第38話:遭難

 ごぼり、と水を俺は吐き出した。

 咽び泣きながら、砂利の上を這う。


 意識混濁になりながらも、俺はどうにか生き延びたことを実感した。

 水の音から逃れるように這い進む。


 何度も嘔吐を繰り返し、体の中に入り込んだ水を吐き出す。

 肺が、喉が、鼻がきりきりと痛む。


 荒い息を吐きながら、俺は体を地面に横たえ、生に感謝する。


 完全に死を覚悟した。

 剣も魔法も魔獣もまったく関係のないところで死ぬことになるとは思ってもみなかった。


 全身が痛い。

 おそらく水中で岩か何かにぶつけたのかもしれない。


 折れたり出血している様子はなかったが、念のため治癒をかける。

 打撲しているところがあったのか、かなり痛みが引いていった。


 冬でなくてよかった。

 もしこんなずぶぬれの状態で寒ければ、凍死の可能性もあった。


 どうにか立ち上がり、周囲の状況を確認する。

 周囲は完全な暗闇で、河原にいることしか分からない。索敵でも何の反応もなかった。


 短剣はすでになかった。

 おそらく崖から落下したときか、水中で手放してしまったらしい。


 無我夢中でそれどころではなかったから、仕方がない。

 今は生き残れたことだけに感謝するほかない。


 どれほど俺は流されたのだろう。


 水の流れを逆に、つまり上流のほうへ進めば洞窟のほうへと戻れるかと思ったが、そもそもキラーマンティスから距離を取るために一度別の方向へと走っている最中だったから、単純に上流へ行けばいいというわけでもなかった。


 最悪だ。

 

 武器もなければ、食料もない。

 ポケットには後でこっそり食べておこうと思った二欠片の干し肉が入っているだけだ。


 月明かりで薄ぼんやりと周囲が確認できる。

 目の前にあるのは切り立った崖、後方にあるのは流れの非常に強い川。


 できることと言えば、川に沿って上流に向かうか、下流に進むか、それだけだ。

 だが、残念なことに上流へ向かう道は途切れていた。


 元いた場所へと戻ろうとするなら、上流へ向かうしかないが河原は途切れ、崖を上るしか道はない。

 そしてその崖は遥か高く、到底登れそうにはなかった。


 結局のところ、下流へと進むしかない。

 どう考えても困難な状況であるとしか思えなかった。

 

 とはいえ、とりあえずは溺死しなかったことだけでも不幸中の幸いと喜ぶべきか。


 索敵をかけるが、魔獣の反応は今のところなかった。

 敵に遭遇しても戦うすべはない。剣はなく、魔力もほぼ底をついている。


 とりあえず、そこらへんにあった木の枝を集めて火を起こした。

 服を乾かしながら、魔力の回復に専念することにする。


 ディージィ―やライネルは無事だろうか。

 おそらくキラーマンティスを洞窟から引き離すことには成功したはずだ。

 これで失敗したなんてことになっていれば、最悪なのだが。


 焚火を前にしながら、索敵を何度もかけ続ける。

 どこまで流されたのかは分からないが、樹海の深部にまで到達していなければいいのだが。

 

 深部にどのような魔獣がいるのかは知らない。

 だが、キラーマンティス以上の魔獣がいる可能性は高いだろう。

 そんなことになれば、できれば接敵せずに、ひたすら逃げることを選択したかった。


 どれぐらいの時間が経っただろうか、夜が明けようとしていた。

 空が白み始めている。


 だんだんと視界が開けてきた。

 魔力もだいぶ回復してきた。全力とまでは到底及ばないが、数十発の炎弾は可能だろう。


 意を決して、下流へと足を向ける。

 河原をひたすら川の流れに沿って歩き続けた。

 

 太陽がやっと木々の上から顔を出したころに、やっと崖が終わってくれた。

 河原におさらばをして、森の中へと歩みを進める。


 ここからはさらに気を引き締めることになる。

 感覚強化を最大にして、さらに索敵を頻繁にかけ続ける。

 少しでも魔獣の反応があれば、即座に逆方向へと逃げるつもりでいた。


 深部かどうかは分からなったが、樹海の様子は特に変わらなかった。

 特に瘴気が濃いとか、暗いとか、深部ならそんなこともあるかと思っていたのだが。


 まあ、そもそも川の下流が逆に外縁部に向いている可能性もあった。

 そういう意味では、下手をするとこのまま進めばノースライトに到達することもあるのかもしれない。


 深部に流されるよりは、まだノースライトに流れ着くほうがましかもしれない。

 場所さえわかれば、ウェスクに、砦に戻る方法も簡単に見つかるというものだ。


 定期的に河原で拾った石で木にバツ印をつけながら、樹海をさらに進み続ける。

 水すらないので、最悪、来た道を戻って川に辿りつけるように目印をつけていたのだ。


 いつの間にか、太陽が頭上に輝いていた。

 残念なことに、食べれそうな果物は見つからなかった。


 仕方なく、干し肉を一つ取り出し、ゆっくりと咀嚼しながら空腹を埋める。

 これで残る食料は干し肉の欠片が一つ。

 あまりゆっくりもしていられない。

 

 そろそろキャシーは仲間を引き連れて、洞窟にたどり着いているはずだった。

 うまくディージィ―やライネルと合流できていればいいのだが。


 そんなことを考えながら進んでいると、ふいに前方の茂みが動いた。

 慌てて索敵をかけると、微かに魔獣の反応が出る。

 

 反応が小さすぎてここまで近づくまで気が付かなかった。

 一瞬、撤退するかどうか判断が鈍った間に、その茂みから何かが顔を出した。


 それは小さな狼だった。

 生まれたばかりなのか、ノルドよりもさらに体が小さい。


 その狼の銀色の体毛は血に濡れていた。

 どうやら腹に傷を負っているらしい。


「グルゥウ」


 その小さな瞳で俺を睨み、威嚇してくる。

 剣を持っていない俺でさえ、脅威とも感じ取れないほどの小さな咆哮だった。


 死にかけているのだ。

 俺は手をかざし、ゆっくりとその銀色の狼に近づく。


 その狼は後ずさろうとするが、腹の傷のせいか、まともに歩けないようだった。

 俺はさらに近づき、治癒をかけた。


 なぜ回復魔法を使おうと思ったのか、俺にもよく分からなかった。

 多分、傷を治して襲われたとしても、相手にはならないと判断したからかもしれない。


 傷が癒えると、その小さな狼は不思議そうに自分の腹を眺め、ぺろぺろと癒えた個所を舐め始めた。

 

 何となく、俺は持っていた最後の干し肉の欠片を狼の前に差し出した。

 これで食料がなくなることは頭で分かっていたが、そうすることが当たり前だと思ったのだ。


 狼は不思議そうに干し肉を見つめていたが、しばらくして食べ始めた。

 

「グルゥ」


 食べ終えると、嬉しそうに俺に飛びついてきた。

 どうやら、俺を敵ではなく仲間として判断してくれたらしい。

 

「何だ、お前、どこから来たんだ?」


 何とはなしに問いかけて頭を撫でると、そいつは嬉しそうに眼を細めた。

 

「誰にやられたんだ?」


 答えが返ってこないのは分かっていたが、何となく訊いてみる。

 その綺麗な瞳がまっすぐに俺を見つめ返してくる。


 ひとしきり体をもふもふしながら遊んでいると、不思議と心が軽くなった。

 食料は失ってしまったが、樹海で一人でいた心細さが消えたように感じた。


 それと同時に、ここはおそらく樹海の外縁部ではないのだろう、ということに気づく。

 たしか狼系の魔獣はなぜか中腹部か深部にしかいない、とキャシーが言っていたのを覚えていたからだ。


「さて、俺はもう行かないといけないんだ」


 グルゥ? と子狼は不思議そうな顔をする。

 後ろ髪を引かれる思いではあったが、いつまでも遊んでいるわけにはいかなかった。


 水も食料もないのだ。あまり悠長にはしていられない。


 子狼にさよならを言い、俺はとりあえず先に進むもうとする。

 すると、子狼は俺の袖に噛みついた。


「何だ?」


 そのまま俺の袖を引っ張ろうとする。

 

「何がしたいんだ?」


 そう訊ねると、子狼はまるで俺の言葉を理解したかのように、噛んでいた袖を離し、少し離れたところで一つ吠えた。

 俺を真っすぐに見つめるとまた一つ吠え、少し先に進むと、また一つ吠えた。


「どこか行きたいところがあるのか?」


 子狼は少し進んでは、俺がついてきていることを確認して一つ吠えると、また少し進む。

 逡巡して、俺はその子狼についていくことにした。


 どうせ行く当てはないのだ。

 子狼と出会ったのも運命のようなもので、もしかしたら助かる可能性もあるかもしれない、そう感じた。


 まあ、最悪のケースとしては、狼の群れに連れていかれて、そこで食い殺されるという危険もあったが。

 それはそれで全力で逃げられることを祈ろう。


 子狼は楽しそうに駆けていく。

 俺を先導し、時折振り返っては一つ吠え、また樹海の先へと進んでいく。


 不思議なものだと思いつつ、俺は子狼とともに樹海を歩いていく。

 なぜか死の危険は感じなくなっていた。


「ハッ、ハッ」


 子狼は時折、楽しそうに俺の周囲を駆け回り、また俺を導くように前に出る。

 完全に懐かれてしまったようだ。


 だが、そんな気軽な俺たちの足取りとは対照的に、樹海はどんどん深く、暗くなっていった。

 これ以上進んではいけない、もう一人の俺がそう囁くほどに。


 前世の俺が、ワーウィック・エキスピアスの魂が感じ取る。

 瘴気だ。瘴気が満ち溢れ始めてきたのだ。


 これはいよいよ深部に到達したのかもしれなかった。

 

 ぱきり、と足元で音がした。

 何かを踏んでしまったようだった。


「こいつは……」


 予想外のことに俺は戸惑う。

 俺が踏んでしまったのは、人骨だった。


 ふと見渡せば、そこかしこに大量の人骨が散らばっている。

 樹海の奥になぜこんなに人骨があるのだろうか。


「グルゥウゥゥ」


 子狼が急に低く唸り始めた。

 あぁ、これは少しまずいな、そう思ったときにはすでに遅かった。


 人骨が自然とまとまり始め、人の形を成していった。

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