百五十四話 笠司、立秋(一)
「えりかちゃんに会ったんだって」
ずずっと麺を啜りあげ、水でひと息つけてからサンタさんはそう訊いてきた。後まで取っておくウズラを蓮華で避けながら応える。
「MCで来てました。めちゃくちゃ濃くて、押しの強いひとで」
「そうか。相変わらず濃かったか」
目を細めて薄く笑うサンタさん。親戚のおじちゃんかよって感じ。
「くれぐれもサンタさんによろしくって念押しされちゃいましたよ」
今日のサンタさんは、月曜日だからか、珍しく普通に出勤してきた。散髪もしてきたのか、いつもよりさっぱりしている。朝、ペントハウスまで起こしに行くのが空振りになったのはどうでもいいけど、不安になるから予定ぐらいは伝えといて欲しい。このひとの場合、どこか場末の居酒屋でつぶれるまで飲んでそのまま行き倒れるなんてのが普通に想像できちゃうから。
「えりかちゃんはさ、どっかの施設のテープカットが最初だったんだよな」
ラーメンに飽きたらしいサンタさんが、頼みもしない昔話をはじめた。まあ返事しなくていいからと思い、ときどき目を向ける聞いてますよアピールだけして僕は中華丼攻略に専念する。
「頼んでたMCが盲腸になっちゃってろくな紹介も無しに入ってもらったんだ。えらい別嬪さんが来たと思ったけど、喋りはまだ素人っぽかった」
案の定、僕の相槌を待つこともなくサンタさんの独壇場は続く。
「コロナよりだいぶ前だから、六、七年前かな。フリーになって初めての仕事だったんだと。道理でテンポがこなれてなかったわけだ。ところが終わったあとの自己アピールが凄かった。モデルやってたんだけどMCやりたくて独立したとか、今やってるTVなら詳しいとか、なんなら歌も歌える、独学だけど、とか。あんまりしつこく売り込むんで、ちょうどMCが決まってなかった戦隊モノのちっさなイベントに押し込んだんだ。そしたら元気が良くってな」
なるほど。それであのときも戦隊モノもって言ってたのか。
「にしても、よくそんな細かいとこまで覚えてますね、サンタさんにしては」
「俺にしては、は余計だ。とにかく印象強かったんだよ、えりかちゃんは。最初のときからえりかちゃん呼びを強要されたしな。手ぇ掴んで」
やっぱやったんだ、アレ。
僕は握手のときの柔らかい感触ときらきらした瞳を思い出す。
それにしても、六、七年前っていうことは、仮にそのときの実年齢が二十四歳だったとしても今は三十路越えか。とてもそういうふうには見えなかった。
「派手な見た目のわりに随分と努力家なとこがあるからな。現場出るたびによくなってきてる。いまは俺も森下なんかも、MCに困ったときはえりかちゃん、てな感じだな」
「今回は音響さんからの仕込みだったみたいですね」
「手広く営業してんな、えりかちゃん」
話の終わりを予感した僕は、残していたウズラのたまごを口に放り込んだ。
*
今週の仕事は凪だった。直近の現場も無く、報告書やつくりものの進行チェックだけの業務ばかりだったので、連勤の身体にはいい骨休めになった。こういうときに小説の方を進めとかないと。
気がつけば、世間は八月に入っていた。辻からは、仕事がきつい、人間関係がウザい、辞めたい、という立て続けの愚痴メールが届いていた。社会人になって四ヶ月。なるほど、そんなことを言い出す時期なのか。
学生時代のバイトの延長線上みたいな仕事を毎日してる僕には、今のところそんな気持ちのほつれはまったくない。そりゃたしかに他の連中よりも休みは少ないし、残業時間だってたぶん多い。そのわりに給料はたいして多くない。でも辞めたいなんて気はぜんぜん浮かばない。
慣れもあるけど、人間関係が合ってるのかな。
社員の行動にはほとんど口を出してこない永野社長、いいかげんだけど頼りになる
想いは
そこまでいったところで僕は過去を辿る思考に蓋をした。とめどなく溢れ出しそうなものに触れる気がしたから。
網戸を開いて夜気に頭を突き出した。生温く湿気た空気だけど、澱んではいない。
僕は今、たぶん充実している。ごっそりとえぐられた傷はまだ癒えていないけれど、目の前にはやるべきことが横たわり、多少ではあっても世界に必要とされている。双子の弟の呪縛からだって解き放たれている。今はそれで十分じゃないか。
とりあえずは今夜の更新と、明日作業所までチェックしにいく展示会制作物の進行に集中しよう。
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