HMDを取った後の視界は、いつも薄暗い部屋だ。まるで、絢爛豪華なグルメ映像をたんと視聴した後に無色透明の水を啜るような味気なさ……解像度が高いだけで心の栄養にはならない。それでも、仮想現実と現実の境界を未だにぐらぐらしている自分を気遣うような眼差しが傍にあるだけでも恵まれたことだと、井桁は独りでに塞ぎ込みかけた自分を戒めた。

 ナイトミュージアムの石像のように軋む腕を伸ばして、そうっと、数か月間稼働していないパソコンの電源を入れる。

 数年ぶりの休息を邪魔されたことに不平を訴えるような音が、階下から響いてくる姪っ子の駄々と、それをあやす家の人の声を押し返さんとするように勢いを増した。

「ありゃ」

 マコトは私の挙動を目にして、意外そうに口をついた。

「小説書くのなんて久しぶりじゃない? てっきり、夢破れたのかと思ってた」

「……スーザン・ボイルはそれを歌って、夢を実現させたんだよ」

「さいですか」と、心境の変化のいきさつを語る気はないらしいと察したマコトは、ベッドのへりに腰掛けていた体勢から一気に窓辺へと座標を変えて「換気しようよ」と網戸にした。

 十月の夜風が、ひゅるる、ひゅるるう……と、何かを囃し立てるような音を立てる。何か、というか、それはもちろんこの現状なんだろう。しかし、そうおいそれと認めてやるには精神的なヒットポイントゲージが足りていない感じだ。

 網戸にすると、階下で駄々をこねる姪っ子の泣き声がより鮮明に聴こえる。井桁は使い込んだ椅子に踵を乗せて回転しつつ、頭を抱えた。

 短大卒業後に家を出て、当時同棲していた彼氏と結婚した一年後に子を出産した七歳上の姉が四歳になる姪っ子を実家に連れて来たのが二か月前のこと。井桁は家の人との接触をほぼほぼ絶っているので〝なんだかワケありそうだなー〟くらいのことしか計れない。

 これまでに何度か、姪っ子が開かずの部屋の扉をノックしてきたけれど、その都度その都度で慌てふためいた様子の足音が静寂を置き去りにしていった。……まったく、人を喰らう化け物を匿っているんだと思われたとしても不思議じゃない。

 私の嘆きを受けて、マコトはカラカラ、と笑ってみせる。

あたらずといえども遠からず、ってとこじゃない? 彼らの凡庸な感性からして、君は一体全体なんでこんな風に育ったのか分からない、突然変異の化け物みたいなものなんでしょ」

 ──そうかもしれない。井桁はパソコンのディスプレイに向き合って、新規作成したWordのタイトルを『ラブドール・エンジェル』に仮設定した。

「なにそれ? どういう話にするつもり?」

「……ほら、一時期に大流行した色電話が未成年の少女にも利用されてたって、オンブズマンの裁定の時に判明したじゃん。アンモラルかつ勝気な少女って聞いた時、一番最初に連想したのがその話だったから」

「ラブドールにボイスをあてて……収益がANATAの資金にどーのこーのってやつ? まーたそんな風紀に反するようなこと書くの?」

「あくまでも、モチーフにするだけだし。私のPCの中だけで完結してることだし、こんな思いつきのタイトルでもなんでもいいの」

「いやいや。それよりさ、物語を書いていいの? 周りの人達に止められてるじゃん」

 ──君は頭がおかしいんだからさ。……言い返したくとも言い返すべき言葉が見つからずにいると──家の外からコツコツと、こちらに迫ってくるヒールの足音が聞こえた。

 些細な物音にも敏感に反応する犬猫のように身を固めていると……玄関ドアの鍵が回される音がした。

 井桁はそれでも、姪っ子を預けた張本人である姉の許へ嬉々として駆け寄ったりはしない。懐いていないし、そもそも、姪っ子の前に姿を現すことは禁じられている。

「ありゃりゃ。これじゃ当分は引き出しの中のカロリーメイトだけで生き延びなきゃだね。だけど、水分持っていかれそうだな」

 塔の上のラプンツェルのように外界を焦がれた風でいる、中学生くらいの背丈とソプラノアルトの声をした黒髪ショートヘアのマコトを無視して、私は苛立ちの音が混じるブラインドタッチに励んだ。

 しばらくして──幼子が寝静まる時間帯になって以降、ふと、階下での話し声が荒々しくなっていることに気づき、いつの間にやら窓を閉めていたマコトと目を合わせておもむろにイヤホンを装着してからは、好きな音楽と好きでいるはずの文章にのみ意識を集中させた。



 

 つと、唐突に部屋の扉が開いた。本当に唐突だったせいで、井桁は驚くよりも先に廊下の明かりを兎角眩しく感じた。

 逆光になっているシルエットは姉のそれだ。井桁は香水全般の匂いが嫌いなので、いっちょ前に不快感を煽られる。

 井桁の姉は久々に目の当たりにした部屋の内装をひとしきり眺めるような間を置いた後で、告げた。

「なんかもう疲れたって言ってるの。ショウくん」

 ──ショウっていうのは、確か、姉の結婚相手の名前だったな──と、井桁は今更ながらに思い返している。「旦那」とか「夫」とか言わない辺り、妹に対して、というよりも自分に向けて呟いているような感じだ。

 井桁の姉には感情が昂ると自己憐憫に走る傾向がある。子どもの頃にしょっちゅう起こしていた癇癪の終盤の決め台詞は「どうせ悲劇のヒロインぶってると思ってるんでしょ!」だった。

「……浮気?」

 世間の体裁に囚われている〝まともな人間〟に対して、井桁は率直に尋ねる以外の方法を持たない。

 案の定、癇に障ったらしく、井桁はよく通る声でズケズケと八つ当たられる。

「あんたにそんなこと聞かれたくない。どうせ答えたって分からないでしょ、ずっと引きこもってて、経験あるないどころの話じゃないんだから」

「さいですか」

 姉は、今度はしくしくと泣き出した。かわいそうに見える。かわいそうに見せようという気概も感じられるけれど、本当にそう見えるんだからすごいなあ。

「妹がこんなんで……遺伝の可能性もあるって知らされてるあたしの身にもなってよ。瑠璃もそうなったらどうしようって、一人で悶々としてるところにさあ! いい加減にしてよ!」

「子どものことを言うのはおかしい」

「はあ? 何様のつもり? あー、どうせべらべらと理屈を喋るんでしょ。あんた、自覚ないんだろうけど気味悪いよ。暗い本とか読んでネットばっかして、いつまで匿ってもらってるつもりなの。もっと治す気になって、社会復帰のための努力をしないと、きっかけなんて掴めないままだよ。過去のことをずるずる引き摺ってたってね、前には進めないんだから」

「…………」

 ──誰の台詞よ。

 本当はそう言おうとしてたところなんだけど、びっくり。言葉が出なくなってしまった。たぶん、さっき胃に入れたカロリーメイトが喉にこびりついたせいだ。

「いつまでもうちの両親が生きてると思わないことだね。あんた、こっから出た途端に野垂れ死にだよ」

 ──バタム。

 痛っ──片耳を指で挟むと血が出ていた。……いまはただ、あなたに消えてほしいだけ……頭の中で自動翻訳される英語の歌詞が不足した血液を補填するように片耳の穴へと流れ込んでくる。何かしら大切なことを思い出そうとするように、井桁は険しい顔をした。

「あんなに気が立っちゃってさ。きっと相当なことがあったんだろうね。例の子どもちゃんの行く末が心配でならないよ」

「……何様の、つもり」

 どうにもならない意趣返しの直後──机の上に裏返して置いたスマートフォンのバイブレーションが喧しい音を立てた。

 手に取ると……SMSからの通知だ。携帯会社や怪しげな企業からのメッセージが受信されることはままあれど、此度は文面的に、どうやら生身の人間らしい。

<助けてほしい>

 現在の心中を代弁するような文字列のみを読み取ったところで──電話がきた。そういえば、SMSは電話番号さえ知っていれば送れるんだっけ、とか呑気に考えつつ、井桁は黄緑色の通話マークをタップした。

「──もしもし。あれ、君に電話番号教えたっけ……」

『したよ。ねえ、一応確認。ビザールでいいんだよね?』

「え? あ、そっか。声……」

『今更いいよ。ビザール時代は地声でやってたじゃん』

「あの時は、資本と技術が不足してたからで……元々、自分の声は好きじゃないもんさ。君は狼少年の時のままの声なんだね。いい声してる。たぶん、言われ慣れてるだろうけどさ」

『君、君、ってさ。俺のことは〝あなた〟って呼んでくれる』

「あれ、名前じゃなくて? いまの流れは自然に名乗るそれじゃなかった?」

『そうだよ。なに、とぼけてんの?』

「……とんちき?」

『おい、とんちって言えよ。ハァ、声がどうとかよりも、こっちのほうが言われ慣れてるってーの。……俺はね、孤高の天才さんの父親に〝あなた〟って名前を貰ってるの』

「ああ、そういうことなんだ」

 少しの沈黙の後で、電話越しにでも首を傾げちゃうような、超超特大級のため息が聞こえた。

『……なんなんだよ、お前は。もう、茶化されないだろうとは思ってたけどさ』


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