ビザール


 執筆の依頼を受けたのは、小説投稿サイトに連載していた物語を見初められてのことだった。

井桁いげたさんに、新世代ヒロインを創造してほしいんですよ。分かります? この頃は現代の病魔に侵される若者が増えたと言いますか」

「はあ」

「兎角、無気力な若者が増えているんですよ。生気がないというか、ほら、例の〝アンナタ〟知ってます?」

「ええ」

「少子高齢化社会において縁の下の若者が多ければ多いほど良い50~60代の──僕を部署で爪弾きにしている上司もそれくらいの年齢なんですけど、そういう親世代に構築された異性間の婚姻やら出生率上昇やらの価値観にてられた青少年はね、心身の自立に伴って、否が応でもナヨナヨしがち、っていうか、こういう言い方こそが正にそれなんですけど、アンチ男根主義の気が出てくるんですって」

「はあ」

「……そこで、既存の価値観をぶち壊すようなアンモラルかつ勝気な少女の育成が、主にティーンを対象とする今後の物語産業の要になるんじゃないかと……井桁さん? ちょっと、聞いてます?」

「ええ?」

 海月の触手のような装飾が揺らめいている白玉色のワンピースを身に纏った、黒髪おかっぱ頭のアバターが、誤解──というほどでもない、むしろ、もっともな問いかけなのだが──を振り払おうとするように、惨めったらしい泣きべそがレンダリングされた覆面の前で、おのが両手をパタパタと振る。

「ああ、聞いてますよ。聞いてますとも。ただちょっと……自分事にも程があるんで恐縮ですけど、他人とまともな会話をするのが久しぶりで」

「へぇ?」

 一方──現実での少女は十字のベルトで固定された頭をわさわさと掻いた。しくったなあ……読者直々に執筆依頼を受けて嬉しい! ……のはいいとしても、対人コミュニケーションスキルの無さに思い至れなかったのは痛恨のミスだ。

 井桁とは、小説投稿サイトにおける少女の筆名だ。少女は以後も、依頼主が相当な熱意をもって構想している新世代ヒロイン像とやらを──ついでに「聞いてる」「聞いてない」の押し問答もボイスメモに記録しつつ、プロット制作に用いるために設けたヴァーチャル会議の場を終了する。

「話を頂けたのは非常に嬉しいんですけど、なにぶん、ここ二か月はワープロに対面していないもので。あれやこれや考え抜いたうえでのお返事は、またの機会でもいいですか?」

「分かりました、然るべき時に伺いますよ。では、また」

 ──なんせ本名以外の、それこそ筆名や仮想現実におけるニックネームの使用率の方が高いことも大いにある世の中だ。今後も少女の呼称は変わるやもしれないが、便宜上、いまのところは井桁と記述させてもらうことにする。

 井桁は肺を微かに震わせるような浅い呼吸を繰り返しつつ、出来損ないの自分が唯一必要とされる空間にジャンプした。これは文字通りのジャンプではなしに、仮想現実内での空間から空間への移動を意味する。

 ある界隈では『リトルプレイヤ』と呼称されることもある、西洋人が意匠を凝らして作った日本人形のような外見の、ヒューマンタイプにおける規格最小サイズに設定されたメイドバイ井桁のアバターは新品の落書きノート然としたルームにほっぽり出される。一方──背の順で先頭にいた憶えしかない井桁の肉体もまた一人きりの自室に閉じ籠もっている、というよりも、いっそ、隔離されていると言った方が正しいかもしれない。

 現実ではほっぽり出されたままだとしても、仮想現実での井桁はちょいとした有名人だ。

<ルームが作成されました!>の通知がフォロワーに送信されて一分も経たない内に、どこぞで待ち構えていたのやら、100人キャパのルームは満員になる。

 無数の星々が瞬いている夜空を拝める吹き抜けの天井が──パタン、パタタ──と、俗に『出荷』と揶揄される音を立てて、東西南北の順に折り畳まれた。ここから先はリトルプレイヤの独壇場──パーティーの時間だ。


 ユーザーの脳内で膨れ上がる需要に応え続けることで無限さながらな発展を遂げゆく仮想現実においては娯楽目的で開発されたアプリもそれこそユーザーの数程あるのだが、中でも井桁のアバターがリトルプレイヤの呼称で親しまれる『ナンセンス言語ゲエム』は仮想現実の隆盛初期に開発されたアプリ──それも、正式タイトルは『たのしいセカイ認識!』だし、原形のコンセプトは娯楽とはかけ離れた幼児の知育──だ。

 火を発見した猿人類のように、新しい発明品をただ享受する卑近なユーザーは余すところなく、それこそ知育アプリにまで手を出して、各々が見つけた良い点・悪い点またはユーモラスな点などを端的にひょうした呼称を好き勝手に付けては迷惑な嵐のように過ぎ去った。

 なので、井桁にとっては『ナンセンス言語ゲエム』でも、他のユーザーには別の呼称で認識されているかもしれない。〝ナンセンス〟……それは生産性の無い人間を優しく肯定してくれるようで、井桁の好きな言葉の一つだ。

 開催の挨拶もすっ飛ばして、リトルプレイヤは早速、言語をることにする。

「深緑の木々と濡れた草食動物による嵐の肯定」

 ──左利き矯正によるクロスドミナンス、もしくはモンテッソーリ教育など──あんまり率直な物言いは誰の得にもならないと分かってはいても、つい口をついてしまうのが井桁の井桁たる所以なので仕方ない──親のエゴで子の人格が歪に整えられる教育法は数多ある。

 それの全部が吉と出るわけではないということを先人達の例から学んだ親は『たのしい』……というよりもまずは無難に視覚と聴覚の両方で『セカイ認識』が出来るようにと、現状は魔法のようなコミュニケーションツールとして扱われている『ナンセンス言語ゲエム』を利用していた。

 ようするに「見て覚える」と「聞いて覚える」能力の割合をならしたかったわけだ。秀でていなければ、劣ってもいない。ステータスを一旦フラットにした後で、伸び率やら世間の需要やらを見極めつつ今後の教育方針を決定する……まるで、育成ゲームみたいに。

 ──リトルプレイヤが発話した言葉に伴って、3Dオブジェクトがたちどころにルームの中空へ浮かび上がる。

 元々、幼児の視覚認識と聴覚認識とを知育する用途で開発されたのだ。例えば「いちくち、そいち、いちのめは」と唱えれば〝頭〟の漢字の3Dオブジェクトが浮かび上がるし、大人の脳には染み付いている九九の暗唱も「しちさんにじゅういち、しちしにじゅうはち」と、聴覚認識が苦手な子供に書き起こされた数式は逐一、自動音声で読み上げられる。

 現在、リトルプレイヤがやっているこれも知育目的で開発されたシステムに依拠してのゲエムなので──『鬱蒼とした針葉樹林の森』と『短く千切れた草を食むチョコレート色の牛の群れ』……いや、こちらはリトルプレイヤの脳内イメージとはズレて『濡れたは濡れたでも無惨な齧り痕を流れ出る血に濡れたシマウマ』だった。次いで『ピカゴロと雷神の怒声めいた音を立てて』『黒雲が高い所と低い所を稲光と共に行ったり来たり』……リトルプレイヤの意図には反して、随分と不穏なスタートになってしまった。

 七秒間に設定した制限時間が、ルームの中央に半透明の色彩で浮かび上がる。

 数字を円状に囲うゲージが七周ぶんしたところで、リトルプレイヤが発話した言葉と、それに纏わるイメージを認識した十人単位のユーザー群が各々で連想した言葉を発話すると──一見しっちゃかめっちゃかな様相で浮かび上がる3Dオブジェクトがルームを彩り、リトルプレイヤに意識の同調を要求する。

 一周一秒の円状ゲージが七周ぶんののち──「無声の子供を乗せて羽ばたく赤銅色の一角獣」と、このラリーを繰り返していく内に、十人十色であるはずのユーザー各々が連想するイメージがシンクロする──というよりも、これもまた井桁が井桁たる所以なのだが──意識が同調するようにリトルプレイヤが仕向けている。

 井桁には、人の意識に組み込まれた回路のようなものが視える。……それならば対人コミュニケーションスキルもカンストしていそうなものだが、そこにはちゃんとした、井桁にとってはちゃんとした訳がある。

 例えば、井桁作成のルームに集うユーザーのように、義務やら建て前やらをかなぐり捨てた脳みそならば分かり易い──リトルプレイヤが百発百中で齎してくれるシンクロを快く堪能するユーザーの殆どはドラック中毒者か、あるいは用法用量を適切に遵守した良識あるドラック使用者だ。シラフのくせして頭がイカれている井桁にとっては、朝陽と共に目覚めて社会的に生産性ある働きに出る〝まともな人間〟よりも、己が欲求に忠実でいる彼らの意識を弄るほうが幾分か容易いらしい。

 井桁にとってのコミュニケーションの前提は〝必要とされているか否か〟であり、それこそは井桁が仮想現実に活動領域を限定している要因でもあるわけで……唯一、井桁が必要とされる空間──ヘラりスピり好き放題している連中に対するコミュニケーションスキルなど、いっそ対人、というよりも、本能のままに生きる対獣のそれに近いのである。

 彼女に必要なのは友達だ。なんにも役に立たないことや、そんなことでも自分にとっては重大な意味があるんだと億劫がらずに話ができる友達……分かってはいても、井桁は自分の頭がイカれているという考えに囚われているし、実際にそれは主観のみならず客観としても正しいことなので、遡って正確に言い直せば、井桁は一人きりの自室に隔離されたうえで、閉じ籠もっているのだ。

 すれ違いや衝突が常となった現実に疲弊したユーザーにとって、イメージが目に見えてシンクロする体験には途方もない多幸感が付随するらしい。

 十人単位で意識の同調を成し遂げた後は、また、ランダムに選定された十人単位のグループの意識を同調させる……百人キャパのルームでは、故に十×十回ぶん、こんな種明かしも何もない異様な作業を繰り返していく。

 全グループの意識を同調させた後で、リトルプレイヤは『言語連想ラリー』に参加している全プレイヤーの持ち時間を五分間に再設定する。現在利用している知育モードは『たのしいセカイ認識!』風に言うところの『言語連想ラリー』で、プレイヤーが聴覚認識にくみする<言語>と視覚認識に与する<連想>を用いたラリーを続けて、制限時間内に答えを窮すればYOU LOSE。

 ホスト──これも『たのしいセカイ認識!』風に訳せば親ということになるわけだが──ルームを作成したリトルプレイヤがリトライを承認しない限りはゲームオーバー=ルーム退出扱いになる。ようするに、五分間も猶予があって答えに窮するユーザーなどいないわけだし、シンクロの快感に飽きたユーザーは好きなタイミングでルームを退出できる、というわけだ。

 十グループ十色で3Dオブジェクト化するイメージは、新品の落書きノート然としていたルームの余白を小宇宙の連なりめいた様相に変えていく。

 リトルプレイヤは喜悦のエモートを見せつけたり、自由奔放に踊ったりしているユーザーの隙間を縫うように移動して、見知ったアバターに声を掛けた。

「やあ。楽しんでくれてるの?」

 規格最小サイズに設定されたリトルプレイヤを見下ろすように、埃を煮詰めたような色合いのファーが纏わるパーカーのフードをすっぽりと被ったヒューマンタイプのアバターがカートゥーン調にレンダリングされた黒の瞳をしばたたかせる。現実に置き換えて喩えてみるところの、脇に設置された缶・ペットボトル専用のゴミ箱と自動販売機それそのもの自体程度の身長差はあるだろうか。

 ソプラノの音程に変換された井桁の声──もとい、リトルプレイヤのチューリップボイスに反応した狼少年は「相変わらずだな」と、現実ほどの解像度には達していないルームにおいては感嘆とも嘲笑とも取れる言葉を掛けた。だからこそ、仮想現実では都合いいように物事を解釈しても咎められない。取り返しのつかない誤解の種に成り得るそんな粗さも、井桁にとっては心地いい利点の一つだった。

「点点バラバラな連想をよくも繋げられるよ。あんたには常人の目には見えない取っ掛かりが分かるんだな」

「そうかもしれないね。だけどさ、それが役に立つのは此処だけだよ。現実では大抵そういうの嫌がられるんだ。自分の意識は高尚なもんだって偉ぶりたい人が多いから……あ、蔑みたくて言ってるんじゃないよ」

「相変わらずだな。何を言ってるのかは分かるけど、何を言いたいのかが分かんないよ」

 みぞおちにジャブを喰らったみたいに、井桁は苦々し気に顔をしかめる。ただし、リトルプレイヤには泣きべその覆面が被せられているおかげで、傍目には分かったことじゃない。

「よくもそれで人の相談になんか乗ってたな」

「……昔の話だよ。いまの私はリトルプレイヤだもの」

「だけど、未だにビザールの再来を待望してるユーザーも多いって聞くぜ」

 その名前を持ち出された途端、井桁は及び腰になって、狼少年と距離を置いた。

 ビザール──嫌な過去だ。だけど、どれほど嫌がっていたとしても過去を切り離すことはできない。それが余計に嫌だった。井桁にとっては、今なおビザールの名前を語り継いでいるユーザー=嫌厭すべき過去なのだ。

 仮想現実が出鼻の盛り上がりを見せていた当初、時代は混迷を極めていたと──その時々の感情でぶつ切りにされてしまう時間の流れに呑まれている井桁でさえも、朧げにではあるが記憶している。

 ミサイルにウイルスに、さながら向こう十年で世界を破壊し尽くそうとするかのような暴力的かつ圧倒的な力がニュース速報の電波に高じて「憂うな」「喋るな」と、当時も少女だった井桁の身の上を抑圧していた。あらゆる事象に感じやすい井桁だけではない。世間で幅を利かせる横暴で不躾な再建のシュプレヒコールに、否が応でも己の無力さを思い知らされていたばかりの少年少女たちは閉口を強いられていた。

〝もっと不幸な人がいるんだから〟

 ──兵役に駆り出されて戦死した兵士、報せに涙する家族、解釈をたがえる宗教間での勝者無き争い、後遺症で人生の色彩が悉く奪われたと訴える人……目を瞑ろうが耳を塞ごうが、生きている限りは遭遇を避けられない程に氾濫する情報にうずもれる中で己の身の上を嘆く余地など、きっと無かったに違いない。

 ──プロット制作に用いるために設けたヴァーチャル会議の場で依頼主が零していたように、一括りにして言ってみれば〝VSヴァーサス〟の構図の浅はかさを見て聞いて知った自分のような人々は「生まれてこないほうがよかったのにね」と囁き合うことで心の安寧を得ていたのだ。

 ただし、自分にはお互いの考えを囁き合える誰かはないし、そもそも、ANATAのシンパじゃない──井桁は脈を確認するように、右手首をそっと握る。

 仮想現実の領域が現実を侵食し始めたのは、そんな混迷の最中だった。

 これまでにスポットライトを当てられてこなかったマイノリティの弱者に高性能の拡声器さながらな影響力を及ぼせる反逆のツール──仮想現実の領域が提供されたことで、再建のシュプレヒコールと張り合うように──一時期はマスメディアに出演する有識者各位に〝無抵抗主義〟と揶揄されたりもしていた〝アンナタ〟は、ユーザーの意識に浸透し始めた。

 理不尽が傍若無人に居座る現実に逆風が吹いた──かつて、誰かがそう言った。スピリチュアルなんぞどこ吹く風の人々も、風の時代の到来を察知した。

 ──ここからは追い風だ。とうとう、抑圧された意識が舵を取る時代がやって来た。

 そんな追い風の只中だからこそ「夢見がち」や「甘ったれ」と称されてきた井桁の〝寄り添う力〟が必要とされるコミュニティも生まれた。意識の回路を巧みに操る、俗っぽく言い換えれば聞き上手なビザールとして──異様を意味するアバターとして活動したのはその時期だ。

 抑圧に疲弊し、建て前に失望し、義務感に落胆した人々は、こぞって、明確な目標に導くわけでもないビザールの許へと率直が過ぎる話を打ち明けに来た。

 井桁はその頃、十七歳やそこらであって、しかし、普通科の高校に通ってはいなかった……井桁は、ギリリ、と奥歯を噛み締める。通信制の高校に転校する前は手酷い仕打ちを受けていた。それは、今でも井桁の脳内でフラッシュバックする程の、この世の悪を凝り固めたような記憶だが、気になる御仁はSNSで視聴できる。

 トイレの壁に頭を打ち付けられたり、地面を引き摺り回されたり……そりゃあもう惨憺たる映像なのだが、視聴回数はしかし万を優に超している。誰かしらが別のプラットフォームに切り取り流した井桁の一言が、視聴者の心を打ったせいだ。

 ──……かわいそうだね。

 仮想現実に降臨した、それこそナグサミビトと比較されるような〝癒しを齎してくれる存在〟として崇められたての当初は気づかなかったが……ビザールに話を打ち明けに来る訪問客の中にはビザールの正体を知るユーザーもいたらしい。

 隠蔽していたはずの事実が漏れていることを知った時、大抵の人間が気にするのはその出処で、井桁もまた御多分に漏れずに、それもすぐに思い当たることができた。そのせいで、人間に対する不信感が余計に増した、というよりも、それまでは不充分だったと言う方がいいのかもしれない。

 ビザールに〝酷い虐めに苦しんでいる〟との打ち明け話をした見ず知らずのユーザーにしか、例の動画の件についてを話した憶えはなかった、し、よほど印象に残っている話だったのだ。井桁は、ビザールの正体を漏洩させた張本人をいとも簡単に探し当て、問い詰めた。

 返って来た答えは「YES」で、現状の井桁とは違い、無事、過去に折り合いを付けることに成功したようなユーザーは悪気ない様子で「ぼくはその話をしてもらって勇気が出たので、他の人にもそうなってほしいと思ったんです」と、告げた。

 何もかもうっちゃってやりたくなったビザールが、それでもしばしの活動を続けた後に失踪したのは彼が自責の念に駆られないように……と、何故こうも人間に対する憎しみを駆り立てることができないのだろうと井桁自身、嫌気が差すこともある。

 今になって当時の、たかだか十七歳やそこらの人生経験も浅い少女にこぞって深刻な打ち明け話をしに訪れるユーザーが続出していた熱狂的かつ奇怪な時期のことを思い返し、次いで、ビザールの正体が漏洩していたとの事実を嫌々反芻してみれば、まあ合点がいく。

 そういう不遇な境遇があればこそ、抑圧された意識に焦点が当たる時期にウケたのだ。暴力や権力を振りかざさんとする悪い奴を、同志に溢れた仮想現実で「かわいそう」と憐れみ、嘲るムーブメントは確かに発足していた。

 自分はどこにも馴染めない──意識の同調にラリるユーザーを見渡しながら、つくづく、思い至る。あの渾身の一言は、決して殊勝な心意気で言い放ったのでも……きっと、本心でもない。

 井桁にとって、あれは精いっぱいの強がりだった。切り取り方が恣意的なだけで「やめてください」も「許してください」も数えたくもないくらいに言っている──あの時は、心が壊れる予感がしたのだ。他の誰にも守ってもらえない心を守ろうとする、孤独で虚しい、自分という存在の肯定──それが、あの言葉になった。美談として扱われるには、あまりにも血生臭く泥臭いのでも、結局、都合いい面のみを見ようとする人間の本質は変わりないし、仮想現実はそれをある程度までは許容する。

 結果、ビザールは必要とされたものの搾取された。再来を待望するユーザーも多いという又聞きからするに、それなりの恩恵を人々へ齎したのだろう井桁が得たものは、人間に対する不信、と、より明確な己の輪郭だった。

 井桁は傷ついていても、怒ることができなかった。かつての友達が一生懸命に憤慨する姿を目の当たりにして、悟った。

 ──どうして、そんなに怒るの?

 ──当たり前じゃん、友達だからだよ。

 それもそうだ。自分だって、その子が傷つけられた時は人間を憎むだろうし、比喩ではなしにどんなことでもするだろう。……その時に、ふと、目が覚めるように気づいた。

 ──自分は自分のことを、さして大事なものだと思えていないんだ。

 ……井桁は右手首を握りながら、リトルプレイヤが演出するパーティーの時間を貪るように享受する快楽主義者の群衆を、遠くのものを見るような気持ちで眺めている。

 爆笑し歓喜し踊り狂っているユーザー一人一人に聞いて回ってみれば、恐らくは百人中の百十人程度が〝アンナタ〟に肯定的な姿勢を示すはずだ。……ANATAはどうだという問いかけをすれば、先の裁定のこともあるし、多少の変動は出るだろうけれど。

 井桁が〝分かり易いもの〟として時折り僅かに愛おしんだりしている彼らはANATAのシンパではないにせよ〝アンナタ〟の思想は付け入る隙の無い理論武装として身に着けているはずだ。そのうえで「いまさえ楽しければそれでいい」と、現実で実現させれば実害も出よう迷惑な欲求を仮想現実で発散している──井桁は個人的なトラウマが起因するせいで人の目を徹底的に避けている状態にあるが故に他者から指摘されることが滅多になく、だからこそ自覚も全然だが、自身の異様な能力をそれなりに有益な形で使っているほうだ。ただし、本人にリターンは相変わらず無いが。

 ──ああ、あれだ。井桁はまたも頭の中で嫌な過去にぶち当たる。偶然、当選したチケットでライブに行った。蚊帳の外だった。花道を歩いてくるアーティストよりも、アーティストに向けられる熱狂的な眼差しの方に焦がれていた。

 まったくもって、すべてを干上がらせる砂地のような虚しさはどこから来るんだろう……きっと、イカれた頭からだろうな。井桁はぼんやりと、目を瞑っては開けたりする。なんか、頭のネジってものがあるのなら、ぜひ締めてみたいものだ。

 気づけば、ルームには誰もいなくなっていた。

<リトライを承認しますか?>のメッセージが、ホストの返答を催促するように明滅している。……またこれだ、と思う。時間の流れがおかしくなっている。

 思うに、井桁の意識は頭の中だけに特化し過ぎている。散々言い聞かされてきたことだけれど、もっと外側にも意識を向けなければ……考え事をしていると、窓の外がいつの間にやら暗くなっていたりなんてことはザラだ。

 幼い頃、公園の砂場で何かの遊びに集中していたら、近所の大人に騒ぎ立てられた挙句、駆け付けてきた家の人に引っぱたかれたことがあった。当時の心境としては「はあ?」だったが、あれはいつまでも帰ってこない自分を探しに来られていたのだ……井桁は砂を噛むように顔をしかめた。

 それにしても、一人遊びの多い子だった。トモダチコレクション──通称トモコレの3DSソフトをゲームタイトルの意味も考えずにプレイして、気まぐれに話しかけてきた女の子との通信時にギョッとされたことがあった。

 自分及び周囲の人間をアバター化してゲーム内のマンションに住まわせる、言わば仮想現実の先駆けとも称せるゲームシステムを、今とさして変わりない幼少の頃の井桁は頭の中の世界の具現化に利用した。家族や親戚やクラスメイトなんかの住民が、些細なことで喧嘩したり、色恋沙汰に発展したり持ちつ持たれつしている、それはそれで愉快なんだろう女の子のマンションと井桁のそれが大いに異なった点は、到底、ただの小学生が知り合うことはないだろう中年のおじさんが部屋数の大半を占めていたこと──この人たち、だぁれ? ……総括すれば、周囲どころか自分さえ──現実に存在する人間のアバターが一人も作成されていなかった点だ。

 女の子の顔は大いに引き攣っていたし、その時だって自分は「またこれだ」と思っていたに違いない。覆面や髪形や装いの他は使い回し中のアバターを作成する際に〝ビザール〟の単語がすぐに浮かんだのは、これまでの自分史で経験した齟齬そごの蓄積あってこそだ! ……うーん、まったくもって誇れることじゃない。

 井桁は中身を持ち去られたプレゼントの空き箱さながらなルームを畳んだ後で、ちょっくら、仮想現実をジャンプ×nしてみることにする。ここ二か月は締め切りに追われているわけでもないし……それだって別に、誰それに依頼されたのでもない──むしろ、いい加減にしろと辟易されながらも手前勝手に己が人生のタイムライン上に設定していたような公募の締め切りだし……と、ふと、井桁は先ほど終了したバーチャル会議における締めのやり取りを思い返した。

 ──あれやこれや考え抜いたうえでのお返事は、またの機会でもいいですか?

 あらゆる常識を逸脱しがちな井桁にとっての〝考え抜いたうえで〟は、鼠のそれと象の寿命ぐらいの認識の幅が生じ兼ねないほどで……ようするに、相手によりけりで長々と長ったらしい期間に感じられてしまう代物だ。しかし、井桁は相手に了承を受けたことだとはいえ一切の焦りを抱くことをしないままに自分なりの誠実さでもってのろっのろと故に不誠実だと捉えられやすいマイペースを貫き通そうとしている。だからこそ、リトルプレイヤとしての日課的な役割を終えてなおも仮想現実の散策へ向かおうと助走の構えを取れているわけで……

 井桁の諦めの良さは、家庭という社会的な最小単位の集団の許で諸々培われた人間が往々にしてそうであるように、これまでの成長過程で経験した失敗と𠮟責に形成されている。井桁が何かしらの物事を始める前に必ずと言っていいほど熟考を選択するのは手酷い仕打ちの種になり得る失敗を回避するためだし、例えばそんな熟考のペースを筆頭とする性質を前向きな姿勢で改善しようと試みられない──ようは、諦めが良い──のは、𠮟責による改善の試みからの失敗とそれによる叱責に散々思い知らされたからだ。

 自分は、自分以外になれない──残念なことだ。しかし、自分ならではの性質がやっと許容されるツールを通じて依頼されたことなんだし、甘んじて考え抜かせてもらいましょう──ただ理に適っているだけの、義務や建て前を履修済みの〝まともな人間〟からしたらあれやこれや気に喰わないんだろう屁理屈に基づいてHMD装着を続行した井桁はまたも、今度は締めのやり取りにおける相手側のラリーを若干訝しげな心持ちで思い返した。

 ──分かりました、然るべき時に伺いますよ。では、また。

 ……然るべき時に伺う? 分かりましたの一言で済んだはずだ。まあ、なんか自分には縁遠い界隈でお決まりの文言なのかな──そんなことをテキトーに結論づけた後で、井桁は嫌でも目に入ってくる情報の数々に胸騒ぎを覚える。

<全国の感染者 前週よりも2万人増>

<長距離弾道ミサイル4発が発射 着弾地点は太平洋> 

<電力ひっ迫 政府の節約要請も空しく……原発再稼働も視野に>

<個人情報漏えい 市役職員5人を書類送検>

<世界遺産認定の氷河 3分の1が消滅危機に瀕する>

 ──暗いニュースが~日の出とともに、街に降る前に……口内で口ずさみながら、前後の歌詞はなんだったっけかなと思案する。そういや、ラストダンスだ。ラストダンスを踊りませんか、暗いニュースが降る前にと……ラスト、ラストっていいな。ラストスパート、ラストデイ、後先考えずにいられるんだもんさ。明日も生きていられるか分かんない、とか、口では言っててもメメントモリを心に刻んでおくのは難しいものだ。──

 酷使されっぱなしでいる井桁の網膜には『ANATA』『演説』の文字列がリトルプレイヤの視界越しに反映されている。

 既に弱っている心をあえて痛めつけようとするように、先の裁定があって以後は一層頻度を増したANATAの集会、もといアンナタの布教演説が行われているルームへと、膨大なアバターの分母に紛れているリトルプレイヤはふらりと立ち寄った。

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 白魚さながらにか細い輪郭のみを残し漂っているアバターの群れを──一つのルームに500体以上が集えばユーザー当人のアバター以外は透明化される仕組みだ──他のユーザー視点においてはリトルプレイヤも白魚の稚魚ちぎょのような恰好になりつつ、故に注目を然程億劫がらずに移動できる。

 そもそも、リトルプレイヤとしての知名度はごく閉鎖的なものであって、透明化にもあやかれていることだしこの場にいる誰に正体を勘づかれるはずもないのだ──そんな風に頭の片隅で分かってはいても、深層の方では先ほど狼少年に掛けられた言葉が、そしてそれのせいで呼び起こされた記憶が──こちらの方は幾分かしぶとく警鐘を鳴らしていて、井桁は過去のトラウマをこれ以上刺激されないように殆ど潜在意識下で行動を選択している。

 潜在意識。風の時代が到来して間もない頃に取り上げられた言葉だ。なんでも、人間の行動の選択権は顕在意識ではなくて潜在意識が──いわゆる直感とか予感とかの、総じて〝なんとなく〟で括れるような代物が九割程度を担っているらしい。

 人間が前世のカルマを背負って生まれてくることと関係しているとかなんとかで……ようは、人間がこの世に生を享ける時に課せられるカルマ──前世が大悪党ならば今世ではそれ相応の苦行が待ち構えている、みたいな、死ぬまでに何らかの手段で達成するべきカルマノルマとやらが潜在意識に織り込まれているおかげで、人間は理屈に基づいて自身の行動を選択しているつもりでも実際のところは殆ど──例えば運命と呼ばれたりもするような操縦不可能の力によって突き動かされている……らしく。

 全部丸ごと鵜吞みにするわけではないにしても──前世があって、魂があって、リサイクルみたいにそれぞれの来世で使い回されていく、そういったお話は割にすんなりと受け入れられた井桁である。

 仮想現実の隆盛初期には、退かした枯れ葉の下の虫のような日陰出身のユーザーがわらわらと衆目に当たりだした。そして、彼等の中には物質的価値から精神的価値に大衆のフォーカスを当てようと企むスピリチュアル連合軍も相当数交じっていた。

 占星術にアカシックレコード、手相占いに姓名判断……そんなラインナップには当然、前世療法も……従来の電話形式よりかは密接に、かつ、アバターを介すれば現実に相対するよりかは気軽に相談事を持ち掛けられた。

 井桁も、とあるユーザーが開設したスピリチュアル専門のルームに現実でも親交があった友達と訪問した際、前世を思い出すに至る退行催眠とやらを試していた。〝今世で親しい間柄にある者同士は前世に何かしらの因縁があるやも〟……RMルームマスターが当初の目的である占星術占いの合間に呟いた一言に興味を持った友達が「やってみようよ」と誘ってきたためだ。

 井桁は初め、大いに戸惑った。〝前世でいがみ合っていた者同士がカルマを達成するために今世では仲を修復せんと親しくなる場合も多い〟……そんなことを事前に知らされていたうえでノリ気になった友達の方が、あの時限りでは頭がおかしかったんだと捉えられなくもない。

 ──血みどろの関係だったらどうするの。それでギスギスするようになったら目も当てられないよ。

 ──大丈夫だよ。その時はその時で、切り替えよ!

〝大丈夫〟に絶大な信頼を置いていて、そのぶん不思議な説得力も備えている子だった。井桁はその時だってまんまと折れたし、RMの要望通り素直に催眠誘導の言葉にも従った。ただ、順番決めの時に率先したのは、友達が地道な工程の途中で興味を失くしてくれたらいいと、そんな望み薄の打算があってのことだ。

〝周囲に馴染めない魂は地球出身のそれではないかもしれない〟……直前に囁かれた予備知識が作用してのことなのか、井桁がさながら実体験の如く追憶したのは見知らぬ惑星での出来事だ。


     ***


 その子は守られていた。地球で置き換えるところの馬のような生き物……それでも形状はタツノオトシゴに近い、宇宙人。小さな馬主、つまりは飼い主に世話されていて、特段、災難に見舞われることもなく生きていた。……だけど、謳歌している、とは思えなかったのだろう。

 その子は愛玩目的で飼育されていたのではなくて、求められる通りの貢献をしなければ、たぶん、生存の保証はされなかった。日毎に悲哀が増してきた。その子は、ただ安全なだけの生に満足するには世界へ抱く希望が大き過ぎていたのだ。

 今世の生存本能が阻むのか、前世の結末は規制がかかったようにぼやけている。ただ一つ明確なのは、その子は失意の内に死んでしまった。

 家出というか、脱走には成功したのだけれど、そもそもが強い種族じゃなかったらしい。慣れ親しんだ景色が映らない場所には危険がいっぱいで、それでもその子は楽しくて嬉しくて、わくわくして……決して失望ではなく、あくまでも失意だったのは、折角の自由を長く謳歌できなかったことによる──


     ***


 ──前世の記憶のくせして今世の精神を凌駕するほどに強烈な無念は、井桁に〝こんな気持ちは二度と味わいたくないぞ〟と思わせるに充分だった。

 囲われた世界の、安全地帯……奇しくも、現在の自分が置かれている状況と近しかった前世で取った行動は、希望を胸に外の世界へ飛び出すことで……それの結末として迎えた死への無念が祟って、今世の自分は外の世界へ飛び出すことを億劫がっているのかもしれない──井桁は望み叶わずに退行催眠の加減を興味津々で尋ねてくる友達に追憶したままの前世を話しては、密かに惨めな気持ちになったりしていた。

 死んだら、なにも無くなるのがいいな……──井桁は閉ざされた思考をぐずぐずと巡らせつつ、ルームの中央に浮かび上がっているサッカーグラウンド然としたスクリーンに目を向ける。──カルマノルマを果たせなければまた次の生、カルマノルマを果たせなければまた次の生……そんな輪廻は終わりの見えない宿題みたいでまっぴらだ。いま此処に集っているユーザーも、どうにかして楽に幸せになりたい連中ばかり──井桁は成仏できない亡霊のように溜まっている群衆を一瞥する──そして、それが叶わないのなら、同志で溢れた虚ろな受け皿へと消極的にもたれるばかりだ──。

 スクリーンにはANATAメンバーの演説が放映されている。女体の性的消費に敏感な層がブチッとキそうな所謂いわゆる〝萌え〟調のレンダリングを施されたアバターが〝生まれてこないほうがよかった〟との主張を重たげかつ暗い声色で訴えかけている様子はいやに不気味で、見る者──少なくとも井桁一人の心を不安にさせた。

 キラキラお目目を緩慢な速度でまばたかせては、聞き取りづらい早口でアンナタの思想を布教している。

「……だって、みなさんご存知でしょう。生きることはよいことではありません。おのずと口にはせずとも、深層では理解しているはずです。環境汚染に破壊に差別に優生劣生、私欲に塗れた統治に、ゆとりのない環境資源、それらの取り分を決める強靭かつ絶遠な勝者の腕一本、片や、血に濡れて地に伏せる敗者の亡骸、亡骸、亡骸……私たちもいずれは彼等の仲間入りをし得るんですよ。この頃の世相を見渡してみれば、どんな災難が我が身に降りかかろうとも不思議ではないでしょう?」

 パパパパッ──花火のような、或いは樹形図のような、本来規制をかけておくべき画像がルームの内壁いっぱいに映し出される──これが地球だ──演説の最中に放り込まれたANATAメンバーの一言は、何割かの聴衆の心を悲痛の断崖に追いやったはずだ。──それでも、清潔な安地から見下ろしてみれば劣悪にしか捉えようがない底辺の受け皿で同志たちと輪になって踊るには、両の踵を掛けてみないといけない──聞く耳を持たない善意で聴衆の背中を押すために、ANATAメンバーは声を張る。

「私たちによって生み出される命もまた、これから先に待ち受ける数々の苦難や混迷の波に呑まれて失意の内に潰え得る……そんなことが許されますか。いいえ、許されません。いずれ絶対に訪れる死に抗うために生殖行為に励むことは、この世界終末期において愚行であると言わざるを得ない。おっと。ここで、性欲の前提のおさらいをば」

 わざとらしく差し込まれたブリッジが、ひた隠される目論見に目ざとい井桁の眉根をつまむ。

 ANATAメンバーを大アップで放映中のスクリーンには解体新書に記されるような生殖器の図解と厳めしい翁の人物画が──あれは確か、アルトゥール・ショーペンハウアーだ。約160年前にアンチナタリズムを思索していたドイツの哲学者……現オンブズマンのポップスターと同様にANATA内部では賢者認定されているらしい彼の著作やらWikipedia引用文やらが何やら仰々しい演説の合間合間に差し込まれる。

「性欲とは、言わば種の本能。生命のサイクルを続かせようとする種の本能は、個体の意識を基本的には凌駕している──しかし皆さんにも、特に種付けの役目を生来負わされている男性諸君には心当たりがあるでしょう。生殖行為を終えた後に押し寄せる悲哀と後悔の波、あれは種の本能に個体の意識が打ち負かされたことによる敗北感から生じるもので、俗に、賢者タイムと称されています。そして、賢者とは真理を正しく認識する者……勘のいい方は既にお察しでしょう。私たちの意識は、命を〝生まれてこないほうがいいもの〟と認識している──」

<こじつけだ>

 ミュータントタイプのアバターが漫画の心情描写めいた異議を申し立てる。

 ルームの設定上、聴衆はお静かにする他ないもののコメントを打つこと自体は制限されていない。各々のユーザーが打ち込んだ感想はさながら亡霊の内臓めいた様相でぼんやりと浮かび上がっている……ざっと見回す限りでは演説に否定的な意見:肯定的な意見は6:3の割合、残りの1割に該当するアバターはリトルプレイヤと同様に地蔵でいる。

 ──こじつけだ、って、そんなのは主観の前提だ──井桁はANATAメンバーを擁護するわけではないにしろ、と言っても、独りでに考えていることなので擁護もへったくれもないわけだが仮にコメントとして打ち込めばANATAに肯定的とも捉えられそうな感想を独りでに抱く。──まことなど、在って無いようなものだ。ましてや、この世に生まれてくることの真理なんて……

 お互いの主観が正当に重なり合う部分が客観的事実と見なされる。いま此処で繰り広げられているのは相容れない主観のぶつかり合いで、<こじつけだ>と紛糾するユーザーにとっては不当な押しつけでもあるらしい。

 既にオンブズマンの裁定のために結末は見透かされているにしても、仮想現実の隆盛初期に勃発したアンナタVSリビドーとやらの場所取り合戦は、なおも熾烈を極めている。

「……生きていればその内に良いことが起きるだろう。そんな言葉は慰めになりません。なぜならば、私たちは正にそのように見過ごされてきた。良い面だけに目を向ければ何も考えなくて済むもの、良いこととは往々にして都合のいいこと……あぶれ者は憫殺びんさつされるより他になし。そんな長年の風潮に冷笑を投げていたのが、現状はオンブズマンとして仮想現実に再構築されたの──」

 途端、俄かに聴衆がぞめき立つ。

 真剣に傾聴しているユーザーなんてこの場に集う面々の二割にも満たないだろう。ANATA関連のルームに入室するユーザーは──井桁も含めてになるが──野次馬精神が動機の出歯亀が殆どだ。

 オンブズマンの裁定に纏わる陰謀論……そんな芳しい話題の走りに誘発された俗っぽいコメントの数々を見受けたのか、真剣にアンナタの扇動を企んでいるらしいANATAメンバーは早々と彼の人の話題を切り上げて、声高々に宣言する。

「私たちが種としての本能に抗い、個体として打ち勝たなければ、生の悲劇はいつまでも繰り返されるままなのです! ……」

 それでも、一度ひとたび噴出した好奇を押し留めることは難しい。

 力無くした両の手を眼前に交差させておろおろと後退るアバターの様子は、当初の扇動目的からは大いにズレた結果を体現している──誰かが散々な目に遭う様を見るのは面白いなあ。これは陰険な思惑のうえで成り立つ感情ではなくて……いや、多少なりともあるにはあるんだろうけれど、自分的にはもっと、さっぱりした感情なのだ。

 上手くいかなかったことを粒立てるだけ粒立てて面白がることはできるし、それをしたくなる時もあるわけなんだけど、あくまでも寄り添う気概があっての意地悪心。失敗続きが常の自分からしてみれば表で同情されつつ裏で貶されるよりも、端っからカラリと笑い飛ばされた方が楽しくなれる余地があってまだいい。

 どうせ、例えば血縁関係にしても自称ANATAのシンパにしても、表向きの態度でのみ推し量れる心意気が純度百パーセントの労りかどうかを見極めることはできないし、現状を見渡してみれば事実は明瞭過ぎて、いっそ目を細めちゃうくらいだ。

〈ぐだぐだと文句垂れてばっかいんなよ〉

〈陰謀論者ってマジでどういう頭してんの〉

〈モテない人生だったんだろうな……分かるよ〉

〈生殖撲滅とかって風紀乱してるし〉

〈盲目ここに極まれり!〉

 アンナタを〝無抵抗主義〟と揶揄していた有識者各位に与するようなコメントが多数見受けられる。腹黒い内臓が見え透けるアバターに元・ANATAシンパのユーザーがどれくらい紛れ込んでいるのかは計れないものの、ANATAを巡る一連の流れに群集心理が働きっぱなしであることは──有識者各位が現状を分析しているように──確かなんだろう。

 都合いい面のみを見ようとするのは保身の本質で、自分かわいさを行動選択の主軸にせんとするユーザーは我が身へ力の矛先が向きづらい群衆に紛れる……その結果として生じるのがアッチに倣えコッチに倣えの自動人形状態、これは、ギュスターヴ・ル・ボンだったか。

 けれども、群衆に紛れられない人間もいる。それは言うまでもなく自分みたいな奴──むしろ紛れるというよりも馴染むことができなくて……〈こじつけだ〉などと紛糾してみせるユーザー各位への私怨を顧みずにいられたらば、いっそ楽に生きられただろうになと思わされることもしばしばある……かと言って、ANATAに与しているというわけでもないのだ──井桁は右手首をそっと握る──齟齬に齟齬に、齟齬に齟齬齟齬齟齬齟……さて、今の所では何回〝齟齬〟と出たでしょう、なんて無意味な閑話休題はさておき。度重なる齟齬による生傷はあまつさえ人の目に触れるたんびに沁みるのだ。

 そのせいで生じる痛みを避けるための選択肢は1.群衆に紛れるか 2.主観にしがみつくかの二択であって、齟齬を億劫がる側面では両者とも──〈こじつけだ〉などと声を揃えて紛糾中のユーザーも、あくまで我がが我ががを押し通そうとするANATAも──イコール同じ穴の狢だった。

〝仲良くすればいいのに〟

 あの子なら、そう言うんだろう──つと、井桁はかつての友達を思い起こすのと同時に、現在の自分を取り巻いている状況に思い至る──ああいう、正しい光が必要だ。引き戻せるものなら引き戻したいものだけど、それにしても今この後ろ暗さを色濃く照らされるとキツイらしいと察してもいる──結局、齟齬を億劫がる側面では井桁だって同じ穴の狢だが、別な側面では別格とも言えるために同調は此処でも叶わずにいる。

 ──良い面だけに目を向ければ何も考えなくて済むもの、良いこととは往々にして都合のいいこと──分かっているじゃないか。誰も彼も、分かっていないのは自分の事ばかりだ……紛れるのも主観にしがみつくのも、それらが都合いいことだからに他ならないのに、まるで自分達だけは真理を認識しているつもりで熾烈な場所取り合戦を繰り広げている……こんな流れは、異常だ。こんな流れを異常だと認識できる自分は、唯一まともな人間なのだ──という訳では勿論ない。

 井桁の井桁たる所以の真髄は〝よく視ること〟だ。

 つまるところ、それは自分の気持ちをも直視せずにはいられないということでもある。そのせいで人よりも多くの齟齬に打ちのめされてきた──なればこそ、普通は保身を求めて群衆に紛れるなり、私怨に任せて主観を押しつけるなりするのでも、自分にはそれが正しいことだとは思えない。

 此処には自分の正しさを信じて疑わない連中ばかりだ。しかも具合の悪いことに、成り行きで何がしかの決着が付く時まで熱狂するつもりの……群衆を羨ましく思うのと同時に、怨めしくも思う。

 だからといって、ANATAがやっているように我がが我ががを押し通そうとは思わない。否、思えない。たとえ、一度ひとたび熱狂に陥れば──自分の都合いいように物事を解釈してしまえば楽になれるんだと分かってはいても、それをしようとは思えないのだ。

 ──アイツのこと、無視しよう。先にやってきたのはアイツなんだし、自業自得だよ。

 でも、それをするのは悪いことだと思っている。

 ──ねえ、そんなに二人仲良かった? ほんとに庇うつもりならブロックしなくていいけど、そーいう偽善大嫌いだから。そのことは把握よろしく。

 でも、それをすれば相手が傷つくと思っている、し、何回かは身をもって思い知らされている。しかも生憎このこれは、誰かを攻撃して悦べるような感受性の器じゃない。ただし、誰かに攻撃されて響かないほど空ろでもない……けっ、死ねってか…………死ねってことだろうな。いつかの言葉の通りにさ。

〝分かっている〟のと〝思っている〟との行動選択の比重を、どうしても後者に傾けてしまう──だからこそ、同調を前提とするコミュニケーションに落伍らくごしては周囲の人々との齟齬に打ちのめされてきたのだ。

 そんな人間が一時ひとときでも、たとえ閉鎖的な空間だとしても必要とされたことに、井桁は微かな希望を抱いていた。

 自らの行動を義務や建て前に甘んじて操縦される〝まともな人間〟も、本心では〝思っている〟通りに生きたいのだと──そもそも、本心とやらが確かにあるのだ、と。ビザールやリトルプレイヤを通じて〝偽善〟だの〝異常〟だのと下されてきた自身の性質が素質になった時は、真に生きていると感じられた。この世に生を享けたことの祝福を、その時は確かに──

「生の悲惨さに貫かれないと、貴方たちは生きる意志を手放せないんだな」

 ──じくり、と耳が痛んだ。口を閉ざした思索のために閉じられていた鼓膜が、ANATAメンバーの言葉で無理にこじ開けられたせいだ。

 曖昧な輪郭を纏った言葉には理不尽な事柄を想起させる言霊ことだまが宿っていて──井桁の脳内でしづしづと顔を覗かせていた祝福の記憶は、もうすっかり深層の方へと押しやられてしまっている。

 ANATAメンバーは相も変わらずに頑固な主観をもって、対外勢力を従わせる気概はあっても納得してもらう気概が更々感じられない宣言をした。

「オンブズマンの裁定がANATAを陥れるための陰謀だと証明できれば、貴方たちはまた〝こちら側〟に引き込まれてくれるんだな? ならば、必ず周知の事実にしてみせよう。今度はもう二度と、以前と同じ視点で世界を認識することはできなくなるぞ……」

 目に見えている禍々しいコメントの嵐が視界を荒らすよりも前に退室してったリトルプレイヤはしかし、井桁の頼りない胸を騒がせるには充分過ぎる程に不穏な台詞を、去り際、聞き取ってしまっていた。


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