オルフェウス

下剋上 1話

覚えているのは、汚いスラム街の臭いだった。

 俺を産んだ親の顔は知らない。

 赤ん坊だった俺が、物心つくまで、どのように育てられていたのかも知らない。

 恐らく、スラム街にいた誰かが哀れに思って、育ててくれたのだろう。


 物の名前や簡単な受け答えができるようになったのは、冬を四度ほど越した頃だった。


 俺の日課は物乞いだった。

 これで何かもらえれば運が良い方だ。優しそうな人に手を差し出し、目を潤ませてやる。食べ物か金を恵んでもらえたら「ありがとう」と欠かさずにお礼を言う。これでリピーターになってくれたら超ラッキーだ。今の所、そんな人物が二、三人はいる。

 多く食料が手に入った時は、スラムの他の仲間にも分けてやる。俺にはリピーターが多い方だったから、周りの奴も助かっていたはずだ。


 ある日のこと。戦利品もなく、今日は飯抜きかと思っていた頃だ。

「こんばんは」

 中年の女だった。初めて見る顔だ。

 そいつは俺を見ると、すぐに「私のお家にいらっしゃい」と言った。

 飯がもらえそうなら、多少怪しくても付いていく。やばくなったら逃げればいい。


 女の家は中流階級が住むエリアにあった。

 金を恵んでもらえた時に買い物に来る店がある。

 普通の一軒家に通されると、俺は久しぶりに水浴びをさせられた。いや、温かい水だったので、正しくは「お湯浴び」か。

 女は何やら良い香りのする、ぬめっとしたもので、俺を洗った。

 俺はされるがままになっている。大人には抵抗しても無駄だ。それに、この女は悪いことをしているようには感じなかった。


 体を洗われた後、今度は白いタオルで全身を拭かれた。

 そして、新しい服を着せてもらった。

 ここまでしてもらったのは初めてだった。

「ありがとう、ほんとうに」

 俺は何かしておらう度に、礼を言うのを欠かさなかった。この女がずっとリピーターになってほしいと思った。


「うん、大丈夫」

 女は綺麗な服を着た俺を、思いっきり抱きしめた。

 とても温かかった。


「そうだ! あんたの名前は?」

 今、思いついたように、女は言った。

 名前、か……。

「な、名前は、わからない……」

 スラムでは「おい」とか「そこのガキ」と呼ばれていて、それで十分だったので、固有名詞は必要なかった。

「そっか、なら私が考えておくね!」

 何故か嬉しいような気がした。

「じゃあ、ご飯作るから、ここで座っていて」

 俺はテーブルの前の椅子に座った。

 女は厨房で何かを作っていた。美味しそうな匂いに、俺の心が躍った。


「できたよ。今日はオムライスだ。さあ、召し上がれ」

「ありがとう。いただきます」


 生まれて初めて、出来立ての料理を食べた。

 世界には、こんなに美味しいものがあるのか、と驚いた。

 美味そうに食べる俺を、ばあさんはニコニコしながら見ていた。

 

「あんたの名前はオルフェウス!」

「おる、ふぇう、す?」

「そう! さっき決めた! 神話の登場人物から取ったのさ」

「おるふぇうす」

「うん! よろしく、オルフェウス!」


 

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