第5話

 人生というものはプラスマイナスゼロになるものだと、私はそう信じている。

 例えて言うなら学生時代一人ぼっちだったから本を読んでいた人。

 その時にはきっとマイナスだったかもしれないが、その時間のおかげで小説家になれた……みたいな。

 きっと現在の不幸は未来の幸運に繋がっていると勝手に思っている。

 じゃあ現在の幸運は……

 私は蛹にそれが降りかからないことを願っている。


 夏休み明け。

 私が夏休み最終日に全力で取り組んだ宿題はさておき、クラスメイトが憂鬱だとか、億劫だとか、早くも冬休みが待ち遠しいとか、そんな騒々しい声を放っていたのを聞きながら朝のホームルームを待つ。

 蛹はタオルを首に掛け、いつも通りベルが鳴る寸前で教室に駆け込んできた。

 蛹は朝、一番最初にグラウンドに来て一番最後までひたすら走る。

 その姿を私は見たことがないが、まるで般若が宿ったかの表情で、真剣に、全力で走ると私は伝え聞いた。

 老紳士のような雰囲気の先生は、蛹に遅刻寸前ということをどれだけ嗜めても効果がなかったからか、はたまた陸上で成績を残しているからか彼は呆れた顔こそ見せるも何も言わない。

 急いできた蛹の額から、うなじから、スカートに覗かれた足からきらりと光る汗が吹き出しているのが分かる。

 首に巻いているタオルは飾りか?

 彼女は「めんどくさい」と言ってなかなか汗を拭こうとしない。

 女子としてはどうなんだと言いたくなるところだが、私にはそれがまるで一等星のように輝いて見えていた。

 というか私は何をジロジロと見ているのだろう。

 自分が恥ずかしくなってきた。

 そう思いながら、蛹を見ていて何も耳を傾けていなかったホームルームがいつの間にか終わると、私は蛹のもとへスタスタ歩く。


「ハロー、菫。」

 今の時間帯はグッドモーニングのような気もするが、彼女は先ほどのタオルをネックファンへ付け替え、近づいてきた私にやわらかな挨拶をした。

「あれ、その膝、保健室に行かなくていいの?

 あ、おはよう」

 私が挨拶をする前に気づいたのは四方約三センチメートルくらいに広がる明らかな出血だった。

 朝練をしているときにこの傷を負ったのか、両方の膝から同じように血を流していた。

 ただ幸いにもそれは深くはないようで、放っておくだけでも十分血小板のはたらきで傷口が塞がるだろう。

「こんなん大丈夫やって。

 唾つけるどころか、汗に濡れるだけでもなおるわ」

 彼女は迷信未満のことを笑顔で言う。

「保健室には行かなかったの?」

「練習の最後らへんで転んだから、行ったら遅刻なってまうし。

 てか、あっつー」

 彼女は汗まみれの顔を冷やしに手洗い場へと向かっていった。


 今思えば、この傷は伏線だったのかもしれない。

 この傷は布石だったのかもしれない。

 この傷は警告だったのもしれない。

 あんな悪夢が訪れるなんて、夢にも思っていなかった。

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