百七十四話 笠司、白露(一)
屋上に繋がる扉を開けると、薄い雲がちの白っぽい空が広がっていた。朝の空気は先週にくらべてあきらかに涼しくなっている。暑かった夏もあと数日で終わり。季節は確実に秋に切り替わりつつある。
ペントハウスの扉にノックをし、間を置かず引き戸を開く。中に人は居なかった。
「この週末はちゃんと自宅に帰ったんだ」
口に出して
八月最終月曜日朝八時のまだ冷たい手すりに身体を預け、視界を上下に分断する白い高架線路を西に向かって突っ走る東海道新幹線を見送る。東京ビッグサイトで行われる僕のはじめての担当ミッション、はしくらの展示ブースは来週だ。
十六輌の長い編成が消えきらないうちに視界に入ってきた新幹線が西から東に疾走するのを眺めながら、僕の脳内は地下駅のコンコースを遠ざかっていく波照間さんの後ろ姿を再生していた。
「嫌われちゃったかな」
この一週間、何度か思いだした彼女との淡くときめくやりとりは、いつもこの映像でぶつりと途切れる。
せっかく穏やかで悪くないコミュニケーションができそうだったのに、へんなテンションで暴走したゆかりんの所為でぶち壊しだ。「新しい彼女」なんて根も葉もない情報で波照間さんに良からぬ印象を押しつけやがって。こんなんじゃ、来週火曜にどんな顔して挨拶すればいいのかもわかんない。
とにかく仕事で不手際するのだけは、少なくとも避けとかないと。
頭の中で来週までのタイムテーブルとチェックリストをおさらいする。そういえば先週ヘルプで入ったイベントの報告書なんかもまとめないといけない。
背景イメージだった波照間さんの後ろ姿にえりかさんの顔が被さった。「演りたいのはロック」と言い切ってにやりと笑う、挑戦的な女の顔。
柔らかな笑顔で他愛ない会話を紡ぐ波照間さんと、エネルギッシュな話しぶりで引っ張りまわしてくるえりかさん。想定外の勢いで脳内リソースを浸食し始めたふたりの存在に、僕は困惑している。なにをどう対処すればいいのかぜんぜんわからない。そもそも、自分はいったいどうしたいのか。
「気持ちはその都度言葉にして伝え合う。どちらかが必要と感じたら、その日のうちに」
不意に、超絶美人の横尾先生が口にした空港のレストランでの台詞が蘇る。
気持ち? 気持ちってなんだ? 僕はいったいなにを求めているのだ?
出口の無い後ろ向きの記憶をエンドレスで繰り返すばかりだった僕の脳内中枢は、いきなり現れたスタートラインの予感でヒューズが焼き切れそうになっている。クールダウンしないと。
自分にとって今もっとも必要と思われることを、ちゃんとした言葉に変換して声にしてみた。
「とりあえず、朝メシ食いに
*
午後に訪れた大田区の
設営を行うのは開催前日の九月五日。当日は朝八時から作業に入れることになっているが、深夜作業には制限があり、午後十時以降の大掛かりな設営作業は実質禁止だという。サンタさん情報によれば「蛇の道はヘビ」なんだそうだけど、できれば主催者側に睨まれるのは避けたい。
ブース全体の配線と組み立ては午前中に終わらせて、壁紙などの内装を遅くとも十五時まで。調度品や飾り付けは十七時を目処にフィックスしてスポンサーのチェックを受ける、みたいな。そうすれば、手直しに四時間くらい余裕を持たせることができる。
「そんな感じでいいと思うぞ」
一緒に見に来たサンタさんが、僕の考えた時間配分にOKを出してくれた。
*
火曜日の朝、夜勤明けの帰り際に僕の席までやってきた小竹さんが、いつも通り不機嫌そうな顔で尋ねてきた。
「はしくらの彼女は五日の何時に現地入りしてくんだ?」
「十時くらい、と聞いてます」
「じゃあ、俺もそんくらいに現場行く。ブースの場所はメールで送っといてくれ」
言うだけ言って僕の返事も待たずに背を向けた小竹さんは、二、三歩歩いて振り返るとこう付け足してきた。
「ちょっとまともなお出かけ衣装で来いって言っとけ。デートとかで着るような派手なんじゃなく、あんま親しくないけど重要な相手んとこ訪ねる時みたいなやつ」
とりあえず頷くしかない僕に向かって、小竹さんはこう続けた。
「言っとくけど、お前も、だかんな」
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