百九十四話 笠司、白露(十一)
異常に密度の濃かった一週間を終え、季節は秋に、僕は通常営業の新しい週に入った。
六時半に起きていつものコースを走る。いつものコンビニでおにぎりを買い、会社に着いたらシャワーを浴びて汗を流す。お湯を沸かしてサンタさんを起こしてインスタント味噌汁でおにぎりを流し込んだら、しかるべきのちに仕事をはじめる。判で押したような朝のルーティン。
比較的空きのある午前中に、自分用の担当仕事の工程を一覧化したエクセル表をつくる。そろそろ入社半年で、整理しないと混乱をきたす可能性を感じてきたのだ。
佳境に入ってるつくりものはハロウィン関係で、準備してるのはクリスマスと新年の装飾。でもって提案を求められてるのはバレンタインや来年度の企画。
イベントや装飾がメインの僕らの業界は、半年くらい前倒しで企画がスタートする。だから、先週のはしくらのもそうだったけど、今月以降に実施する仕事が、ようやく引き継ぎでなくゼロから手をつけたものということになる。
「キックオフから参加してる仕事ってのは、やっぱ愛着が違いますね」
半分方食べ終えた
「いっぱしのこと言うのは十年早ぇよ。やっとひとつコンプったくらいで。コタから聞いたぞ。先週のビッグサイト、担当が若いべっぴんさんだったっていうじゃねえか。打ち上げで仲良しになったりでもしたのか」
空港で見送ったときの波照間さんの姿が頭によぎり、一瞬目が泳ぐ。
「んなヒマあるわけないッスよ。こっちははじめての担当でいっぱいいっぱいでしたし、そもそも向こうは九州のひとだから、終ったら速攻で帰っちゃいましたって」
「なんだ。打ち上げやんなかったのか。三日も一緒に仕事してたのに冷てえ話だな」
「まあ、展示会するのはじめてだって言ってましたし」
「そういう客にはきちんと教えてやんなきゃダメだっつーの。イベントでいちばん重要なのは打ち上げだ、って。しっかり打ち上げやってひととひととがが知り合ってこそ、次の仕事に繋がるってもんだろ」
森下さんの茶飲み談義を聞き流しながら、僕は土曜日の夜に襲われた焦燥と、そのあとに残った喪失感のことを考えていた。
あのとき僕の中のなにかは、もう一歩踏み出すことを望んでいた。型通りの別れの挨拶じゃない、次に繋げるための明確な一歩を。
次? 次ってなに? 次回の仕事? 運が良ければもう一度くらい行うかもしれない展示会の仕事に再び呼んでもらえるようにするため? 違う。そんなんじゃない。
絡まってほぐし目が見えない思考のかたまりに、
――リュウちゃんがまだ気づけてない気持ちを表す、世界共通のキーワード
僕の、あえて見ないと決めているあさっての方角・・・・・・。
「ほら、なに呆けてんだよ。早く食い終わっちまわねぇと午後の仕事に遅れっぞ」
自分の皿をすっかり空にして爪楊枝をせせっている森下さんが、僕を急かしていた。
*
「出掛ける用があったから、ついでに持って来ちゃった」
ミネラルウォーターのペットボトルを握る
夕方の打ち合わせスペース。僕は受け取った請求書の項目を目で追っていた。といって、わざわざ見直すほどの細目があるわけでもない。
MC・商品紹介(三日間) 一式
「はい、確かに。ご協力してもらえて助かりました。はしくらのひともいいプレゼンしてもらえたって感謝してましたよ」
「はしくらのひと、じゃなくて波照間さんが、でしょ」
笑いをこらえるように下を向いたえりかさんが、上目遣いで僕を見る。
「えりかさん、こないだから絡みますねぇ」
「だぁって楽しぃじゃぁん、こーゆー話。おねえさん、大好物」
僕の抗議など端っから聞く気のないえりかさんは、最初の営業スマイルなどどこにいったかのようにけらけらと笑う。
「ね、ね。笠司クン、今日はもうおしまいでしょ。この前打ち上げできなかったし、今から行こ。一軒目はおねえさんが奢ったげるから」
「一軒目って、行く前からハシゴする気なんですか。まだ月曜ッスよ」
言いながらテーブルに置いたスマホを盗み見る。定時まではあと五分。
「いいじゃんいいじゃん。まだ若いんだからぜんぜん平気だって。ほら、書類なんか仕舞って仕舞って」
*
戸越駅に近いビストロで、えりかさんの追究は再開された。一軒目の蕎麦屋では天ぷら蕎麦や板わさに逃げて話題を避けていた僕も、さすがにここまで詰められると逃げ切れない。
「私が午後イチの回やってるとき、ふたりでしけこんでたじゃん。あんとき
呼び名とか、もうぐちゃぐちゃだよ。僕なんか、もう呼び捨てだし。
「ふたりなかよくお手々つないで出て行ったかと思ったら、あとからひとりで帰ってきたはてちゃん、めっちゃご機嫌斜めだったし」
「手なんかつないでません!」
そんな雰囲気だったじゃん、と笑うえりかさん。僕は黒ビールのジョッキを流し込む。興味本位で頼んでみたけど、苦甘いっていうか。いまいち僕には合わないな、
「
「人聞きの悪い。だいたいなんスか、そのやっちゃってるってのは」
「え? ちょめちょめ」
あんたいくつだよ! 絶対二十はサバ読んでんだろ。
「だからさ、あのはてちゃんの不機嫌は間違いなく痴情のもつれと読んだのよ。リュウジがひとりで先にイっちゃったとか。そうでなきゃ倦怠期」
いったいなんなんだよ、このひとの読みは。そもそも、ちょめちょめなんてしたことないし。
「え? もしかしてリュウジってDT?」
やばっ。さっきの口に出てた?
目の前のえりかさんは、碇ゲンドウのポーズでにまーっと笑ってる。変なスイッチが入った眼だ。
「そっかDTか。えりかちゃん合点がいったよ。ね、リュウジ。えりかちゃんが教えてあげよっか。今夜ならえりかちゃん、空いてるよ」
なんかトンデモナイひとにトンデモナイ個人情報を握られてしまった気がする。こうなりゃもう、酔い潰して忘れさせるしかないか。
僕はえりかさんのグラスにデキャンタのワインを注ぎながら懐柔を謀った。
「まあまあえりかさん、冗談はそれくらいに・・・・・・」
「さん、じゃない! えりか
テーブルを叩き、店内に響き渡る声でそう叫んだえりかさんは、一転した甘い笑顔でこう言うのだった。
「んふん。キンチョーしなくてもだぁいじょーぶだよ。えりかちゃん、すっごくじょーずだから。めちゃめちゃ気持ちよくさしたげる♥」
*
やたらとしなだれかかってくる酔っ払いのえりかさんをタクシーの車内に押し込んで走り去るのを見送ったのは、午前一時を回っていた。
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