百三十九話 瑞稀、小暑(四)
少し早めに出社した今朝は、席に着くなりパソコンを起動させ、真っ先にメールを開きました。あった。ちゃんと届いています、待望の改訂版パースが。
すでに出社されていた灰田さんが缶コーヒーを片手に戻ってきて、私の背後で立ち止まりました。
「おはよう瑞稀ちゃん。今朝は早いね」
「おはようございます。楽しみだったんで、待ちきれずに来ちゃいました。早くパースを見たくって」
「僕もさっき見たよ。よくできてた」
ファイル便のダウンロードももどかしく、画像アイコンに変わった瞬間にダブルクリック。映像が開きます。即座に全画面に。
「おお!」
ひと目で画像の世界につかまりました。これはまさしくすみれさんと一郎さんの生活の場。決して押しつけがましくないのに、眺めているだけでふたりの好みや趣向が浮かび上がってくる。ちゃんとしてるけど雑然とした暮らしの緩みが見え隠れしてて、生きてるひとたちの部屋って感じがしっかりします。前回のも良くできてたけど、今度のは段違いです。
「リアルな隣人の部屋、って感じがするよね。ここまで仕上げてきたパースは僕も見たことが無いなあ。デザイナーの彼の手腕も大きいけど、ここまで描けたのは描き手が細部まで指示に共感できたってことだと思う。だから、そのペルソナをつくりあげた瑞稀ちゃんの手柄でもある」
「いや、私ひとりだけでつくったわけじゃないですし……」
灰田さんに褒められると素直に嬉しい。なんでもできるこの立派な上司にまたひとつ認められたって。この気持ち、皆川さんと共有したいなあ。
「ところで瑞稀ちゃん、気づいた? この中に瑞稀ちゃんがいるって」
「え? どこ? どこですか?」
灰田さんは含み笑いをするだけで教えてくれません。しかたないので私はもう一度画面を見直しました。カウンターの奥の影の中かな……。
「あ」
「ね。いるでしょ」
なんてことでしょう!
壁に架かった民族衣装のすみれさんと一郎さん。たぶん新婚旅行の記念写真。右側の一郎さんの小さく映った顔、毛皮の帽子の下に隠れたその顔は皆川さんじゃないですか。そして、その隣で笑うすみれさんの顔は、なんと私。いったいいつの間に?!
「これ、たぶんZOOM会議のときのスクリーンショットをコラージュしたんだろうね。デザイナーさん、いいセンスしてる。僕はこれ、すごくいいと思うよ」
「笑い事じゃないですよ! この写真、ホントに飾っちゃったらどうすんですか」
私の抗議などスルーするかのように、灰田さんは思いきり破顔しています。
「いやいや、とてもいい案だよ。営業する身としては、むしろ目から鱗だね。この写真見て気づいた人は、確実に瑞稀ちゃんに話しかけてくる。そんな効率のいいフック、なかなか無いよ。本番でも是非このまま行きたいね」
灰田さん、完全に面白がってます。なんなら当日は名札も田中すみれにしちゃおっか、とか言って。もうお話にならない。こちとら結婚どころか彼氏だっていないんですよ!
とはいえ、リアルなパースができあがったことで、準備は次のターンに入ることができます。皆川さんに、OKです、が、壁の写真についてだけは慎重に取り扱いましょう、と返事を送り、私は次の仕事に取り掛かりました。
オルタペストリーのフライヤー。
当日の来場者に持って帰ってもらうツールです。MCさんにお願いしての説明は実施したいと思ってますが、五分程度の口頭説明をせいぜい四~五回が限度。ほとんどのお客様はちょっと寄って、流して去っていくだけでしょう。だから彼らに持ち帰って、あとで改めてみてもらう資料が必要なのです。
「瑞稀ちゃんはああいう合同の展示会に行ったことがある?」
灰田さんにそう尋ねられ、私は小首を傾げます。
この仕事に就いてからは、たぶん一度も無いなぁ。
「大学とか就職のときの合同説明会とかは?」
「あ、それならあります。大学のときに一度だけですけど」
大博通りのつきあたりにある国際会議場で行われた就職説明会。地元企業が五十社くらい集まって、新四年生を対象にエントリーを募るやつ。ゼミの同級生に誘われてブースを何社か回ったけど、正直印象に残ったとこはあんまりなかったなぁ。うちを受けたのも、結局は担当教授の薦めだったし。
「それならたぶんわかると思うけど、ああいう場って資料だけは山ほど受け取るけど、結局そのほとんどが紙切れになっちゃうだけなんだよね。なまじ両面印刷されちゃってるコート紙だから、メモ用紙にすらならない」
たしかに。
「だからね。瑞稀ちゃんにはさ、余所とは違うなにか特別なものを考えて欲しいんだ」
「特別な・・・・・・ですか」
「展示会に慣れてない瑞稀ちゃんならではの、普通の発想じゃないなにか。今回のペルソナも、そもそものオルタの発想も含め、瑞稀ちゃんならなにか、僕では思いつけないものを見つけてくれるんじゃないかな」
「また無理難題を」
期待されるのは有難い話です。でも、なにひとつバックボーンを持たない私にしてみれば、その期待は無謀としか言い様がありません。いったい私のどこに、そんな打ち出の小槌みたいなものがあるってんでしょう。
「まぁとにかく、いずれにしろ新商品のフライヤーは絶対必要だから、まずはそっちをつくってみて。来場者のハートを鷲掴みにするツールは、今のところは気に留めといてくれればいいから」
はぁ、と中途半端な返事を返します。来場者のハートを鷲掴みにするツール、ねぇ。
*
帰りの電車、車両の天井から下がっている新築マンションの広告を眺めていたら、パースの画が頭に浮かびました。あそこに住む夫婦の背景を創造するのは楽しかったな。なんだか小説の設定を考えてるみたいで。もうちょっと先を、なにか物語を考えてみたくなっちゃう。
そこまで考えて私は思い出しました。
そうだ。私も物語を書いていたんだ。エミールの旅。最後に書いたのはいつだっけ。
スマホのツイッターを開き、過去投稿を探します。
最後の投稿は・・・・・・五月二十九日。うえぇ。もうひと月半も滞ってるよ。ていうか、どんな話だったっけ。
病気にかかったお母さんの特効薬を手に入れるため、生まれ育った過疎の村をあとにして行商人リヒラと旅をする異世界の少女エミール。途中出会った、行商の父親を盗賊に殺された男の子ヤナハを同行者に加えると、彼の父の仇を謀って拘束し、持ち去られた積み荷も取り戻すのに成功した。薬があるという街、ニライカナイまではあとわずか。
みたいな感じだったかな。うーん、細かい伏線とかってけっこう忘れちゃってるよ。せっかくその気になったんだし、これを機会に再開でもしようかな。
とりあえず、もう一度きちんと読み返すとこからはじめるとしますか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます