第五話 放課後の研究室
ネルソン村にある白屋根の家の二階、その一室でルーアは目を覚ました。
カーテンが太陽光を吸い込んで室内を眩しく照らす。
ゆっくりする時間はなく、颯爽と身支度を整えて一階へ降りていく。
汲んだ井戸水で顔を洗って食卓に向かうと、白パンとハーブの香りが立ち込めるスープが並んでいた。
背を向けながらキッチンに立つ母親が、忙しそうに手を動かしている。
「ゆっくり休めた?」
母の柔和な笑顔を見て、ルーアはなぜだか安心感を覚えた。
「うん、大丈夫。それより、お母さんも無理しないでね。今日は出かけるんでしょ?」
「ええ、私はただの買い物だけどね」
温かな朝食を済ませると、服の乱れなどを母親に確認してもらい、家を出た。
この日、時間に余裕を持って家を出たためか、昨日ヴェーチルと出会した街角を通りがかった際も、彼を見かけることはなかった。
良かった、と心底思った。
昼食後も友人のエマから散歩の誘いを受けたものの、ルーアは体調不良を理由に断った。
手洗い場に行くことを除き、教室内で延々と机に向き合っていた。約束の放課後が近づくにつれて、人知れず緊張感を高めながら、気の休まらない時を過ごしていた。
***
終業の鐘が鳴り響き、ルーアは自席に座りながら両手をぐっと膝の上で固く握りしめていた。
何度も無意味に手洗い場と教室の往復を繰り返し、耐えきれない腹痛を装った。
生徒が教室から去っていくのを待ち、人が減り始めたことを確認してから帰りの身支度を始める。
鞄に詰めた教科書や筆記具が登校のときよりも重く感じた。それはまるで近い未来に対する忠告のようにも思えたが、今日の約束を守らなければもう二度とヴェーチルと会うことができないような気がした。
ルーアは緊張した面持ちで一階へと降りていくと、人気のない薄暗い廊下をゆっくりと進んだ。
目的地へ続く階段前に着くと一度立ち止まり、ぐるりと周囲を見回す。この階段は学校の隅に設けられた階段であり、人目に付きにくい場所にあった。一階の高窓が南東向きになっているため、午前中は日光が入りやすいが、日暮れを待つだけとなった今、階段付近は想像以上に薄暗い。
ルーアは暗闇に吸い込まれていく地下をじっと見下ろした。転ばないように細心の注意を払いながら、階段を降り始める。
「怖くない」と言い聞かせながらも、闇に飲み込まれるようで不安は募っていく。この場所は何回通ったとしても、しばらく慣れることはなさそうだ。
ここに地下研究室があることを知っている人はどれほどいるのだろうか。
到着した突き当たりの場所には、昨日と同じ鉄製の扉が確かに存在していた。
観察するように眺めていると、扉の上部に「研究室」と文字表記されていることに気がついた。
手のひらでそっと扉に触れてみると、ひんやりと冷たく、慌てて手を引っ込める。
呼吸を整えてからもう一度、今度は右手を拳にして扉に向けた。
昨日のヴェーチルをまねて、三回ノックする。
「どうぞ」
研究室の中から女性の声が聞こえた。
ルーアは聞き覚えのあるその声に少しだけ安心して、取手を両手でつかんで重い扉を引き開けた。
「失礼……します」
ルーアは部屋の中を覗き込んで中に入ろうとした時、途端に足がすくんだ。経験したことのないほどの恐怖という感情。
お世辞にも広いとはいえないこの研究室の中に居たのは三人の人物だった。彼らはモノの価値を査定するかのように、ルーアの姿をじっと見つめていた。
先輩のヴェーチルと研究員ウェリティ。そして、異彩を放つ黒服のローブに身を包んだ赤茶の髪をした青年。
研究室の中心部には、昨日はなかった楕円形の木製ローテーブルがあり、それを囲むようにヴェーチルと謎の青年が向かい合うように座っていた。
天井にはランプが吊るされて、ほのかな薄明かりが部屋全体を照らしている。
ルーアは来てはいけない場所に来てしまったのではないだろうかと、鉄の扉を背中で押し開けながら後ずさりした。
ウェリティが自席から立ち上がると、両手を前に広げて微笑みとともにルーアを迎えた。
「さあ、寒いでしょう? ようこそ、ルーア。狭いけど、そこの椅子に座ってちょうだいね」
ルーアは身を縮ませながら、断るすべもなくコクリと頷いた。
こじんまりとした研究室の中を見回して椅子を探したが、緊張のせいで見ているものをすぐに頭で認識することができない。
目を泳がせながら部屋の中を見回していると、見かねたヴェーチルが壁の隅の椅子を持ってルーアの目の前に置いた。
ルーアはこの居心地の悪さに逃げ出したい気持ちを抑えながらも、ヴェーチルに礼を言って椅子に座った。
ウェリティも自席から移動してローテーブルの前に腰を下ろし、何やら密会が始まりそうな雰囲気である。
「それでは、自己紹介をしましょう。まずは私から。私はこの学校で研究員をしているウェリティよ。名前で呼んでちょうだいね」
突然始まった自己紹介タイム。
ルーアはぎょっとした表情でウェリティを見た。まるで「これからよろしく」と言わんばかりの自己紹介に、どのような顔で聞けば良いのかルーアには分からなかった。
「今日はヴェーチルがいきなり誘ったりして、本当にごめんなさいね。驚いたでしょう?」
ルーアは愛想笑いを浮かべた。
ちらりとヴェーチルを見ると、彼は気まずそうに苦笑している。昨日の昼休みの冷たい印象から一変して、ここには第一印象どおりの柔和で優しげなヴェーチルがいた。
会話の独特なテンポに馴染むことができないまま、そんなことはお構いなしに自己紹介はヴェーチルに続く。
「俺からは、まず最初に謝るね。昨日の休み時間は冷たい態度をとって本当にごめん。改めて、俺はヴェーチルだよ。年も一番近いし、これからは気軽に声かけてね。今日は来てくれて本当にありがとう」
優しい口調で偽りのない穏やかな表情を見せるヴェーチルに、ルーアはここに来て初めて安堵した。
ヴェーチルの言葉に続けて、まだ名前の知らない青年が名乗るより先に口を挟む。
「そうは言っても、ヴェーチルの性分で気にしないはずないだろうな」
どこか気に触るような口調に、ルーアは思わず顔をしかめた。嫌味というより無愛想で感情がまるでないような、ヴェーチルと正反対の印象である。
よく見れば、彼の衣服の胸の辺りには紋様が入った刺繍が施されている。彼が自分と同じ一般人でないことは一目瞭然だった。
なぜこの場所にいるのかは分からないが、それよりもローブの内側から覗く物騒なモノに気がついて、ルーアは背筋を強ばらせた。
その形状を見る限り、剣を腰に提げていると思われた。
その青年は突拍子もなく、何かを思い出したかのように再び口を開いた。
「ああ。挨拶が遅れたな」
へ? とルーアは目を丸くして青年の顔を見た。
「僕の名はアルジントだ。……というか、なぜ君はそんなに硬い表情をしているんだ?」
自己紹介をされて早々にルーアは指摘を受けた。随分とストレートな物言いだが、案外話せば通じる相手のように思えなくもない。
「す、すみません。つい……」
「なぜ謝るんだ?」
アルジントはルーアをじっと見て、首を軽く傾げていた。
ルーアはその答えに迷いながら、アルジントのローブの内側から覗く剣にチラチラと視線を送る。
彼はその様子に気がつくと、「ん?」と声を発して腰に提げた剣の柄に左手を添えた。
「これは別に大したものじゃないから気にしなくていい」
ぶっきらぼうな口調で淡々と応えるアルジントに、ルーアは眉を寄せた。たいしたものかどうかの基準は、人によってだいぶ変わる代物であろう。
ルーアは三人の視線が自分に向けられるのを感じて、自己紹介の順番が自分にまわってきたことを知る。
再び全身に緊張感が走り、顔が火照り始める。何のための自己紹介なのかも分からないが、ひとまず変な印象を与えることだけは最低限避けておくことにする。
「……私は、ルーア・イージェルです。何のために呼ばれたのかよく分かっていないのですが、よろしくお願いします」
今できる精一杯の自己紹介をした。ほっとひと息つきたいところだったが、目の前の三人が互いに顔を見合わせたので、ルーアは何かおかしなことでも言ってしまったのだろうかと心細くなった。
姿勢を正したウェリティが、ルーアの顔をじっと見据えた。表情は真剣そのものである。
「……それじゃあ、私の方から話をしましょうか」
何も分からない状況の中で、これから順を追って説明してくれるというのなら、その話を聞くしかないのだろう。
ルーアはウェリティの目を恐る恐る見返した。
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