第11話:死闘1
心に隙ができていた。
そう指摘されれば、きっとそうだろう、としか言えない。
対人戦で圧勝したから?
そうとも言える。
身体強化や火魔法の訓練が順調に進んでいたから?
かもしれない。
ギニア大樹海に初めて入ってから、もう一年半ぐらい経っていたから?
それが一番の理由かもしれない。
夜の樹海に俺は慣れきってしまっていた。
目の前に魔獣がいた。
ある意味、有名な魔獣だ。
子供でも知っている、ありふれた魔獣。
大人は当然知っている、なぜならば、出会えば死を覚悟する魔獣。
真紅の瞳を持つ、ブラッディベア。
そいつが、目の前で二本脚で立っていた。まるで、そう俺の行く先を防ぐかのように。
背後は洞窟の壁。
そう、雨宿りのために洞窟に入ったのが間違いだった。
俺が入った後に、こいつが入ってきたのだ。
もしかしたら、このブラッディベアの住処なのかもしれなかった。
アランの二倍ほどの背丈もある魔獣が、今、目の前にいる。
威嚇するように仁王立ちして、その真っ赤な瞳で俺を睨んでいた。
ブラッディベアは前世の俺の敵ではなかった。一撃で首を刎ねておしまい、実際の戦闘時間はその程度のものだった。
だが、たとえ勝負は一瞬だとしても、気の抜けない、真剣に相手をしなければならない相手では違いなかった。
おそらくアランにとっても同様だろう。
根本的に、他の魔獣とは危険度が段違いなのだ。
鋼のような表皮に、一撃で致命傷を与える鋭い爪、すべてを噛み千切る顎、そして何より引くことを知らぬ獰猛な性格。
どれ一つとっても、並みの騎士や傭兵、冒険者では仕留めるのに苦労するはずだ。
ましてや今の俺は四歳児。
まぐれ当たりのたった一撃でも、あっさりと死んでしまう。
冷や汗が背中を濡らす。
逃げようにも、洞窟の先はない。
眼前ではブラッディベアが出口を塞ぐように居座っており、横を抜ける隙もない。
なるべく距離を取って相手がしたい。
身体強化や治癒の分を余力で残しても、炎弾は五十発程度なら使える程度には魔力の総量はある。
しかし、ブラッディベアの表皮は硬い。
炎弾では目くらましにしかならないだろう。
何発か打ち込んでみて、その隙に横を通り抜けて逃げることも考えたが、まぐれ当たりの一発を喰らう可能性を考慮してなかなか実行に移せなかった。
焦りながら思考を巡らせていると、眼前のブラッディベアが仁王立ちを止め、前足を地面につけた。
俺を凝視したまま、のそのそと洞窟の出口を動き回り始めた。
「グルㇽㇽㇽ」
野太い喉を鳴らしたような威嚇をされる。
四歳児だと舐められて、一気に噛み殺しにくるかと思ったのだが、
視線をブラッディベアから外さず、こちらも負けじと睨み返す。
仮に殺し合うにしても、洞窟の中で戦うのは避けたい。一撃でやれない以上、一撃離脱の戦い方を取らざるを得ないのだが、そのためには距離を何度もとる必要がある。
ブラッディベアが徐々に詰めてくる。
考えている時間はもはやない。
やはり、ある程度のリスクは取らざるを得ないらしい。
さらに近づいてきたブラッドベアの顔に向かっ、俺は右手をかざした。
――炎弾
炎の球がブラッドベアの額に当たって大きき弾ける。
――身体強化
――加速
刹那、俺は大きく右に回り込んで跳躍した。洞窟の壁を蹴って、ブラッドベアの横を空中で通り抜けた。
そのまま、足が地面に着く前にもう一発お見舞いする。
――炎弾
再び、炎の球がブラッドベアの顔に命中する。ひときわ高く、怒りの咆哮が洞窟内に響いた。
地面に着地した瞬間に、次の魔法を放つ。
――炎壁
発動と同時に、後方に跳躍して洞窟から距離を取る。
炎壁を突き破って、ブラッドベアが突進してくる気配はない。
ふぅ、と一息つく。
これで第一段階は達成した。洞窟から出ることができたのだ。
取れる選択肢は二つ。
一つ、出てくるブラッドベアを迎え撃つ。もう一つは、このまま全速力で樹海から抜け出す。
いや、その組み合わせという手もある。出てくるブラッドベアの相手をもう少しやってみて、やはり無理そうなら、即時撤退するという考えだ。洞窟から抜け出せた以上、その第三の選択肢を取ることができる。
そうこう考えているうちに、炎壁の効果が消えた。
洞窟の中から、涎を垂らして怒りに燃えたブラッドベアが姿を現す。
胸中、穏やかではないだろう。
炎弾を二発も顔面に受けた挙句、僅かな時間とはいえ、炎の壁で洞窟に閉じ込められたのだから。
やはり炎弾の効果はほとんどないようで、傷も血もまったく見えない。
目にでも直撃してくれれば、視界を奪うことができたのかもしれなかったが。
「グルㇽㇽㇽ、グルㇽㇽㇽ」
威嚇を繰り返しながら、ブラッディベアがだんだんと近づいてくる。
「さて、相手をするにしても、とれる攻撃手段が限られているんだよな……」
普通の攻撃ではせいぜ表皮に傷をつけるぐらいしかできないだろう。
とすると、双撃をぶち込むしかないのだが、いかんせん連発ができない。
しかも最大火力で放てば、体がもたずに、使うたび治癒がいる可能性が高いが、はてさて、戦闘中にその余裕があるかどうか。
逡巡していると、痺れを切らしたのか、ブラッドベアが一際大きく咆哮した。
涎を垂らしたまま、血走った眼で俺を睨む。
さて、きますか。
ブラッドベアが駆け始めた瞬間、すぐさま迎撃の魔法を放つ。
――炎弾
一度に放ったのは三つの球。狙いはブラッドベアの眼だ。うまく当たってくれれば視界を奪える。
すぐさま、右の空間へと体を移動させる。
ブラッドベアは顔面に一発の炎を受けて咆哮したが、そのまま真っすぐ突進してきて、俺の左翼を通り過ぎた。
――加速
そして、ありったけの魔力を込めて、後ろ足に斬撃を繰り出す。
――双撃
それは足首に直撃した。
思っていたよりも、たしかな手ごたえがあり、ブラッディベアの血肉をそぎ落とした感覚があった。
「いてぇ」
同時に、痛みで叫んだのは俺自身だった。
直撃の瞬間、ミシミシという音が鼓膜に届いていた。やはり手首への負担が大きすぎたのだ。
痛みで一瞬、体が硬直した、そう気づいたときには遅かった。
ブラッディベアのもう片方の後ろ足が俺の体を直撃した。瞬間、両腕で防御したものの、直接蹴られた左腕が折れたのが分かった。
「クソッ、クソッ」
――加速
ブラッディベアが振り向いたときには、すでに俺はその場にいなかった。
一気に距離を取り、木の幹の陰に隠れる。
――治癒
まずは左腕の骨折を治す。早く、早くと念じながら、魔法をかけ続ける。
次に、双撃の反動でダメージを負った右手首、左手首、と順に治していく。
冷や汗が止まらない。
さっきのは本当に危なかった。胸や顔面にまともに喰らっていたら、最悪即死、最低でも意識が飛んでいただろう。
駄目だ、やはりまだブラッドベアとやり合うのは早い。
撤退するしかない。
低い唸り声が耳に届く。
やつは片足に傷を負って、怒りに震えていることだろう。必死に俺を探しているに違いなかった。
匂いでここが見つかるのも時間の問題だ。
全力でこの場から立ち去ろうと顔を上げたその時――
「え?」
自然と声を出していた。
前方の茂みから、女が顔を出したのだ。
不安げな様子で、あたりをきょろきょろと見回し、茂みからゆっくりと体を出してくる。
服装からして、冒険者や兵士などではない。防具もなく、武器ももっておらず、樹海を歩き回るには無防備な服装をしている。
また、か。
どうしてこんな危険な樹海に人が何度もふらついているのか。きっとまた、ノースライト王国から落ち延びてきたのかもしれない。
「きゃぁああ!」
女が叫び声をあげて尻もちをつく。
視線の先にいるのは俺ではない。俺の背後にいるブラッディベアと目が合ったのだ。
最悪、くそ、最悪の展開だ。
女は尻もちをついたまま、じりじりと下がるが、すでにブラッディベアが女を視界に入れている。
すでに標的になっているはずだ。
身体強化と加速で成人男性以上の脚力がある俺はどうにか逃げられても、女は逃げても追いつかれてしまうだろう。
「ギャアア、ギャ、ギャ」
俺は木の陰からすぐさま飛び出し、女に向かって威嚇する。
さっさと逃げろ、と口に出したかったが、こっちの正体を知られるわけにもいかない。
「あ、あ、あぁ」
さらに現れた俺を見ても、女は涙を流しながら、後ずさりをするだけだ。
さっさと立ち上がって走って欲しいのだが、樹海の中での突然の出来事に、恐怖に襲われて動けなくなっているらしい。
くそっ、やるしかないのか。
女を見捨てるという選択肢は俺にはなかった。新しい生を受けたとしても、俺の心は前世の騎士としての生きざまを引き継いでいる。守る、それがたった一つ、神に、国に誓ったことなのだ。
女とブラッドベアの間に立ち、死者の短剣と商人の短剣を構える。
ブラッドベアは、後ろ足を引きずりながら、ゆっくりと近づいてきた。
涎を垂らしながら、怒りに満ちた深紅の瞳を俺に向けて。
勝てないとは思わない。
双撃は確かにやつの表皮を切り裂いてダメージを与えた。
攻撃が一切効かないというわけではないのだ。
だが、たった一発の反撃を喰らうだけで、こちらは最悪死に至る。
それが俺の勝率を大きく下げていた。
まずは、ブラッディベアの攻撃を避けることに専念しなければならない。
双撃は隙が大きすぎる。
確実に、すぐさま離脱できるときにしか、放つことはできない。
そうでなければ、さっきのように反撃を喰らってしまうだろう。
長丁場になりそうだ。
人を守りながら戦うというのは前世ぶりだな、と心の中で自嘲しながら、俺は短剣の切っ先をブラッディベアに向けた。
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