何も変わらなかったからだ。
もちろん彼らが死者であることを完全に信じたわけではない。今は信じるに足るほどの根拠がないことが、むしろルーアにとっては救いだった。
「今はまだ信じることはできません。でも、嘘をついているわけじゃないんですね……?」
ルーアが三人の顔を順番に見ると、彼らはゆっくりとうなずいた。
それでも認めたくない現実に、ルーアは下唇を噛みしめた。
「なぜ私に話そうと思ったんですか?」
ヴェーチルの視線が不自然に横にそらされた。
「君とぶつかったから、ウェリティ先生とアルジントに会わせる必要があるんじゃないかって思ったんだ」
「これが運命の出逢いだったら良かったんだろうがな」
アルジントの何気ない言葉にルーアは目をしばたたかせた。彼の発言が一瞬だけ場の空気を変えたのは事実で、ヴェーチルは寂しそうに笑った。
「俺としては、正直複雑な気持ちだよ」
ルーアが不安そうに立ちつくしていると、アルジントが口を開いた。
「まずは椅子に座ってくれ。……正直に言おう。僕は、君がここに来てくれて本当に良かったと思っている。ヴェーチルの遅刻が役に立つことも初めて知ったしな」
「そりゃあどうも」
ヴェーチルは顔をしかめていた。
この二人のやり取りに、ルーアは口元を少しだけ緩めてしまい、慌てて無表情を取り繕った。
不覚にも、死者たちの会話を真に受けてしまうところであった。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「何だ? 話は聞くが、それならまずは椅子に座ってくれ」
ルーアはためらいがちに頷いた。
椅子に座れば立ち去るタイミングを逸するような気がしたが、この目の前の三人に悪意があるようにも思えない。
死者に足を引っ張られたのかもしれないと、頭によぎらなかったわけではない。
だが、ルーアを受け入れようとする彼らの姿は、生者となんら変わらず、死に誘う死神の類とも違うように見えた。
窃盗や殺人などの悪事を働いた生きた人間よりも、彼らはよほど人間らしく、感情や表情が豊かなのだ。
ルーアは倒した椅子を元に戻すと、その椅子に静かに腰を下ろした。
「じゃあ、教えてください。なぜ、私はここに呼ばれたんですか? 呼んだのは皆さんなのに、私が来たら浮かない顔をしているのはおかしいと思いませんか? どうして他の人じゃいけなかったんですか?」
死者の三人は互いに視線を交わした後、最初に口を開いたのはヴェーチルだった。
「それは……」
言いかけた瞬間、アルジントがヴェーチルの顔の前に手をかざして言葉を制する。
「待て。話すより見せた方がいい。その方が信じてもらえるだろう」
「でも、このままじゃルーアに不安な思いをさせてしまう。せめて、なぜ死者が存在しているのかを教えた方がいいよ」
二人の意見対立にウェリティは口を挟むことなく、黙ってまぶたを閉じる。
その数秒後、彼女は揺らいだ瞳を開き、悲しみに満ちた笑みを浮かべた。
「……まずは死者のこと、私たちのことを簡単に話しましょう」
ウェリティは研究机の上に置いていた分厚い書物をローテーブル中心部にどんと置いた。
その表紙は全て布製でタイトルは書かれていない。全体が茶色にくすみ始めているものの、古書というほど経年劣化もなさそうである。
ウェリティは折り目がついた跡が残る頁を見開くと、ルーアの方へ本をくるりと向けた。
「ここを読んでみて」
手書きの文字がずらりと書き連ねられている。ウェリティが示した場所を、ルーアは目で追いながら読み始めた。
身を乗り出すことはせず、あくまで冷静さを貫く姿勢で。
ウェリティがゴホンと軽く咳払いをすると同時に、ルーアは書物から目を離した。同時に、ヴェーチルとアルジントの視線もウェリティに集中する。
「ここに書いてあるとおりだけど、真実を口頭でも説明しましょう。この本は、私が嘘を吐いていないという証拠だと思って欲しいの。昔、私が死にまつわる研究をしていた時にある牧師さんから譲り受けた書物よ。これには『死者』の存在について書かれているわ」
ルーアはごくりと唾を飲み込み、緊張に顔の筋肉が痙攣を始めた。ウェリティの視線は正面に座るルーアを真っ直ぐに捉えている。
「死者とは、不慮の事故などで死んで、その場で生き返った者のこと。死んだ経験のない生者と最初は区別がつかないわね。見た目は同じで、実体もあるし五感もある。人間としての欲求もあるし、感情もあるから。まあ、生者にも色々と体質があって、私たちが見えにくかったりする場合もあるようだけど」
ルーアはエマのことが頭に浮かんだ。これは既に経験済みのことである。
「でも、死者は世の理に反して偽りの歴史を生きているだけなの。だから、おおよそ八年程度経てば死者はすべての生者に見えない
「じゃあ、八年経って、突然昨日まで仲良くしていた人の姿が突然見えなくなるんですか? 生きている人はどうなるんですか?」
「その視点は生者目線ね。生者はただ変わらず現実を生きるだけよ。八年前に既に友人が亡くなった現実を受け入れているでしょうね。むしろ混乱するのは死者の方。八年を経て正しい歴史を知ることになるから、死んでから生者と過ごした八年間は、死者の記憶にしか残らないの」
「……難しいです。死者は、それでも死者として生き続けるんですか?」
「そうね。簡単に言うと、死者はただの死亡者になってしまうけど、魂はこの世に留まっているから
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