第5話:リリアとのひととき

 ついに俺は二歳になった。


 何と、やっと明確に両親と意思疎通ができる。

 一歳六か月頃から朧気ながら言葉が通じるようになってきてはいたが、もはやすでに長文読解を可能とする領域にまで到達していた。


 さすがに、まだ大人顔負けの奇麗な発音というわけではないが、「今日の晩はお肉が食べたい」が通じるのだ。


 今、目の前には母リリアが、この大陸の地図を広げている。俺が教えて欲しいとねだったのだ。

 何より、情報が一番欲しい。


「これがグレンディ大陸、唯一神トリスタンの治める地よ」


 アランを中心とした会合で使っている地図を見せながら、彼女は丁寧に説明してくれた。

 女神リーズではない。やはり全く別の世界か、それとも別の大陸なのか。

 

「この海の向こうには何があるの?」


 俺の問いに、彼女は困ったような笑みを見せる。


「南のアリステア連合国は、外洋の国家と貿易をしていると聞いたことがあるわね。でも向こうの世界のことまでは知らないの、ごめんね。東のギニア大樹海の先は誰も到達したことがないし、教国のさらに北は人の住めない氷の世界だし。西の連邦のさらに向こうのことも私たちには分からないわねぇ、遠すぎて」


 なるほど。

 ということは、南のアリステア連合国というところに行って、その貿易相手国を調べるのが、一番手っ取り早い皇国の手がかりを得る方法になるかもしれない。


「ママ、一番近い街はどこ?」

 

 彼女は地図上の一点を指して言う。砦からみて西の位置にあるらしい。


「辺境都市ヴァリアントね、足の速い馬の駈歩で半日ぐらいの距離にあるのよ」

「辺境?」

「ウェスク王国の東の最果ての都市だからね」


 じゃあ、リリアや俺は、さらに果ての砦の住人ということになるのか。


「何でここに住んでるの? ヴァリ何とかの街のほうが便利じゃないの?」


 子供言葉を使うのにも最近慣れてきた。

 

 リリアをお母さんと呼び、アランをお父さんと呼ぶこと自体にも愛着が湧いてきている。

 

 当然だろう、俺自身が前世の記憶があったとしても、両親から愛情を注がれれば、それに感謝もしたくなる。血がつながっているという部分も、もしかしたら無意識に感情に影響を与えているのかもしれない。


「このジリク砦はね、いくら住んでもタダなのよ。だからみんな喜んで住んでいるってわけなの」


 いや、砦を傭兵団が無料で使えるっておかしいだろ。何か魂胆があるに決まっている。


「無料ほど怖いものはないってデイサズおじさんが言ってた」


 いや、実際にはあの髭おじさんは何も言ってはいないが、ここは泥をかぶってもらおう。


「樹海の魔獣を間引きしたり、溢れた魔獣が都市に向かっていったらすぐにヴァリアントに連絡しなくちゃいけないのよ。お父さんやお母さん、他のみんなはそういう門番みたいな仕事をしているから、実際はタダってわけじゃないのよ」


 なるほど、と俺は膝をうった。


 家族などの非戦闘員も含めれば二百人にもなる一団がそれなりの都市で居を構えるとなったら、かなりの額が必要になる。

 砦に住めば、住居費が無料になるというのは十分な理由になるだろう。


 しかも、魔獣の間引きは結局、日々の訓練の代わりにもなるかもしれない。

 肉や皮は食べたり売ったりもできる。

 正に一石三鳥だ。


「あとね、たまにだけど、北のノースライト王国のほうから、犯罪者とか盗賊とかが追われて樹海経由でウェスクに入り込もうとすることがあるのよ。ノースライトから追手が出ても樹海に逃げ込めば、それ以上は追ってこないしね。大抵は樹海の中で彷徨ったままになるか、魔獣にやられるかだけど、運よく抜けてきたそういう輩を捕まえることもあるわ」


 ふーん、と俺は納得する。

 辺境都市ヴァリアントにとっては、ジリク砦に赤狼傭兵団を置くことはかなり役に立つのだろうな、と思う。


「ノースライトっていう国との戦争は終わらないの?」


 目下最大の懸念はそれだった。


 毎年、雪が解け始めると、ノースライトとウェスクの軍隊が衝突しているようだった。

 ただ、大規模な侵攻はここ数年はないようで、国境を挟んで睨み合って、散発的に小部隊が交戦をしているだけのようだったが、アランやリリアは国境警備のためにジリク砦を離れることがよくあった。


「十年前にニルベア平原で大規模な戦闘があってから、ずっとこんな小競り合いが続いている状態なのよねぇ。ウェスクの王様はもう高齢で戦場に立てる状態にないし、ノースライトのほうも後継者争いがあるらしいから、両方とも今は戦争どころじゃないんだけど、逆に停戦交渉もできないのだと思うわ」


 あれ、ノルドには少し難しい話だったかしら? とリリアが首を傾げたので、興味あるんだ、と鼻息荒く答える。


「まあ、ノルドが成人するまでは、今の状態が続いてくれたらママとしては有難いかな。こうやっていっぱいお話できるしね」


 前世のワーウィックは孤児だった。

 両親の記憶は一切ない。


 十歳のときに騎士団長ルーベルトに拾われてから、彼の養子となった。

 それからは彼が実質の父親となった。だから、母親というものが分からない。


 リリアの献身的な様子は、俺にとって新鮮なものであり、同時にとてもくすぐったいものだった。

 彼女がノルドに愛を注いでいることは、よく理解している。母親の存在とはこのようなものなのか、と。


 彼女に抱かれていると、ひどく安心し、落ち着くのだ。その匂いに包まれているだけで、気持ちが落ち着いてくるのだ。


 魔法など覚えなくてよいのではないか。

 身体強化など急いで取り組まなくてもよいのではないか。


 夜な夜な身体強化に勤しみ、もう少しすれば狩りに出てみようかとも考えている。

 だが、それを彼女が喜ぶとはどうしても思えなかった。


 リリアを悲しませてしまうのではないか、不安にさせてしまうのではないか、そう考えると心がチクりと痛む。


「あなたは好きに生きればいいの」


「それは、傭兵にならなくてもいいってこと?」


「そうね、傭兵は危険な職業だわ。ノルドがパパのようにそれを望むなら、それを止めることはしないわ。でもね、世の中にはいろんな生き方がある。何も傭兵だけに縛られることはないの」


 俺はいずれあの憎いエルダーリッチであるハーミットとの再戦を心に誓っている。

 そのためには、傭兵であれ何であれ、再び死を覚悟した戦いに身を投じなければならないのだ。


 それをリリアに知らせるべきではない。

 自然と父アランの後を継ぎ、傭兵として自らの剣を磨いていくことが自然なのかもしれない。

 

 だが、それすらも、今リリアに伝えるべきではないだろう。

 彼女は、しばらくの間、可愛い子供であることをノルドである俺に臨んでいる。

 せめて昼間だけは、彼女の見える範囲では、母親を愛する一人の子供であることに勤めよう、そう考えていた。


 彼女の膝の上で抱かれていると、睡魔が襲ってきた。


 瞼がだんだんと閉じてくる。


「おやすみなさい、可愛いノルド」


 俺は、毎日、リリアに抱かれて眠りにつく。

 優しくベッドに運ばれ、眠りについてもおなお、彼女の優しい眼差しを受けたまま子供としての一日を終えるのだ。

 

 だが、彼女が俺の部屋を去り、皆が寝静まった後、ワーウィック・エキスピアスとしての使命で俺は目覚める。


 日々、身体強化の訓練を続ける。気配を遮断し、小さな子供には十分な広さのある部屋を修行の場として活用する。


 魔力を使った身体強化にもだいぶ慣れてきて、もはや二歳なのに普通の大人と同じ程度の膂力/運動能力を手に入れることができていた。もちろん、前世の俺どころか、アランや他の傭兵にも遥かに劣るが、それでも、これなら野兎の狩りぐらいならできるようになった。

 

 聖魔法の治癒は日に何度も使えるようになっていた。治療のほうは今だ試せていないが、失敗しない自信もあった。


 最近は火魔法の訓練も始めていた。


 炎弾という初歩中の初歩だ。やはりリリアから受け継いだ血の適性があったのか、手のひらの上に小さな炎の球を浮かばせることはできうようになった。


 もちろん部屋の中でぶっ放して威力を確認するということはできないが、火の球を空中に浮かせては、それを部屋の中で自由自在に動かし、操作の精度を高める訓練をしていた。まだ、複数の炎弾を作り上げることはできなかったが、それも時間の問題といえた。


 もちろん、小さな子供の手の程度の大きさの炎弾では、野兎すら仕留めることは不可能だろう。


 しかし、牽制には十分に使える。せめて足を止めることができれば、後は、どうにか直接仕留めることができるだろう。また、仮に予期せぬ強い魔獣などに出会ったとしても、炎弾で目くらましをして逃げるためにも使い道はある。そのために、今覚えようとすることは無駄ではない。


 夜中に訓練をしていると、当然昼間眠くなる。


 やたらと昼寝を繰り返すので、リリアは俺のことを「成長期なのかしら」と勘違いしていた。

 微笑ましく見てくれている彼女のことを騙しているようで心が痛んだが、俺には俺で事情がある。申し訳ない気分にはなっていたが、昼寝を十分にとり、毎日深夜に訓練をするという日々を続けていた。


 治癒、状態回復の習得により、多少の怪我は自分でどうにかなる。

 炎弾もある程度実用的な利用が可能になっている。

 魔力による身体強化により成人男性程度の行動は可能となった。

 気配遮断、索敵である程度隠れた行動もできるようになった。


 二刀流による戦技が使えなくとも、簡単な狩りなら可能になった、そう俺は判断した。


 三歳になったとき、俺はついに、砦の外にでることにした。

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